levante2019の旅日記

YAHOOブログの終了に伴い、引っ越してきました。 アメリカ3年、ドイツ3年の駐在を終え、2019年3月に帰国しました。 自転車やウォーキングなどを中心に日々の活動を紹介しています。

フランス旅行記

家族との北フランス旅行 その6 ~パリ観光 その2

2018年8月19日(日)~26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

8月25日、8:00にホテルを出て向かったのはルーブル美術館。


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ルーブルの北側にある、パレ・ロワイヤル広場(Place du Palais Royal)で見たホームレスの方々。
パリはホームレスが多いですが、このように露天に、ごろ寝が多いです。
湿気が少ないので夜露も少ないのでしょうね。
でも、中にはテントを常設している強者もいました。

それにしても、左の方は、地面にうつ伏せに寝ていますが、苦しくないのかな?


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ルーブル美術館の西にはカルーゼルの凱旋門があります。
パリの凱旋門としては、シャルル・ド・ゴール広場に建つエトワールの凱旋門が有名ですが、パリには4つの凱旋門があり、この他はサン・ドニ凱旋門、サン・マルタン凱旋門があります。
なお、カルーゼルの凱旋門からエトワール凱旋門の延長線上にあるグランダルシュ(偉大な門)は、戦勝を記念する「凱旋門」ではありません(日本では一部で新凱旋門と呼ばれているようですが)。

このカルーゼル門もナポレオンの戦勝を記念して作られ、完成当初、門の上にはヴェネチアから奪ったサンマルコ寺院の四頭の馬の像が乗っていたそうです。(今はヴェネツィアに返還されています。)


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前回は、入り口から順に回って、人混みにもまれた、ダ・ヴィンチの「モナリザ」。
今回は開場ダッシュで行って、近くで見る事が出来ました。


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ラファエロの「美しき女教師」


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カナレットの「サンマルコ広場の風景」。

これらの絵画は2016年の訪問時のブログでも紹介していますが、好きな絵なので再度紹介しました。
なお、2016年の訪問時の事は以下のブログで紹介しています。


以下は、前回のブログで紹介しなかった作品を紹介します。


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私の守護神(?)アテナの像です。


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  左:Jean Auguste Dominique INGRESの「シャルル7世の戴冠式でのジャンヌダルク、ルーアン大聖堂にて
     (Jeanne d'Arc au sacre du roi Charles VII, dans la cathedrale de Reims (1429))」 (1780年作)
  右:Paul DELAROCHEの「若い殉教者(La Jeune Martyre)」 (1855年作)


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  左: Antoine Jean GROSの「ヨアヒム・ムラットの騎馬像、1808年から1815年までのナポリの王
     (Portrait equestre de Joachim Murat, roi de Naples de 1808 a 1815)」 (1812年作)
  右: Theodore GERICAULTの「近衛猟騎兵の兵士
     (Officier de chasseurs a cheval de la garde imperiale chargeant)」 (1812年作)


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Jean Auguste Dominique INGRESの「グランド・オダリスク (横たわる女奴隷) 
(Une odalisque, dite La Grande Odalisque)」 (1814年作)


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サモトラケのニケの像は、今回も人だかりがしていました。


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時刻は既に11:30になっており、美術館のカフェ(テラス)で昼食を取りました。


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テラスから見た美術館の中庭。


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再び、アテナの像。


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有名なミロのヴィーナスです。
が、前回同様、今回もこの周りには人が少なかったです。
日本人が思うほどの人気は無い?


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14:20に美術館の見学を終えました。
広くて展示品の多いルーブルの見学は、やはり時間がかかりますね。

ピラミッドの中では、日本の名和晃平氏の「浮遊する空位の玉座」が展示されていました。
2018年7月から2019年1月14日までの臨時展示だそうです。


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面白かったのは、ピラミッドの中のリフト。
丸い筒がそのまま上下して人を運んでいました。


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美術館からコンコルド広場まで歩きました。
この広場には、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていましたが、フランス革命で、騎馬像は取り払われました。革命中、この広場は処刑場となり、ルイ16世やマリーアントワネットを始めとする1000名以上の人がギロチンで斬首されました。

右の塔はルクソールから運んだオベリスクで、左にはエッフェル塔が遠くに見えています。


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更に、家族が歩くと言うので(少し驚きました)、シャンゼリゼ通りを凱旋門まで歩きました。


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シャンゼリゼ通りにあった、ファイブ・ガイズ・バーガー。
アメリカでよく食べたチェーン店ですが、ヨーロッパで見たのはオランダのアイントフォーフェンに続いて二軒目です。


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クスミ・ティーを発見。
妻がここでお茶を購入しました。


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ナポレオンの戦勝を記念して建てられた、エトワールの凱旋門。
ここでは、多くの観光客が記念撮影していました。
決して、おじさんを撮りたかったのではありませんが、家族を長く待たせる訳にもいかず、これが今回のベストショットです。


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凱旋門の屋上から見た景色。
シャンゼリゼとエッフェル塔、アンヴァリッドが見渡せます。


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凱旋門を降りると何か式典の準備をしていました。
8月24日は、第二次世界大戦で連合軍がパリに突入した日で、その記念式典と思われます。
しかし、式典の手際が悪く、きちんと整列するまでに、皆、右往左往していました。


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凱旋門からシャイヨー宮(Palais de Chaillot)に地下鉄で移動し、宮殿のテラスからエッフェル塔を望みます。
この後、エッフェル塔の下まで行ったものの、人が多く今回も塔には上りませんでした。

エッフェル塔の見学後は地下鉄のビラケム駅(Bir Hakeim)に移動し、近くのレストランで夕食を取りました。
この時、時刻は20時をまわっていました。

なお、ビラケム駅の名前は、第二次世界大戦の北アフリカ戦線での戦いの一つ、ビル・ハケイムの戦いから来ているそうです。


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まずはビールです。


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この日のメインはスパゲッティでした。


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夕食の後は、地下鉄のビラケム駅から地下鉄に乗り、シャイヨー宮のテラスに戻って、エッフェル塔の夜景を堪能しました。

21:30にテラスを離れ、ホテルに戻って就寝。


明けて12月26日の朝は、ホテルで少しのんびりした後にチェックアウトし、荷物を駐車場の車のトランクに押し込み、最後のパリ観光に出発。
妻と娘はオランジュリー美術館に向かい、私と息子はアンヴァリッドを再訪しました。


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この日は晴天で、建物も映えています。
Paris Museum Passは、見せるだけで記録は残らないので、同じ博物館に何度でも訪問できます。
昨日は、かなり駆け足で回ったので、息子が再訪を望んだので行きました。


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ナポレオン廟も再訪。


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軍事博物館にあった、城塞都市の模型です。
フランスのプロバンス地方のアンティーブ(Antibes)の模型。


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マルセイユの要塞です。

この後、第一次世界大戦と第二次世界大戦の展示を見学し、13時にアンヴァリッドを出ました。

妻、娘と13:30にホテルの前で合流し、車をピックアップして空港へ。
15:00過ぎに、無事家族はチェックインを済まし、日本に帰りました。


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私は、この日は、空港近郊のAirport Hotel(住所:15 Rue du bois, 77990 Mauregard)に宿泊。
ここは場末感の漂うモーテルでした。その分、宿泊費は安かったですが。


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私にとっての最終日の8月26日は、朝にホテルを出発し、ミュンヘンまでの約830kmを、トイレと給油以外は停車せず、約8時間で走りました!

上の写真は、13時にライン川を渡河した際の写真。
やはりドイツに戻ると、ホッとしますね。

アパートに着いたのは16時。
溜まった衣服を洗濯する時間が取れました。(笑)


終わり。





家族との北フランス旅行 その5 ~パリ観光 その1

2018年8月19日(日)~26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

8月24日~26日は、パリ観光です。

なお、パリは2016年10月29日~11月2日に訪問し、以下のブログで詳細に紹介しています。
興味があればご覧ください。



8月24日は朝の6:30から、車を路駐→地下駐車場に移動させた後、ホテルで朝食を取り、8:40にホテルを出発。

地下鉄の1日券を購入しましたが、料金は7.5ユーロ/人でした。
ところが、次の日に2日券を購入すると、料金は19.5ユーロ/人でした。
2日券にすれば、1日当たりの料金が安くなると思ったのですが、逆に高くなっています。
良く調べると、初日は市内の1-2ゾーン限定の1日券で、二日目は1-3ゾーンの2日券でした。
一般のパリ市内観光は1-2ゾーンで十分なので、購入の際はご注意を。


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この日の観光はオルセー博物館が最初です。

前のブログでも言いましたが、今回はParis Museum Passを購入しており、市内の博物館は個別にチケットを購入せずに入場出来ます。
オルセーでは一般客は写真の左側から入るのに対し、Passの保有者は右側から入ります。

Paris Museum Passは4日券で62ユーロ/人。(さらに事前に郵送したので、郵送料も別途かかりました。)
元を取れるかは微妙な所ですが、購入の列に並ばずに済むのは大きなメリットだと思います。
なお、パリの博物館は18歳以下は入場無料となるため、娘の分は不要でした。

とは言え、オルセー博物館には9:30の開館の40分前に着いたので、一般客もまだおらず、Passのメリットは無かったですが。


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オルセーの前に並ぶ彫像。
各大陸を女性(女神?)で体現させた像です。
(手前から、欧州、アジア、アフリカ、南米、北米、豪州です。)


9:30にオルセーに入場し、まずは5階の印象派のフロアーに直行しました。


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モネの「アルジャントゥイユの橋(Le Pont d'Argenteuil)」(1874年)
パリの北西にあるアルジャントゥイユの風景は多くの印象派の画家が描いています。

私は写実的な絵が好きですが、印象派の絵は明るい色使いと共に、写実性が無くともリアルに見え美しいですね。




ルノワールの「都会のダンス(Danse a la ville)」(1883年)
風景画の多いモネに対して、ルノワールは人物画が多いです。
私はこの絵を見ると、リョーユーパンのCMを思い出します。(笑)


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ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会(Bal du moulin de la Galette)」(1876年)


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オルセー博物館の5階からは大時計を通してモンマルトルが見えました。


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5階から見たオルセー美術館の全景。
元は1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて建設された、オルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルでした。
確かに美術館としては不自然と思っていましたが、駅舎としてみると納得です。
オルセー美術館は1986年に開館しました。


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2階にはゴッホの自画像(1889年)があります。
でも、ゴッホの絵はリアルさが失われ、私はあまり好きでは無いです。


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中世の彫像を思わせる展示がありました。
Eugène Guillaumeの作った像に、Alexandre Denuelleが彩色した、「聖クロティルダ(Sainte Clotilde)」で、1854年の作。



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Auguste Glaizeの
「ガリアの女性たち: ローマの侵略のエピソード
 (Les Femmes gauloises: episode de l'invasion romaine)」 (1851年)
美術館の開場を待つ間、我々の前に、この絵の女性の顔をアップにしたポスターがあり、息子とその迫力を話していました。


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Tony Robert-Fleuryの「 コリント最後の日(Le Dernier jour de Corinthe)」(1870年)


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有名なミレーの「落穂拾い」(1857年)


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同じくミレーの「晩鐘」(1857-59年)


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アングルの「泉」(1856年)
これもルネッサンス後期の絵画を思わせる絵です。


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ローザ・ボヌールの「ニベナを耕す(Labourage nivernais)」 (1849年)
近づいてみると印象画の描き方ですが、離れてみると、とてもリアルに見えます。


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フレデリック・オーギュスト・バルトルディの「世界を照らす自由(La Liberte eclairant le monde)」。
彼が制作した、ニューヨークにある「自由の女神」は、1878年のパリ万博に頭部を展示し、その後も寄付を募って、1884年にパリで仮組みされ、アメリカに送られました。
この像は、オルセー美術の前身のオルセー駅舎を建設する際の1889年に作られ、ここに設置されました。

12:00にオルセー美術館を出ました。


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美術館の前のベルシャス通り(Rue de Bellechasse)にあるイタリアンで昼食を取りました。
家族と一緒なので、今回の旅では、ちゃんと昼食を取っています。(笑)


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昼食後に行ったのはアンヴァリッド。
ルイ14世が傷病兵を看護する施設として1671年に計画し、1674年に完成。

正面のドームはナポレオンの霊廟です。
また、当時の傷病兵の宿泊所は、現在は軍事博物館になっており、中世、ナポレオン時代、第一次世界大戦、第二次世界大戦と幅が広く、見がいがあります。

軍事博物館は、2016年10月に訪問した際に、以下のブログで紹介していますので興味があれば見てください。

ここでは、前回の訪問で見れなかった、第一次世界大戦~第二次世界大戦の博物館の展示物を紹介します。


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博物館に向かう階段のホールに展示された、フランスの名戦車ルノー FT-17。


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第一次世界大戦のコーナーでは、日本兵の軍服も展示されていました。


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第一次世界大戦と言えば塹壕戦。
塹壕から顔を出さずに打つことのできる、塹壕戦専用の銃も、多く開発されました。

第一次世界大戦の展示は充実していましたが、史実の紹介が多く、あまり写真を撮っていません。
続いて、第二次世界大戦のフロアーです。


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ドイツ軍の二号戦車F型の砲塔。
私は、ドイツらしい、この角ばった砲塔が好きです。


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フランス軍のルノー R35の砲塔。
ドイツ軍と比べると、流線形です。
性能面でのデザインは、こちらの方が優れていると思いますが、美しくないです。(笑)


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ルノー 31R UE 歩兵用補給車。
歩兵に弾薬を補給するための車両で、最前線での補給用や軽牽引車として使われたようです。


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珍しい車両なので、後ろからの姿も紹介します。


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空中投下用の折り畳み式オートバイです。
空挺作戦で使われたのでしょう。

展示の最後は階段に設置された、ドイツのV1、V2ロケットでした。


15時にアンヴァリッドを出た後、地下鉄でシテ島に移動しました。
シテ島では、まずコンシェルジュリー(Conciergerie)を訪問。
元は14世紀に作られた宮殿ですが、後に牢獄として使われました。
処刑前のマリーアントワネットも、ここに投獄されていました。

2016年の訪問を以下のブログで紹介しています。



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シテ島のサント・シャペル(Sainte Chapelle)です。
ステンドグラスに囲まれた、この教会の内部は、本当に美しいです。


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サント・シャペルは二階建てになっており、一階も、とても美しい装飾です。


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パリのノートルダム大聖堂。


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シテ島からサン=ルイ島に移動。
写真はサン=ルイ島で会ったネコ。
ご主人に扉を開けてもらうのを待っていました。


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サン=ルイ島で見かけた、お洒落なスイーツ屋。


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モルラン通り(Boulevard Morland)にあった、アーセナル(Pavillon de l'Arsenal)。
1878年-1879年の建築。


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バスティーユ広場に来ました。
フランス革命の発端となる、バスティーユ牢獄の襲撃事件が発生した場所ですが、革命後に牢獄は破壊され残っていません。

右の写真は、そこにあった広告塔。
日本のアニメのように見えますが、家族全員知りませんでした。


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バスティーユ広場の北東にあるケレ通り(Rue Keller)です。
息子がネットで調べた、パリのオタク通りです。
確かに、漫画ショップやコスチュームショップが数店ありましたが、絶対数は秋葉原などとは比べるべくも無かったです。(笑)
でも、漫画屋で扱っている漫画の種類は豊富で新しかったです。
折角なので、漫画屋で息子と娘がフランス語版の漫画を買いました。


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通りにあった歩道のポスト。
目玉おやじ?


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コスプレ・カフェもありました。(笑)
店内を覗いていませんが、コスプレをした店員がサービスしているのか、コスプレイヤーが集まるカフェなのか???


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この日の夕食は、バスティーユ広場のそばの日本食レストラン。
寿司は、まあまあでしたが・・・


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焼き鳥、特につくねは微妙な味。
お腹いっぱいになった事もあり、私にしては珍しく完食できませんでした。


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この日の最後は妻の希望で、ルーヴル美術館の北にある、パレ・ロワイヤル(Le Palais Royal)に立ち寄りました。
当初ここは、ルイ13世の宰相リシュリューの城館でしたが、彼の死後に主君に寄贈され、ルイ13世の死後、1643年に当時5歳のルイ14世が移り住んだことで、パレ・ロワイヤル(王宮)と呼ばれるようになりました。

と言いつつ、上の写真はその横にあるカフェ。


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これがパレ・ロワイヤルです。(2016年の撮影)

この後、少しルーブル美術館周辺を散策して、ホテルに戻りました。

パリ観光 その2に続きます。


家族との北フランス旅行 その4 ~ベルサイユ宮殿とトリアノン宮殿

2018年8月19日(日)~26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

8月23日の12:00にルーアンを出発しパリに向かいますが、途中ベルサイユ宮殿に立ち寄りました。


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14時過ぎにベルサイユ宮殿に到着。
パリ市内の博物館の見学のため、Paris Museum Passを事前に購入しており、ベルサイユ宮殿もPassでカバーされています。Pass保持者は、個別にチケット購入する必要が無いので、直接入場の列に並ぶことが出来ます。

今回、ベルサイユ宮殿は、時間の都合で宮殿のみを見学しましたが、庭は2017年4月17日に見学しており、下のブログで紹介しています。


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ベルサイユ宮殿内へは中央棟の南東端から入りますが、建物を入るとすぐに中庭を抜け北側の建物に移動しました。上の写真は北側に入った所。
ここで、再び入場チェックとガイドフォンの提供(有料)があったので、館内の地図が無いか聞いたところ、今来た南側の建物にあるとの事。
家族を置いて戻るのも少し気が引けたのと、入り口の混雑に戻るのが嫌だったので、結局諦めました。
(見学のメインとなる二階の地図は、二階に上がった所にありました。)


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王室礼拝堂です。
1699年から建築が始まり、1710年に完成しました。


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   左:礼拝堂から二階への階段に向かう廊下。
   右:そこにあったルイ7世の像。何も成果の無かった第2回十字軍に参加した
      ぐらいしか結果の無い王でした。


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二階に上がって最初にある部屋が「ヘラクレスの間」。
王室礼拝堂が完成する前は、礼拝堂があった場所で、1712年に着工し1736年に完成しました。
金と、色大理石に覆われた壁に、美しい絵画が加わり、豪華そのものです。
 
 
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「ヘラクレスの間」の天井画


宮殿中央塔の北側の二階には、この「ヘラクレスの間」から、「豊饒の間」「ヴィーナスの間」「 ディアナの間」「マルスの間」「メルクリウスの間」「アポロンの間」と続いていますが、かつて王の居間として使われていました。

これらの部屋の写真は、攻城記で紹介しています。


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「アポロンの間」に続くに部屋は、北西の角にある「戦争の間」。
ここは「鏡の間」(中央部に見えています)に入る前の控えの間として使われたと思われますが、フランス王家の栄華をアピールするため、とにかく豪華です。


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天井は勝利の女神が描かれています。


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「戦争の間」の「アポロンの間」に面した壁には、ルイ14世の騎馬像が、楕円形の縁に化粧漆喰の浮き彫りで描かれています。これはコワズヴォ-作だそうです。


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ヴェルサイユ宮殿の一番の見どころとなる、「鏡の間」。
この部屋は長さが73mあり、西に面した建物のほとんどを占めています。
「鏡の間」と言うより、「鏡の回廊」と言った方がイメージに合いますね。

1687年に完成した、この豪華な部屋は、その後、各国の宮殿造りに影響し、いくつもの城で「鏡の回廊」が作られました。ヴェルサイユ宮殿の建物を、まんまコピーした、我らがルーちゃん(ルードビッヒ2世)もいますが。(笑)

ヴェルサイユ宮殿もフランス革命の際に革命派から破壊を受け、当時の物は天井からつるされたシャンデリアのみだそうです。
今は、1770年の王太子(のちのルイ16世)と、マリーアントワネットの婚儀がおこなわれた当時の装飾に復元されているそうです。 

また、1871年に、この「鏡の間」でドイツ皇帝の即位式が行われ、1919年に、ドイツ代表が「ヴェルサイユ講和条約」に調印しました。 


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「鏡の間」は、内部の装飾だけでなく、面した大庭園の景色も含めて、フランス王家の威光を来場者にアピールしました。


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「鏡の間」の東側には、王のプライベートな部屋が並びます。
と言っても、フランス王にプライベートは無いのか、東の部屋は「閣議の間」。
王が諮問(財務諮問や国務諮問)を召集し、ここで話を聞きました。


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その隣には「国王の寝室」があります。
就寝はもちろんですが、軽い晩餐を取ったり、朝や夜の引見も、ここで行われたそうです。
1715年9月1日にルイ14世が亡くなったのも、この寝室だったそうです。


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続いて「牛眼の間」と呼ばれる部屋は、当時は王の起床や就寝の為の従者の控えの前として使われたそうです。従者の控室も豪華ですね。


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この後、「平和の間」から続く、南側の王妃の居間の見学になるはずですが、改装しているのか「王妃控えの間」(上の写真)以外、入る事が出来ませんでした。残念。


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南翼二階にある「戦闘の回廊」。
この回廊の両側にはフランスの重要な戦いを描いた絵画が並んでいます。


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「アンリ4世のパリ入城」
ナバラ王アンリ(後のアンリ4世)は、カトリックとプロテスタント間の争いが絶えないフランスで、当初プロテスタント側に立って戦っていました。
1589年のフランス王アンリ3世の死によって、王位を継承しアンリ4世となりましたが、当時カトリック勢力が押さえていたパリが、プロテスタント王を受け入れる可能性が無いと判断した彼は、1593年にカトリックに改宗し、1594年3月22についにパリに入城しました。
彼が、ブルボン朝を開きました。


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「オルレアン包囲の謁見」
1429年4月末から5月初に行われたオルレアン開囲戦の後に、オルレアンに戻ったジャンヌ・ダルクを描いた絵です。
オルレアンの解放は、ジャンヌ・ダルクにとって最初の戦闘での勝利であり、百年戦争において仏側が盛り返すターニングポイントとなった戦いです。


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「アウステルリッツの戦い」
1804年5月のナポレオンによるフランス帝政成立に危機感を持った諸国が、1805年4月に第三次対仏大同盟を組んでフランスに宣戦布告。同盟国は開戦当初こそ、フランス帝国の同盟国であるバイエルンに侵攻しミュンヘンを占領したものの、8月にフランス軍が参戦してからは形勢は逆転。
11月にはフランスはウィーンを占領し、12月2日に、アウステルリッツにおいて、オーストリア・ロシア連合軍を撃破しました。
この戦いによって、オーストリアは戦争から離脱し、第三次対仏大同盟は瓦解しました。

なお、この戦いは、フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから、三帝会戦とも呼ばれています。


17:10にヴェルサイユ宮殿の内部の見学を終え、ヴェルサイユの庭園に移動。
そこから出発する、プチ・トレインに乗って、トリアノン宮殿に行きました。


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時間が遅くなったので、大トリアノン宮殿は車窓からの見学のみ。
この宮殿はルイ14世により、1687年から1688年に建築されました。
この屋敷は、彼の愛妾との隠れ家として用いられたり、王の離宮として使われました。


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17:50に小トリアノン宮殿に到着。
この屋敷は、ルイ15世によって、1762年から1768年に建築されました。
当初はルイ15世の公妾、ポンパドゥール夫人のために建てられたものの、宮殿が完成した時は既に彼女は亡くなっていました。
その後、ルイ16世より、王妃マリー・アントワネットに与えられ、彼女はこの離宮を愛しました。


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二階に上がる階段のホール。
豪華では無いですが、センスの良い階段だと思います。


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ダイニングルーム。
ヴェルサイユ宮殿のより、少し落ち着いた装飾です。
それでも、毎日過ごすには派手だと思いますが。


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大サロンは赤が強くてあでやかです。


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王妃の寝室はかなり落ち着いた装飾で、王妃のセンスの良さを感じます。


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宮殿の周りには、英国式やフランス式の広大な庭園があります。
写真は宮殿の南東にある、愛の殿堂。
ルイ16世がマリー・アントワネットを訪問した際、ここでよく会っていたそうです。


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宮殿の北側にあるベルベレーデ。
池の周りに八角堂と人口洞窟があります。


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西側に広がるフランス式庭園から見た宮殿。


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フランス式庭園から見た西側の景色。
この奥に、大トリアノン宮殿があります。

18:30に小トリアノンを出ました。
妻は、東にあるマリーアントワネットの作った「王妃の農村」まで行きたかったようですが...プチトレインの最終が19時なので、そこまで回る時間は無かったです。
もう少し時間配分を考えれば良かった。


ヴェルサイユに戻った後は、駐車場で車をピックアップして、パリに向かいました。
この日の宿はパリ市内のホテル「Courcelles Etoile」。 
(住所: 184 Rue de Courcelles, 75017 Paris)
地下鉄のPereire駅に近く便利なのですが、専用駐車場が無いのが問題です。

市内に入って判りましたが、パリ市内での路駐は、事前支払いで、最長が6時間。
金額も35ユーロと高額で、6時間毎に料金を払うのは無理。
結局、地下駐車場の「Parking Indigo Wagram-Courcelles」 (住所:103 Rue Jouffroy d'Abbans, 75017 Paris)に車を停めました。ここは後払いが可能で、セキュリティーも高いので正解かな。(?)
でも、ここでも、39.60ユーロ/24時間と、パリ市内の駐車は異常に高いです。


パリ観光に続きます。


家族との北フランス旅行 その3 ~ルーアン(Rouen)訪問

2018年8月19日(日)~26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

23日の8:30にカーンを出発し、パリに向かいますが、途中ルーアン(Rouen)に立ち寄りました。

ルーアンは、中世からの古都で大司教座がおかれていました。
更に、ルーアンと言えば、百年戦争でのフランスの英雄ジャンヌ・ダルクが異端裁判の後に火刑に処された地として有名です。


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10時にルーアンの駐車場に車を停め、ジャン・ダルク通りに出たところにあった、サン・アンドレの塔(Tour Saint-André)。この塔は、16世紀に作られたサン・アンドレ教会の尖塔として建てられましたが、19世紀後半の都市改造の中で教会は破壊され塔だけが残りました。


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ルーアンの顔の一つが、グロ・オルロージュ(Rue du Gros Horloge)通りにある大時計です。
 この大時計はヨーロッパに残る大時計の中でも特に歴史が古く、 14世紀から1928年まで一度も止まることなく動き続けたそうです。


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そして、もう一つの顔が、このルーアン大聖堂です。
12世紀に工事が始まり16世紀に完成した、フランス・ゴシック最高建築の1つです。


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教会にあったバイキング(ノルマン人)の船。
ここには、初代ノルマンディー公ロロが眠っているそうです。


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  左:聖堂の祭壇
  右:火刑にされるジャンヌ・ダルクの像


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大聖堂の前にある、ツーリスト・インフォメーション。


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大聖堂の中央の尖塔の高さは151mで、フランス一の高さを誇ります。


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  左:大聖堂の横のサン・ロマン通り(Rue Saint-Romain)を南に向います。
    木組みの家が並び、素敵な雰囲気の道です。
  右:壁に描かれたジャンヌ・ダルクの肖像。


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道を抜けると、15世紀に作られたサン・マクルー教会(Eglise Saint-Maclou)のある、バルテレミ広場(Place Barthélémy)に出ます。
ここも木組み造りのカフェの並ぶ、お洒落な広場です。


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木組みの家が並ぶ美しいルーアンの町並み。

  左:ルーアン大聖堂横のサン・ロマン通り(Rue Saint-Romain)。
  右:グロ・オルロージュ(Rue du Gros Horloge)通り


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グロ・オルロージュ通りを西に歩くとヴュー・マルシェ広場(Place du Vieux Marché)に出ます。
ここは1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた広場で、現在ジャンヌ・ダルク教会(Église Sainte-Jeanne-d'Arc)が建っています。

彼女はイングランドとの百年戦争の時に、劣勢だったフランスを救った英雄です。
1424年頃に、当時フランスの多くを占領していたイングランド軍を駆逐し、王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かせよとの「神の声」を聴き、1429年にシノン城に赴き王太子のシャルル(後のシャルル7世)に謁見しました。無名の田舎娘が王太子に会えただけでも奇跡ですね。

王太子の支援の元、同年4月29日にイングランド軍が包囲していたオルレアンに着いてからが彼女の軍歴の始まりです。オルレアンを解放後、幾度か戦傷を受けながらも、常に勇敢に戦い戦勝を重ね、フランス軍内での名声も高まりました。

しかし、1430年5月にコンピエーニュ包囲戦の援軍として向かった際に、イングランド軍と同盟していたブルゴーニュ公国軍との戦いのの中で、捕虜となりました。
1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、イングランドのシンパだったフランス人司教ピエール・コーションによって、正当性も怪しい異端審問裁判が行われ、イングランドの思惑通りに強引に有罪判決を受け、5月30日にこの地で火刑に処されました。

百年戦争終結後の1456年7月7日、ローマ教皇も公式に承認した裁判で、ジャンヌは無罪とされました。
更に歴史は下って、1920年5月16日に、ローマ教皇ベネディクトゥス15世が、ジャンヌを聖人に列しました。


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ジャンヌ・ダルクを祀るこの教会は、モダンな外観ですが、ステンドグラスは、かつてこの地にあった聖ビンセント教会のもので、16世紀に作られたそうです。


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ヴュー・マルシェ広場の景色です。

ジャンヌ・ダルクの終焉の地であるルーアンは妻の希望で立ち寄りましたが、木組み造りの家が残る、美しい町でした。

来てよかったのですが、この時は町中で道路工事が行われており、その迂回路の案内も悪く、ルーアン脱出には辟易しました。正直、事故らなくて良かったです。

12:00にルーアンを出発しました。

続く



家族との北フランス旅行 その2 ~ノルマンディ

2018年8月19日(日)~26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

21日の8:30にモンサンミッシェルを出発し、次の目的地、ノルマンディ海岸に移動します。

ノルマンディ海岸は、今年の6月初め来たばかりで、その際詳細に紹介したので、今回は前回と違う点だけを簡単に紹介します。


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まずは、ノルマンディ上陸作戦で、第101空挺師団の攻略したカランタンの訪問です。
左の写真は、攻略後に師団の勲功を表彰した広場。
右の写真は、空挺師団の記念碑

と言っても、家族は空挺師団には興味が無かったので、ササっと回っただけです。



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前回はD-Day直前で、街中お祭り騒ぎでしたが、今回は落ち着いていました。


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前の写真の眼鏡屋のショーウィンドーも、6月1日はこの通り。
てっきり、これが普段の姿と思っていました。


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続いては、D-Day Experience/デッドマンズ・コーナー博物館に行きました。
ここではシミュレータで空挺兵の気分を味わえます。(左の写真)
更にここでは、バンド・オブ・ブラザーズで有名なウィンターズの戦闘服を見る事が出来ます。(右の写真)
前回も紹介しましたが、重要な事なので(?)、もう一度紹介します。


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そして、前回の訪問時に購入せずに後悔していた、空挺ジャケットも購入しました。
今回は、真夏と思って長袖を持ってきていませんでした、思いのほか冷えて、このジャケットが活躍しました。


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カランタンからユタ・ビーチに行く途中で見つけた、プラット准将の記念碑(General Pratt Memorial)。
(住所: 11 Route de la Haute Folie, 50480 Hiesville,)
D-DAYの日、彼の乗ったグライダーがここから東に250mの地に墜落し、彼も死亡しました。
彼はフランス解放の戦いで最初に亡くなった将軍だそうです。


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サン=ジェルマン(Saint-Germain)の東の外れにある第101空挺師団を記念した聖マリア像。
本隊降下の約40分前の6月5日23:16に、第502空挺連隊と第377空挺砲兵大隊の斥候部隊がこの地に降下し、ラジオビーコンを設置しました。
看板には「The Pathfinders; First of the First」のタイトルがついていました。
ただしここは、セント=メール=エグリーズの北東に当たるため、第101空挺師団の降下地点から大きく外れているような気がしますが・・・


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ユタビーチでは6月1日に来た時と同様、自由フランス第2機甲師団と、米第4歩兵師団の上陸地を見学しました。ただし、少し天気が悪かった事と、6月に来たばかりだったので、あまり写真は撮っていません。
上の写真は6月1日に撮影したユタ・ビーチ博物館です。

<6月にユタビーチを訪問した際の紹介ブログ>


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博物館の向かいにあるルーズベルト・ハウスに貼ってあったポスター。
D-Day初日の連合軍の獲得地域を表していますが、他のビーチに比べて、激戦だったオマハ・ビーチの海岸堡が非常に狭い事が判ります。

このポスターを見て知りましたが、自由フランスの第2機甲師団は、D-Dayではなく、8月1日に上陸したのですね。


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15時にセント=メール=エグリーズのホテルのチェックイン。
今回も、6月と同じホテル「Logis Le Sainte Mere」に宿泊しました。
この町の名所となっているサント=メール=エグリーズ教会(Eglise de Sainte-Mère-Église)。
未だに、屋根には第82空挺師団の降下兵が引っ掛かったままです。

前回来た時は、この町にも、多くの米軍の戦車やトラックが集結し、D-Dayのお祭りモードでしたが、今回は落ち着いていました。

なお、上の写真は6月1日に撮影したものです。

<6月にサント=メール=エグリーズ周辺を訪問した際の紹介ブログ>


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この日の昼食は、前回遅い夕食を取った軽食屋「C-47」に入りました。
(上の写真も6月1日に撮影したもの。)

この町には、もう少し息子が興味を示すかと思いましたが、町を散策したのみで空挺博物館にも入らず、ホテルに戻りました。

なお、この日の夕食は、昼食が遅かった事もあり、町のスーパーで買った、ワインとつまみをホテルの部屋で食べました。子供たちはお菓子でした。(質素)


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明けて8月22日、ホテルをチェックアウトした後に、6月と同じコースである、ラカンプのドイツ軍墓地と、ポワント・デュ・オック(La Pointe Du Hoc)、オマハビーチを見学しました。

上の写真はドイツ軍墓地にある、戦車エースのミヒャエル・ヴィットマンと彼の部下の墓石。
6月に来た時は、なぜかヴィットマンの墓石が無くなっていましたが、無事復活していました。

<6月にオマハビーチを訪問した際の紹介ブログ>


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ポワント・デュ・オックの砲台。


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最大の激戦地となった、オマハ・ビーチの景色です。
重武装でこの丘に陣取ったドイツ軍に勝つのは至難だったでしょう。


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オマハ・ビーチを見渡せる桟橋。
6月には気付きませんでしたが、この桟橋の根元の土台は、連合軍の人口港マルベリーの残骸でしょうか?


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6月に来た際は、個人所有の軍用車両が集まり、野外博物館状態だった、オーバーロード博物館(Overlord Museum)。前回は外しか見なかったので、今回は中に入ってみました。
(上の写真は6月の撮影)


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まずは独軍の37mm PaK 36対戦車砲がお出迎え。
ノルマンディ戦では対戦車砲としては威力不足でしたが、HEAT弾を使う事で、未だ使用されていました。


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連合軍の折り畳みボート。
1942年のディエップ上陸作戦と共に紹介されていました。


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75mm PaK 40対戦車砲です。
大戦後半のドイツ軍の主力対戦車砲。
ソ連の強力な戦車に対抗して作られたこの砲は、ノルマンディー戦でも、比較的装甲の薄い英米軍の戦車相手に威力を発揮しました。
 

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米軍主力のM4A1 シャーマン戦車。


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連合軍の上陸舟艇。


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米軍の水陸両用車両のDUKWです。
ノルマンディー戦で活躍しましたが、内陸での輸送車両としても活躍しました。
バンド・オブ・ブラザーズでも、E中隊が陸上の移動用に使用していました。


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ドイツ軍の軽装甲兵員輸送車 Sd Kfz 250です。


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そして、ノルマンディー戦時のドイツ軍の主力戦車、V号 パンター A型戦車です。
この戦車には多数の被弾跡があり、駆動輪と履帯も破壊されています。


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ドイツ軍の1t ハーフトラック Sd Kfz 10です。
対戦車砲や大砲の牽引に活躍しました。


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ドイツ軍の18t ハーフトラック Sd Kfz 9です。
ハーフトラックとしては、最大級の車両で、通称「FAMO」と呼ばれています。
6月には、この車両も野外展示されていました。


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ドイツ軍 IV号戦車の砲塔です。
角ばった砲塔は、ドイツ軍らしい形状で大好きです。


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更に、ドイツ軍の IV号 H型 戦車です。
砲塔周りにシュルツェンを付けた姿も恰好良いです。
ノルマンディー戦でもパンサーやティーガーと言った、猛獣戦車を補佐して活躍しました。


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IV号 戦車のリアーです。
砲塔周りにシュルツェンを付けた姿も恰好良いです。

ドイツ軍の戦車を見たいと言っていた息子に対し、ノルマンディーでは見れないと思っていましたが、思わぬ所で見る事が出来ました。


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ドイツ軍の遠隔操作式爆薬運搬車輌 ボルクヴァルトIV (Borgward IV) (sd kfz 301)。


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ドイツのハーフトラック  Sd Kfz 3b マウルティア(Maultier)です。


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独軍の戦闘工兵用のハーフトラックです。


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そして最後は、独軍版のジープ、キューベルワーゲンです。
ノルマンディでは連合軍の車両の展示が多いですが、この博物館ではドイツ軍の車両が多数見れて良かったです。

なお、野外には、6月に来た時と同じ、以下の車両が展示されていました。
・M4A1 シャーマン中戦車 76mm砲
・M10 駆逐戦車。
・セクストン自走砲。
・M32B1 シャーマン TRV(Tank Recovery Vehicle)。
・組み立て式仮設橋ベイリー橋。


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オーバーロード博物館を出た後は、アメリカ軍墓地(Normandy American Cemetery)を見学。
(上の写真は6月の撮影)


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続いて、アロマンシュ=レ=バン(Arromanches-les-Bains)の町に寄りました。
6月と同様、この町では駐車場を探すのに苦労しました。

上の写真は、連合軍の人口港マルベリーの残骸です。


<6月にゴールド、ジュノー、スウォードビーチを訪問した際の紹介ブログ>


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続いて、ジュノー・ビーチの西の端、クルル=シュル=メール(Courseulles-sur-Mer)に来ました。
前回はトーチカを中心に見学しましたが、今回はチャーチル戦車の見学。
本当は、シャーマンDDを見たかったのですが、見つける事が出来ませんでした。


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オルヌ川沿いにある、ウイストルアム(Ouistreham)の町にある、大西洋防壁博物館(Musée du Mur de l'Atlantique)。前回は閉館後で中が見学出来なかったので、今回は内部を見学しました。

この建物は元はドイツ軍のトーチカで、1944年6月9日(D-Day+3日)に英軍の部隊が扉を開けようと3㎏の爆弾を爆発させましたが効果は無く、更に5kgの爆弾を用いて中に入る事が出来ました。
その時内部には51名のドイツ兵がいて、そのまま降伏したそうです。


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   左:トーチカ入り口を守る機銃座。ガスマスク姿が生々しいです。
   右:トーチカの武器庫。


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空気を清浄する部屋もありました。


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兵舎です。
棚にはロンメル将軍の写真が飾られていました、


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博物館にあった、ノルマンディ海岸の上陸阻止のためのトラップの模型。
これらのトラップはロンメルの考案です。


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トーチカ内の作戦室。
同じフロアに無線室もあります。


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トーチカ最上階の監視所です。
今は住居と林が邪魔をしていますが、当時はビーチを見渡す事が出来ました。


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続いて、D-Dayの前夜に英軍の第6空挺師団が確保した、ペガサス橋と、ホルサ橋を見学。
上の写真は6月に撮影したもので、今回は車で橋を通過したのみです。

その後、カーンに向かい、17:30頃にホテルにチェックインしました。
今回泊まったのは、ホテル「ibis Caen Centre」。
前回のホテル「Bristol」より、町の中心に近く、専用駐車場もあり、車での観光に便利でした。

<6月にカーンを訪問した際の紹介ブログ>


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チェックイン後、まずはホテルのそばにある女子修道院(Abbaye aux Dames)を見学しました。


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女子修道院の中庭。


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続いてカーン城に行きました。
(上の写真は6月の撮影)


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カーン城から見た、サン=ピエール教会。


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今回も、カーン城の前にあるレストラン街で夕食を取りました。
今回入ったのは「El Olivo」。
前菜に、ノルマンディ名物の牡蠣を注文しました。


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私はメインに、牛のタルタルを注文。
前回シャルルドゴール空港で食べた後は、お腹の調子が悪くなりましたが、家族に見せるために再度チャレンジ。流石に今回は問題ありませんでした。(笑)

食後、20:00にホテルに戻って就寝。
これでノルマンディの旅は終了し、パリに戻ります。

続く。



家族との北フランス旅行 その1 ~モンサンミッシェル

2018年8月19日(日)~26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。

19日の夜に家族と合流し、シャルルドゴール空港の横にあるイビス・ホテルに一泊。

20日の朝8時過ぎにホテルを出発し、最初の目的地、モンサンミッシェルに着いたのは13:00でした。

モンサンミッシェルは、今回の駐在期間だけで、既に3回目の訪問で、慣れたもの。
過去2回の訪問で詳細に紹介したので、今回はこれまでと違う点だけを簡単に紹介します。

<2016年10月31日の訪問>


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今回は家族と一緒なので、ちゃんと昼食を取りました。(笑)
入ったレストランは、2016年にMy Busツアーで入った、レストラン「La Rôtisserie」。
美味しくて、価格もリーズナブルなレストランです。
まずは、地元のリンゴ酒のシードルで乾杯。


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続いて、これも地元の料理(正確にはブルターニュの料理のようですが)のガレット。


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普段は風景しか撮りませんが、今回は家族サービスが主目的。(笑)

島内でも、過去二回の訪問の知識をベースに、ツアーガイドに徹しました。
モンサンミッシェルは家族全員の希望だったので、楽しんでくれたでしょう。

教会の見学中に、2016年にMy Busツアーでガイドをしてくれた、高橋さんをお見かけしました。
声をかけようとしましたが、ガイドで忙しそうだったので、結局声をかけず。
2年前に教わった知識が役立ちましたよ!

見学を終えた後、ホテルにチェックイン。
今回は、「Hôtel Vert」に泊まりました。
レストラン「La Rôtisserie」や、土産屋に近くで便利なホテルでした。
更に駐車スペースが多いので、車で行くにも便利です。


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島内の見学だけでなく、お土産の購入でも家族サービスに徹しましたよ。
上の写真は土産屋の隣の店から出てきた牛。(笑)


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夕食は、モンサンミッシェルを見ながら食事ができる、「La Digue 」。
前回は日本人団体客の対応で手一杯だったのか、食事を断られ、ちょっと嫌な思いをしましたが、とにかく景色が良いので、再度挑戦しました。

最初のビールは、モンサンミッシェルの地ビールです。


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妻の選んだオムレツです。
島内にある、オムレツ・オリジナルのプラールおばさんのレストランは、超高級化しているようですが、島外のレストランではオムレツ単品で頼めてリーズナブル。
ここのオムレツは、オリジナルと同じ、中身がフワフワ・トロトロでした。


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私は海の幸のムール貝のポットを選択。


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そして、私の最大の目当てはコレ。
前回5月の訪問時は、夕立ち+寝落ちで、まともな夜景が取れず、今回リベンジしました。


明けて、21日の朝も、少しだけ散策。

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普段、自撮りはしないのですが、今回は特別。


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写真では少し判りにくいですが、川沿いの草には、何故か沢山のカタツムリがなって(笑)いました。
なんでだろう?

8:30にモンサンミッシェルを出発し、ノルマンディーに向かいました。

続きます。




ヴェルダンの要塞訪問

2018年8月19日(日)~26日(日)に、家族がフランスに遊びに来ました。
家族とパリで合流する前に、8月18日-19日と一人でルクセンブルグに行って来ました。

19日の11:00にルクセンブルグを出ましたが、家族がパリに着くのは19:30で、まだ時間があるので、道中にあるヴェルダン(Verdun)の要塞に立ち寄りました。

ヴェルダンの戦いは、第一次世界大戦の主要な戦いの一つで、1916年2月21日に始まり、12月16日の戦闘終結までに、フランス軍362,000人、ドイツ軍336,000人の死傷者を出しました。

当時フランスは、パリに通じるヴェルダン周辺に多数の要塞を構築していました。
2年間、膠着した戦線を活性化させるために、ドイツ軍がヴェルダンに目を付け、1916年2月に攻勢をかけました。その攻勢でドイツ軍は7km(たった!)前線を進める事が出来、ドゥオモン要塞(Fort Douaumont)を奪取したものの、そこからは一進一退の凄惨な攻防戦が行われ、6月7日にドイツ軍はようやく、次のヴォー要塞(Fort Vaux)を奪取しましたが、ドイツ軍の攻勢もここまで。
8月には攻守が交代し、フランスが12月中旬までにドイツ軍に奪われた領土を再奪取した所で戦闘は終了しました。

今回は、最初の攻防の地となったドゥオモン要塞を訪問しました。


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途中にあったヴェルダン博物館(Mémorial de Verdun)。
(住所:1, Avenue du Corps Européen, 55100 Fleury-devant-Douaumont),
第一次世界大戦は全く知識が無いので入りたかったのですが、時間が気になったので諦めました。
(この手の博物館に入ると、少なくとも1時間は見学するので・・・)

 
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同じく途中にあった、ドゥオモン納骨堂(Ossuaire de Douaumont)。
ヴェルダンの戦いで亡くなった兵士を弔った墓地です。


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ドゥオモン納骨堂からドゥオモン要塞に向かう途中の道沿いにあった溝。
かつての塹壕を再現したものでしょうか?


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要塞への入り口と思われる通路。
実際の入り口は、この裏にありますが、現在は直接要塞に行く事が出来ます。


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これがドゥオモン要塞です。


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ドゥオモン要塞の入り口。
入場料は4ユーロですが、直線距離で約5kmの所にあるヴォー要塞とのセット料金は6ユーロとの事でした。
私は時間が無いのでドゥオモン要塞のみの見学にしました。


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この日は天気も良く暑かったですが、要塞の地下はひんやりして、涼しかったです。


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石のブロック造りの要塞内部。


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当時の兵舎。
ここは地上階なので、窓の外は地上です。


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かつての要塞内のトイレ。
人と人の間の仕切り板は無いようです。


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砲座の地下構造。
バランサーウェイトを使う事で、砲座を上下させる機構です。


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地下の一部では、壁から石灰成分が染み出していました。


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石灰成分(白い成分)と他の成分が混じって、カラフルな壁。


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壁面に埋め込まれた彫像。
埋められた理由・目的は不明です。


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ここから地階に降ります。


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将校のミーティングルーム。


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通風孔と思われます。


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かつて発電設備が置かれた部屋。


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洗面所です。
天井から石灰分が垂れ、鍾乳石のようになっていました。
別の部屋では、その下に缶をおいて、垂れる水音で音楽を奏でていました。
この辺りも、あと百年もしたら鍾乳洞になっているのでしょうか?


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ここから地上階に戻りました。
写真はシャルルドゴールの碑。
彼もヴェルダンの戦いに参加していたようで、第33歩兵連隊、第3大隊、第10中隊の指揮を取っていたようです。


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要塞内にはドイツ軍兵士を悼んだ碑もありました。
ドイツ軍も2月末から10月末まで8ヵ月もこの要塞を占拠していたので、このような碑があるのも判りますが、フランス軍は36万人もヴェルダンの戦いで死傷しており、戦勝国として敵国に寛大です。


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地下で見た上下可動式の砲塔。
当時は155mm砲が据えられていました。


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トーチカ上の監視所です。


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要塞の上は、砲撃の跡と思われるクレータが多数出来ていました。
100年たっても無くならないものなのですね。


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要塞北側にある、上下可動式の砲塔です。


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更に、上下稼働式の監視所もありました。


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要塞の西側にある露天式の砲台跡。


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要塞の南西端から見た、要塞の西側。
これでヴェルダン要塞の見学は終了。
14:30にドゥオモン要塞を出て、家族の着くシャルルドゴール空港(以下CDGと省略)に向かいました。

ヴェルダンからCDGまでは260km。
CDGにあるこの日の宿「イビス・パリ・シャルルドゴール・エアポート・ホテル」に着いたのは17:20でした。

18時半までホテルにのんびりした後、家族を迎えにターミナル2に向かいました。


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19:40、家族が到着ゲートから出てきました。

ここから、家族との北部フランス旅行の始まりです。

続く


ノルマンディ旅行 四日目 ~カーン

2018年5月30日~6月3日にノルマンディ地方に行って来ました。

6月2日 20:10にノルマンディ海岸の見学を終え、カーンの町に向かいました。

ペガサス橋からカーンまでは、約10kmの距離。戦いの無い現代であれば、車で10分の距離ですが、1944年の連合軍にとっては長い距離でした。
当初の予定では、カーンはD-Day初日、遅くとも2-3日後に落とす予定でしたが、ドイツ軍側も、第21装甲師団、戦車教導師団と言った精鋭が周囲地域を固め、カーン市内では第12SS装甲師団「ヒットラー・ユーゲント」が頑強に抵抗し、7月9日にようやく市内に突入出来ました。
この長い戦闘の中で、カーンの町は徹底的に破壊されましたが、戦後に再建されました。

私は20:30頃に、カーン市内のホテル「Bristol」に入りましたが、日没まで時間があるので、市内見学に出ました。


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カーンのメイン通りのサン=ジャン通り(Rue Saint-Jean)にある、サン=ジャン教会(Église Saint Jean)。
サン=ジャンとは、ジャン・ヌ・ダルクの事です。

この時、時刻は21:00になっていました。


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サン=ジャン教会の正面ファサード。
中央の塔が傾いてますよね?!


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サン=ジャン通りを進んだ先にある、サン=ピエール教会(Église Saint-Pierre)。


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そして、その向かいには、カーン城があります。
この城は11世紀後半にノルマンディー公兼イングランド王ウィリアム1世の建てたものです。


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西側から見たカーン城。


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南側のサン=ピエール門。
門の前には、門を守る堡塁が作られています。


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堡塁から見た、サン=ピエール教会とカーンの町並み。


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サン=ピエール門です。


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カーン城から見た夕日。


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城内を抜け、東に開いたシャンプス門を出ました。
カーン城内は、明朝に散策した様子を後程紹介します。


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ホテルでレストランが集まっていると聞いた、ヴォギュー通り(Rue du Vaugueux)に来ました。
22時を回っていますが、まだレストランは盛況です。


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この日、ディナーに入ったのは、レストラン”LA POTERNE”。
店内が良いか、外が良いか聞かれて、外と答えたつもりが、中に通されました。(笑)
でも店内は狩猟屋敷の内装で、雰囲気が良かったです。
私以外の客は、アベックが二組で、ちょっといずらい雰囲気がありましたが。


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英語メニューが無く、とにかく肉を注文しましたが、やはりフランス料理。
お洒落で、美味しかったです。

夕食後は、ホテルに戻りましたが、ホテルに戻った時は23時を超えていました。


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6月3日、ホテルで朝食を取りましたが、テーブル敷には博物館の割引券が付いていました。
これから行く予定のカーン記念館(Mémorial de Caen)の割引もあったので、食後にもらっていきました。


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今回泊まった、ホテル「Bristol」です。
8:30にチェックアウトをして、荷物を車に載せた後、カーン市内の散策に出ました。


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オルヌ川沿いの風景。
今回、車はこの川沿いに路上駐車しました。
この道路沿い路上駐車は日中は有料ですが、夜間は無料でした。


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同じくオルヌ川の風景です。


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オルヌ川の横には競馬場(Hippodrome)がありますが、競馬場って大きいのですね。


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フランスでは町の中心部をCENTRE VILLEと呼びます。
アメリカではCentervilleという町に住んでいましたが、町の名前が「町の中心」って、ちょっと変ですね。


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県庁舎(Hôtel de la Préfecture)。


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サン=エティエンヌ=ル=ヴュー教会(Église Saint-Étienne-le-Vieux)。
ノルマンディ上陸作戦で破壊されたままの状態になっているそうです。


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男子修道院(L'Abbaye-aux-Hommes)。
ウイリアム征服王が従妹のマチルダ妃との結婚した事を法王に許して貰うために建てた男子修道院。
1066年から12年かけて建設され、今は市庁舎として使用されています。
中も見学できるようですが、早朝で開いていませんでした。


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建物の前に広い庭園を持ち、修道院と言うより、宮殿のようです。


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修道院の裏に位置する、サンテチエンヌ教会(Église Saint-Étienne)のファサード。


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修道院の横にある、昔の裁判所。
ここから、カーン城に向かいました。


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サン=ソヴァ―ル広場(Place Saint-Sauveur)では日曜市が開かれていました。
広場の中央にはローマの軍装をした、ルイ14世の像が立っています。


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カーン城の横にあった建物。
木組みの古そうな建物ですが、第二次世界大戦の戦果を生き残ったのでしょうか?


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カーン城の正面です。
左の端に、サン=ピエール門があります。


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城内にあるサン=ジョルジュ教会(Église Saint-Georges)。
今は観光案内所になっています。


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領主の館です。
現在はノルマンディー博物館になっているようです。


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北西の城壁上からカーン市街が見渡せます。
右に見える塔は慈悲の礼拝堂(Chapelle de la Miséricorde)で、その後ろには、男子修道院とサンテチエンヌ教会が見えます。


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12世紀初めに作られた本丸跡。


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11世紀初めに作られた、ウィリアム征服王の屋敷跡。


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東に開いたシャンプス門。
シャンプス門の前にも、門を守る堡塁があります。


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カーン城から南東に延びるサン=ジャン通りの東側には、もう一本、並行する大通りあります。
それは、リベラシオン通り(Avenue de la Libération)(手前)と、その先に続く6月6日通り(Avenue du Six Juin)。
町を徹底的に破壊されても、やはりノルマンディーの上陸作戦はカーンの解放戦だったのですね。


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  左:リベラシオン通りにある、14世紀に作られたリロイ塔(Tour Leroy)。
  右:競馬場の横にあるマレシャル・フォッシュ広場(Place Maréchal Foch)に建つ平和の塔。
    第1次世界大戦と第二次世界大戦の戦いを記念した碑ですが、多数の銃弾跡が残っています。


カーンの町の散策を終え、車をピックアップして、今回の旅の最終目的地、カーン記念館(Mémorial de Caen)に向かいました。


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10:30に記念館に到着。
 

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記念館の前に集う、原動機付自転車同好会の面々。
原付と言っても、自転車のフロントに小さなエンジンを付けて走る、元祖原付自転車です。
大戦中の車両を乗り回す人達と言い、原付自転車を楽しむ人達と言い、フランス人の趣味の広さに驚きます。


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記念館に入館すると、ホーカー タイフーンが迎えてくれます、って言うか、私に向かっての攻撃態勢ですね。

なお、入場料は朝食時の割引券で14.5ユーロになりました。


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この博物館は、第一次世界大戦後から、第二次世界大戦終戦までの歴史を、その経緯も含めて真面目に紹介しています。
館内は軍装やグッズの展示は多いですが、車両の展示は少ないです。

上の写真はソビエト軍のロケット自走トラック カチューシャ。
他にシャーマン戦車が展示されていました。


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ドイツの再軍備の紹介。


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フランス戦前の、フランス軍の防衛ライン、マジノ線と、ドイツ軍の防衛ライン、ジークフリート線を描いたマップ。この図を見ると、要塞の無いベルギー、ルクセンブルグを抜ける事を、自然と考えつきますが、フランス軍は想像しなかったのでしょうか?
まあ、ベルギー内を通過する間に、防衛ラインを構築できると踏んでいたのかも知れませんね。


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太平洋の戦いについても紹介されています。


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日本軍の虐殺の紹介ですが、右上の写真以外は殺害シーンも無い、普通の戦争被害の写真で、かなり偏向した扱いに感じました。
戦闘(爆撃含む)で市街地を破壊して、市民を殺害したと言うなら、連合軍も負けないと思いますが。


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沖縄戦の様子が表紙になった、アメリカ陸軍の週刊誌。


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終戦まで見て回って、カーンなのにノルマンディ戦の紹介が無いなと思っていると、最後に専用のコーナーがありました。
ここでは、時間を追って各戦闘区域の様子を表しています。


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ドイツ軍の50mm PaK 38 対戦車砲?
マズルブレーキが無いと別の砲に見えます。


この博物館で上映する映画が迫力があるようで、見たかったのですが、時間の都合でスキップしました。
残念。


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最後に、博物館に隣接した、ドイツ軍の地下壕を見学しました。
砲台などではなく、ユノー海岸を守ったドイツ軍の第716歩兵師団の指揮所です。


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地下壕内の見取り図。

地下壕の見学を終えた、11:30に博物館を出て、シャルル・ドゴール空港に向かいました。
順調に高速を走り、14:30頃に空港に到着しましたが、ガソリンスタンドを探すのに手間取り、レンタカーを返したのは15時を回っていました。

17:50のルフトハンザ便でミュンヘンに帰りました。


今回は、第二次世界大戦のターニング・ポイントとなった、史上最大の作戦:ノルマンディー作戦の戦跡を回る旅でしたが堪能できました。
特にD-Day(6月6日)の直前のノルマンディー地方は、米兵の姿をした人々が車両と共に集まり、お祭り騒ぎ。
楽しかったです。

終わり

ノルマンディ旅行 三日目 ~ゴールド、ジュノー、ソード・ビーチ

2018年5月30日~6月3日にノルマンディ地方に行って来ました。

6月2日、15:00に米兵の墓地を出た後、ゴールド、ジュノー、ソードの三つのビーチを駆け足で回りました。


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と言いながら、最初に寄ったのは、ロング シュル メールの砲台(Batterie de Longues-sur-Mer)。
(住所:39 Rue de la Mer, 14400 Longues-sur-Mer)

この砲台では、かつて4つの掩体壕の中に150mm砲が設置されていました。
D-Day前日の爆撃と、当日の艦砲射撃で、3門は砲撃不能となりましたが、残りの1門は6日の終日、連合軍に砲撃を続けたそうです。


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ぶ厚い掩体壕も破壊されています。


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この掩体壕には、当時の150mm砲が残っています。


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砲台から少し離れた前方にある弾薬保管用のバンカー。
明かりが無く、真っ暗な中に降りてみましたが、底に水が溜まっており、靴を濡らしただけで撤退しました。


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砲台の前方にあった迫撃砲のバンカー。


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砲台前方にある砲撃観測所。
破壊はされていませんが、壁には多くの被弾跡が残っています。


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中から見たところですが、何か全く判らないですね。(笑)
この内部も、暗く足場が悪いので、入るには注意が必要です。


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観測所から見た、4基の砲台。
その間の原っぱは、今は麦畑になっています。


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麦は、既に収穫の時期を迎えていました。


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ロング シュル メールの砲台から見た東の方向。


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ノルマンディっぽい、石造りの建物を抜けて、ゴールド・ビーチを目指します。
オマハ・ビーチまでは2車線の道が海岸線に沿って走っていましたが、オマハを過ぎると道が狭くなりました。


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ゴールド・ビーチに向かう途中に、アロマンシュ=レ=バン(Arromanches-les-Bains)の町に立ち寄りました。
しかし、ここにもコスプレイヤーが集結しており、町中に駐車場の空きが無く、しばらく町中をウロウロするも、結局、町の郊外に駐車するしかありませんでした。
16:10頃に町には着いていたのですが、車を停め、ここに着いたのは16:30を回っていました。

写真は、町の中心、1944年6月6日広場(Place du 6 Juin 1944)。


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左に少し見える壁は、D-Day博物館(Musée du Débarquement)です。
(住所:Place du 6 Juin, 14117 Arromanches-les-Bains)
左上には城のような屋敷があり、その右手にM4 シャーマン中戦車が飾られています。


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広場には、ドイツ軍の88mm高射砲(写真)や、英軍の25ポンド砲が置かれていました。


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海に突き出した広場では歌唱グループが美しいコーラスを聞かせていました。
僧侶服の人が参加しているので、教会のコーラス・チームなのでしょう。


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この町の沖合には、英軍の人口港湾、マルベリーBが作られていました。
米軍のマルベリーA同様、6月19日からの嵐で破壊されましたが、Bの方はその後に修復され、8ヵ月間使われ、1日平均6000トンの物資と、1250両の車両が陸揚げする事が出来ました。

なお、この町は上陸地点には選ばれておらず、英軍の上陸は、アネル(Asnelles)の町から東の区域でした。


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見学を終え、車に戻る際に、民家の庭で見かけた装甲車。
戦後に英国で作られた、フェレットのように思えます。
それにしても、今回のノルマンディーでのコスプレ大会(笑)で、欧州では軍用車両を持つ民間人が多い事が判りました。


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アロマンシュ=レ=バンを出て、東に走っていると、ヴェール=シュル=メールの町で英軍のセクストン自走砲が飾られていました。

ゴールド・ビーチは、英軍の第50歩兵師団が上陸を担当し、その第231歩兵旅団と、第69歩兵旅団が先方として上陸しました。
この自走砲は、第86ロイヤル砲兵連隊の所属で、第69歩兵旅団と共に、この地に上陸しました。

ゴールド・ビーチも、上陸初期こそドイツ軍の強力な抵抗を受けましたが、その日のうちにフランス内部に約10km侵攻し橋頭保を築きました。
上陸作戦での損害は約400人で、オマハ・ビーチより遥かに損害が少なかったです。


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車両で引っ張る、砲弾の輸送そり。
セクストンと一緒に展示していました。


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海岸沿いのウィンストン・チャーチル広場(Place W.Churchill)から見た海岸線。
繰り返しますが、この辺りは、英軍第50歩兵師団、第69歩兵旅団の上陸地点で、ここからさらに西(写真の奥)が第231歩兵旅団の上陸地点でした。


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同じく海岸線の西側の景色。


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続いて、ジュノー・ビーチの西の端、クルル=シュル=メール(Courseulles-sur-Mer)に来ました。
後ろの建物はジュノー・ビーチ・センター(Centre Juno Beach)で、その前には、25ポンド砲やボフォース対空機関砲が展示されています。

ジュノー・ビーチはクルル=シュル=メールから、サントーバン=シュル=メール(Saint-Aubin-sur-Mer)までの8kmの海岸線に設定され、カナダ軍の第3歩兵師団が上陸の主力となりました。

この一帯は、ドイツ軍が砲と機関銃で防備を固めており、上陸第一波では50パーセントの死傷者が出ました。
米軍の空挺部隊およびオマハに次ぐ損害を出しましたが、カナダ軍は数時間のうちに上陸を終え、内陸への進軍を始め、その日のうちに最大15km内陸まで橋頭保を広げました。


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特に、このクルル=シュル=メールの海岸部は強固に要塞化されており、今でもドイツ軍の防御設備が多く残っています。
写真のバンカーの高くなった部分は一人用の機銃座です。


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東に流れるソル川近くにあるドイツ軍のバンカー。
激しく破壊されています。


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ソル川の河口と、東に続くジュノー・ビーチ。


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ビーチに出る小路のガイドは、上陸用舟艇をイメージしたもの。


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海岸にはハマナスが咲いていました。



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西にある75mm砲を配備したバンカー。
このトーチカの制圧に、カナダ軍は100名の損害を出しました。


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トーチカの横の海岸に行く小路には、カナダ軍とドイツ軍の戦いの様子が描かれています。


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ソル川沿いの建物。


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サントーバン=シュル=メール(Saint-Aubin-sur-Mer)にある記念碑。
ヴェルダン通り(Rue de Verdun)に建っています。


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東に延びる町がサントーバン=シュル=メール。


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そこにあるドイツ軍の50mm砲を持つトーチカ。
(住所:Rue Pasteur, 14750 Saint-Aubin-sur-Mer)

ここの砲も海岸ではなく、内陸を向いています。
直接海岸を狙うと、敵の射撃/砲撃で撃破されると考えたのでしょうか。


続いて、作戦地域の一番東にあるソード・ビーチに移動しました。
ソード・ビーチは、サントーバン=シュル=メールからオルヌ川まで、約12kmの海岸線に設定されました。
この区域への上陸の主力は英軍の第3歩兵師団。

また、英海兵隊第4コマンドと二つのフランス軍部隊からなる第1特務旅団は、ウイストラム周囲の制圧のために第2波として上陸しました。

また上陸に先立ち、英軍の第3空挺師団がオルム川に架かる橋の奪取を目的に降下しました。

ソード・ビーチでの連合軍の損害は約600名と少数で、その日の終わりまでに約8km進撃しました。
しかし初日の攻略目標だったカーンは、7月9日になるまで落とせませんでした。


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リオン=シュル=メール(Lion-sur-Mer)にある、チャーチルAVRE(Armoured Vehicle, Royal Engineers)は、第79機甲師団の第1突撃工兵旅団所属。


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第41ロイヤル海兵コマンドーの記念碑。
6日の夕方に、ドイツ軍の第21装甲師団が反撃を行い、カナダ軍と英軍の間にある、リオン・シュル・メールとリュック・シュル・メールの間の海岸付近まで到達しましたが、第41ロイヤル海兵コマンドーを始めとする連合軍に食い止められました。


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コルヴィル=モンゴメリ(Colleville-Montgomery)にある、パイパー・ビル・ミリンの像(Piper Bill Millin Statue)。
第1特務旅団長の命令で、彼がバグパイプを吹きながら部隊を海岸へ先導したそうです。


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コルヴィル=モンゴメリから見た、ユタ・ビーチ。


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19:20に、オルヌ川沿いにある、ウイストルアム(Ouistreham)の町に到着。
海岸にはD-Day 70周年の記念碑が建っていました。


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町には第4コマンド―博物館(Musée du Commando N°4)があります。
(住所:Place Alfred Thomas, 14150 Ouistreham)

第4コマンド―はD-Dayに、この地に上陸しました。


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ウイストルアムにある、4階建ての測距観測所の入ったバンカー。
今は大西洋防壁博物館(Musée du Mur de l'Atlantique)になっています。
(住所:Avenue du 6 Juin, 14150 Ouistreham)


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すでに閉館時間は過ぎているので、建物の外にある陳列を見て回りました。

******************* 9月16日 追記 ********************************************************

8月22日に家族と再訪した際に、博物館の内部も見学しました。
その際の事は、以下のブログで紹介しています。

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LCVP上陸用舟艇。


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M7 プーリスト自走砲。


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M3 スチュワート軽戦車


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最後に向かったのは、英軍の第6空挺師団の戦闘跡です。
彼らは5日の深夜に、内陸進攻に必要なペガサス橋とホルサ橋の2つの橋の確保と、メルヴィル砲台の攻略を任務に降下しました。

上の写真の建物は町役場で、看板には、「6月5日の23:45にフランスで最初に開放された役場」と書かれていました。


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これが空挺師団の奪取したペガサス橋。
もう一本のホルサ橋は、この道を真っすぐ進んだ、オルヌ川に架かっています。
なお、両橋とも、今の名前は空挺師団にちなんで戦後に名付けられました。


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橋の袂にある砲座。


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橋の横にあるカフェ。
フランスで最初に開放された建物です。


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ハワード少佐が率いる、急襲グライダーが着陸した地点にある彼の胸像。


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第二世界大戦とは関係無いですが、カーン運河にたたずむ、ベヌービル城(Château de Bénouville)。
(住所:Le Château, 14970 Bénouville)


20:10にノルマンディ海岸の見学を終え、カーンの町に向かいました。

続く



ノルマンディ旅行 三日目 ~オマハ・ビーチ

2018年5月30日~6月3日にノルマンディ地方に行って来ました。

10:15にカランタン郊外にあるベイリー橋を出発し、向かったのは、ラ・カンプ郊外にあるドイツ軍墓地です。


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ミリテール・アルマン・ド・ラ・カンブ墓地(Cimetière militaire allemand de La Cambe)。
(住所:Les Noires Terres, 14230 La Cambe)


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ノルマンディの戦場で亡くなった21,000名を超えるドイツ軍兵士の墓が並んでいます。


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ヴィレー= ボカージュ(Villers-Bocage)の英雄であり、戦車138両と対戦車砲132門を撃破した、ドイツ軍のエース戦車兵であるミヒャエル・ヴィットマンと彼の部下も、ここに眠っています。

本来、写真の上の部分にヴィットマンの墓標があるはずですが、無くなっていました。

なお、墓の位置は、BLOCK 37、Line 3、墓番号120番のあたりです。
 
******************* 9月16日 追記 ********************************************************

8月22日に家族と再訪した際は、ヴィットマンの墓標は戻っていました。

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次に向かったのは、オック岬(La Pointe Du Hoc)。
(住所:14450 Cricqueville-en-Bessin)

オマハ・ビーチの約10km西側の海岸線に突き出した、この岬には、ドイツ軍の155mm砲x6基からなる砲兵陣地があり、ユタ・ビーチとオマハ・ビーチの両方を射程に収めていたため、脅威に感じた連合軍は、米軍の第2レンジャー部隊を送って制圧を狙いました。


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陣地に入ってすぐにある、個人用機関銃座。


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第2レンジャー部隊は、この30mもある崖をよじ登って、陣地を攻撃しました。


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陣地の東にある対空砲座。


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脅威に感じた連合軍は事前に、航空機による爆撃と艦砲射撃を繰り返したため、今でも多数のクレータが残っています。


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露天の155mm砲座。


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岬の先端にある、観測用バンカー。
バンカーの上にはレンジャー部隊の記念碑が建っています。


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岬から見た東の景色。
オマハ・ビーチは正面の崖の裏側にあります。


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岬から見た西の景色。
ユタ・ビーチは正面の崖の裏側にあります。


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観測用バンカーの入り口。
左側に入り口を守る銃眼が作られています。


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バンカー内部には、第2レンジャー部隊の兵士の名前が記されていました。


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バンカーから見た景色。
6月6日の早朝に、この海の先に連合軍の多くの艦船を見つけた監視兵は驚いたでしょうね。


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155mm砲の掩体壕。
現在、掩体壕の上は展望台となっています。

しかし、多数の犠牲を出しながらレンジャーが崖をよじ登ってみると、バンカーにあるはずの155mm砲は、連合軍の爆撃を避けて退避されていました。


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空にはC130輸送機の編隊が飛び回っていました。


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続いて、オマハ・ビーチに来ました。(12:45)
写真はビーチの西端にある桟橋から見たビーチ西側の景色です。
オマハ・ビーチは西から、チャーリー、ドッグ・グリーン、ドッグ・ホワイト、ドッグ・レッド、イージー・グリーン、イージー・レッド、フォックス・グリーン、フォックス・レッドの作戦区域に分けられていましたが、写真に見えるのは、ドッグ・グリーン区域とドッグ・ホワイト区域。


このビーチには、第1歩兵師団、第29歩兵師団、第2レンジャー大隊、第5レンジャー大隊からなる、米第5軍が上陸しましたが、練度の高い独軍の第352歩兵師団の反撃により大損害を出した事から、後に、「ブラッディ・オマハ」と呼ばれることになりました。

特にビーチの東側を担当した第1歩兵師団の先導部隊は、上陸10分以内に全ての指揮官を失い海岸線にくぎ付けになった所に、後続部隊が押し寄せ、海岸はパニックとなった結果、大損害を出しました。

オマハ・ビーチへの上陸部隊の死傷者の割合は、ほぼ50パーセントでした。


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桟橋から西側の景色で、浜の部分がチャーリー区域。
右の崖の裏側にオック岬があります。


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海岸から見た桟橋。
手前には、ドイツ軍のトーチカが残っています。


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オマハ・ビーチにある記念碑。


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第一次世界大戦と、第二次世界大戦で戦った、米国州兵の記念碑。


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オマハ・ビーチの西の端のメール通り(Rue de la Mer)にある、第29歩兵師団記念碑。


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その向かいには、米軍のマルベリーAで使われた浮き桟橋が保存されています。


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車両一台が通れる幅の浮き橋です。


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オマハ・ビーチのほぼ中央にある、オマハ・ビーチ記念碑。
この辺りが、イージー・グリーン地区で第29歩兵師団の担当でした。


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かつては米兵の地で染まったビーチも、今は市民の憩いの場所となっています。
なお、海岸に建つモニュメントが刃のようです。


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オマハ・ビーチの車で行ける東の端には、ドイツ軍のトーチカと、その前に第2歩兵師団の記念碑が建ってます。
トーチカは、ビーチの手前にある丘が切れた部分を守るように築かれています。

この辺りのビーチが、イージー・レッド区域で、第1歩兵師団の担当地域でした。
なお、左手の丘の奥に米兵の墓地があります。


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トーチカの砲は、海岸ではなく東を向いて設置されています。

一方通行のために、ここから丘の上に上がる事が出来ず、一旦オマハ・ビーチ記念碑まで戻って、リベラシオン通り(Av. de la Libération)を上りました。


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リベラシオン通りにある、オマハ・ビーチ記念博物館(Beach Musée Mémorial d'Omaha Beach)。

ノルマンディ海岸は博物館だらけで、オマハ・ビーチだけでも、西側のD-Day オマハ博物館(Museum D-Day Omaha)、中央のオマハ・ビーチ記念博物館、東側にオーバーロード博物館(Overlord Museum)、そして東の端にビッグ・レッド・ワン博物館(Big Red One Museum)があります。
博物館を、いちいち見てるとキリが無いので、どれも中には入りませんでした。(笑)


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オマハ・ビーチ記念博物館の外側に飾られたドイツ軍の88mm対戦車砲(8.8 cm PaK 43/41)。
クルップ社が開発した8.8 cm PaK 43の生産が遅延したため、ラインメタル社が急きょ7.5 cm PaK 40をベースに開発しました。
71口径88mm砲は、当時のあらゆる敵戦車を撃破可能な強力なものでしたが、巨大化した砲は配置につけるだけでも非常に重労働でした。


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88mm対戦車砲は、今回見るのが初めてなので、後姿も紹介します。


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米軍のM59 155mmカノン砲。


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そして、ドイツ軍の海岸防衛設備、コインテット要素 (Cointet-element)。


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オマハ・ビーチ記念博物館を出て、米軍墓地に向かう途中に戦車が見えたので立ち寄りました。(13:45)
写真の建物がオーバーロード博物館ですが、この日は、その周りで戦車を集めた特別イベントが行われていました。

******************* 9月16日 追記 ********************************************************

8月22日に家族と再訪した際に、博物館の内部も見学しました。
内部には、4号戦車やパンサー戦車など、ドイツ軍車両も多数展示されていました。
その際の事は、以下のブログで紹介しています。

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ここでもコスプレイヤー(笑)達が集結していました。
これまで、米兵ばかりを見てきましたが、塹壕を掘っているのは英国兵で、右に立つ前時代的な軍服はフランス軍の者でしょうか。


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ここにはマニアックな車両が集まっていました。
写真は、ユニバーサル・キャリア(ブレンガン・キャリア)。


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ダイムラー偵察車。
ダイムラーと言っても、ベンツとは関係無く、英国製です。


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米軍のM24 チャーフィー軽戦車が走って来ました。
ただし、この戦車の実戦配備は1944年末のバルジの戦いで、ノルマンディー戦には参加していません。


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おなじみ、M4 シャーマン戦車が二両並んでいます。
ただし、左のシャーマンは105mm砲搭載です。


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ドイツ軍の、Sd Kfz 9 18トンハーフトラック。
世界最大級のハーフトラックです。

この他にも米軍のハーフトラックや普通のトラック、ジープ等が多数参加していました。


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ここからは博物館の常設展示です。
まずは、米軍のM4A1 シャーマン中戦車 76mm砲モデル。

 
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次は米軍のM10 駆逐戦車。


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英国のセクストン自走砲。
M3中戦車のカナダ生産版であるラム巡航戦車に25ポンド砲を搭載した自走砲です。


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M32B1 シャーマン TRV(Tank Recovery Vehicle)。
戦場で故障した戦車を修理する車両です。


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連合軍の組み立て式仮設橋ベイリー橋。
カランタン郊外に架けられた橋と同じものです。


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オーバーロード博物館を出て、アメリカ軍墓地(Normandy American Cemetery)に行きました。(14:30)
(住所:Cimetière américain de Normandie)

映画「プライベート・ライアン」でも出てきましたが、広大な敷地に、真っ白い墓標が整然と並ぶ景色は、美しさを感じます(墓地なので不謹慎かもしれませんが)。


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墓地にある記念碑。
ドイツ軍の墓地と比べると、戦勝国の墓地は規模が大きいです。


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記念碑の壁には、ノルマンディの作戦地図と、ヨーロッパ戦線での連合軍の進撃地図(上の写真)が、描かれていました。


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記念碑から見た、墓地全景。

オマハ・ビーチの紹介はこれで終わり。
次は、ゴールド・ビーチに続きます。





ノルマンディ旅行 三日目 ~バンド・オブ・ブラザーズの聖地巡り その2

2018年5月30日~6月3日にノルマンディ地方に行って来ました。

6月2日、ホテルをチェックアウト後、サント=メール=エグリーズの周囲の、HBOが2001年に制作したドラマ「バンド・オブ・ブラザース」ゆかりの地を回りました。

なお、6月1日に回った「バンド・オブ・ブラザーズの聖地巡り その1」は以下のブログで紹介しています。



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サント=メール=エグリーズからフカルヴィルに向かう道沿いに、カラヒー記念碑(Currahee Memorial)があります。
E中隊の中隊長、ミーハン中尉が搭乗したC-47輸送機の墜落地点に近い地に、輸送機に乗っていた犠牲者を追悼した碑が建てられました。
輸送機のクルーと、ミーハン中尉と彼の部下16名の名前が刻まれています。


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碑の横にある、ブーズヴィル・オー・プラン(Beuzeville-au-Plain)の集落の、サント=ブリーチェ教会(Église Saint-Brice)。
(住所:L'Église, 50480 Beuzeville-au-Plain)


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サント=マリー=ドゥ=モン(Sainte-Marie-du-Mont)にある、ノートルダム教会(Église Notre-Dame)。
この教会の周りにも、多くの部隊(コスプレイヤー)が集結していました。


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前を軍用救急車が走っていました。
フランスの有志所有の軍用車両はバラエティーに富んでいます。


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ル・グラン・シュマン(Le Grand Chemin)通りと、ブレクール(Brécourt)通りの交わるコーナーにある、イージー・カンパニー(E中隊)記念碑(Easy Company Memorial)。


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ここは第2話「ノルマンディ降下作戦」でリチャード・ウィンターズに率いられたE中隊がドイツ軍の砲兵陣地(Brecourt Manor Gun Battery)を攻撃した地です。
この地に105mm榴弾砲が4門設置され、ユタ海岸を狙っていました。


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記念碑にはノルマンディで亡くなったE中隊の兵士の名前が記されており、その横には、戦後にウィンターズ少佐(当時)がこの地で描いた戦闘時のスケッチが記されています。


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砲兵陣地はBrecourt manoir農場の横の牧草地に設置されていました。
前日(1日)に、この地に来ましたが、その際はナビだけが頼りで、どの辺りを走っているのか分かりませんでしたが、ブレクール通りでした。


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前日に撮った、農場側から見た牧草地(砲兵陣地跡)。


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ユタ・ビーチからリベルテ通り(Voie de la Liberte)を上って行く途中に米兵の記念碑が見えたので、停まって見ると、リチャード・ウィンターズの記念碑(Richard D. Winters Leadership monument)でした。
(6月1日に撮影)


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カランタン北東にある、トート川に架かる橋。


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カランタン占領後に、進軍してきた工兵部隊が架橋したベイリー橋(Pont Bailey)が今も使われており、車及び徒歩で渡ることが出来ます。
(住所:D89E, 50500 Saint-Hilaire-Petitville)
ただし、ここはバンド・オブ・ブラザースとは関係ありません。

10:15にベイリー橋を出発し、次の目的地に向かいました。

続く


ノルマンディ旅行 二日目 ~ユタ・ビーチ

2018年5月30日~6月3日にノルマンディ地方に行って来ました。

6月1日、18:00にサント=メール=エグリーズを出て、ユタ・ビーチの見学に行きました。


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最初に向かったのは、サント=メール=エグリーズの北側にある、クリスベックの砲台(Crisbecq Battery)。
連合軍の侵攻を防ぐために、ドイツ軍によって作られた大西洋防壁の一部をなす要塞で、21のバンカーで構成されています。
(住所:Route des Manoirs, 50310 Saint-Marcouf)


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すでに開場時間は終わっているので、フェンス越しの見学のみでした。


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コンクリートで作られた掩体を持つ砲台と、オープントップの砲台が残っています。


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ぶ厚い掩体を待つ砲台も、連合軍の爆撃と艦砲射撃で破壊されています。


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要塞からは海岸が良く見晴らせます。


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クリスベックの砲台の横にある、クリスベック砲台の指揮所(Centre de commandement des batteries de Crisbecq)です。


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クリスベック砲台から少し南側にある、アズヴィルの砲台(Batterie d'Azeville)。
(住所:Lieu-dit la Rue, 50310 Azeville)


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ここには破壊されていない掩体が残っています。
駐車場側にある掩体は、中が博物館(土産物屋?)になっていましたが、そこもすでに閉まっていました。


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アズヴィルの砲台を出て、ラヴノヴィル(Ravenoville)から南に走ってる際に、フカルヴィル(Foucarville)の手前にあった記念碑です。
ノルマンディ上陸作戦の後に、この地にドイツ兵の捕虜収容所が作られたようです。


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フカルヴィルから海岸に出て南下すると、自由フランス軍の第2機甲師団の上陸地点があります。
ここには、M4A2 シャーマン中戦車、M8 グレイハウンド装甲車、そしてM3 ハーフトラックが展示されています。


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記念碑から、少し北にあるドイツ軍のトーチカです。


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横にある、一人用のトーチカです。


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トーチカから見たユタ・ビーチ(南側)。
写真右手に、自由フランス軍の上陸記念碑が見えます。


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トーチカから見た北側のビーチです。


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二つ前の写真に写っている、人口港マルベリーの残骸。
遠浅のノルマンディー海岸に上陸を決めた連合軍は、近郊の大型港湾都市を占領するまでの兵站用に大規模な人口港を開発し、マルベリーと名付けました。
しかし、米軍の作ったマルベリーAは6月19日から三日間にわたる嵐で破壊され、その後に放棄されました。


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自由フランス軍の上陸地点から少し南に走った所にある、ユタ・ビーチ上陸博物館(Musée du Débarquement Utah Beach)。
ユタ・ビーチには米軍の第4歩兵師団が上陸。
6日の終わりには、23,250人の兵士が1,700台の車両と共に上陸を果し、その損害も約200名と、他のビーチと比較して非常に軽微でした。

この成功の要因の一つに、上陸時に後背部で大損害を出しつつもドイツ軍を圧迫していた空挺師団の活躍があります。


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上陸地点にある、M4A1シャーマン中戦車。
76mmの長砲身砲が付いています。


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米軍の対空砲。


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博物館の前に建つ、第4歩兵師団の記念碑。


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博物館の横には、LCVP上陸用舟艇が展示されていました。


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そしてその横には、アンドリュー・ジャクソン・ヒギンズの像が立っています。
彼が1941年に開発した、LCVP上陸用舟艇は、第二次世界大戦の全ての上陸作戦で活躍し、連合軍を勝利に導きました。


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ユタ・ビーチから見た海岸線。
博物館が要塞のように見えています。


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博物館の横には、ドイツ軍の要塞が残っています。
D-Dayに米軍に占領された後、第一工兵特別旅団の指揮所として使われました。


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第一波として上陸した第1工兵特別旅団の記念碑。


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要塞の先端にあるドイツ軍のトーチカ。


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ノルマンディ上陸作戦では、「海軍も活躍したんだよ!」と、アピールする海軍記念碑。


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ユタ・ビーチから上陸した、第90歩兵師団の記念碑。


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D-Dayの40周年記念に建てられた碑。


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ユタ・ビーチに建つ、ルーズベルト・ハウス。
D-Dayの前は、ドイツのトート機関の事務所として使われていました。
また、横にはドイツ軍の電話交換室だったと思われるトーチカが残っています。


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ユタ・ビーチにある、0kmの道程標。


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ユタ・ビーチからリベルテ通り(Voie de la Liberte)を上って行く途中に米兵の記念碑が見えたので、停まって見ると、リチャード・ウィンターズの記念碑(Richard D. Winters Leadership monument)でした。
この近くに第2話「ノルマンディ降下作戦」で、彼に率いられた部隊がドイツ軍の砲兵基地を攻撃した地があります。(後で紹介予定)


この後、20:40にサント=メール=エグリーズに戻って、夕食を取りました。

次は、6月2日の朝に、周辺を回った、バンド・オブ・ブラザースの聖地巡り その2に続きます。



ノルマンディ旅行 二日目 ~サント=メール=エグリーズ

2018年5月30日~6月3日にノルマンディ地方に行って来ました。

今回紹介するサント=メール=エグリーズは、ノルマンディー上陸作戦時の第82空挺師団の作戦目標でした。


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町の周囲の散策を終え、まずはホテルにチェックイン。
この日のホテルは、Logis Le Sainte Mere。


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ホテルのロビーには空挺師団に関する展示がありました。


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部屋は広くて綺麗でした。
なお、壁の絵画は、サント=メール=エグリーズ教会とシャーマン戦車でした。


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町の中心部はイベントのために交通規制が行われ、車は入れませんでした。
町の南東の角に作られた臨時駐車場に車を停めると、その前に車両の集まるキャンプ地が見えました。


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キャンプ地に入ると、目の前にM4中戦車シャーマンが並んでいました。
D-Dayのイベントのために集まった車両で、多くは個人所有品と思われます。
フランスのコスプレイヤー、恐るべし!(笑)


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M7自走砲プリースト。
M3中戦車の車体に105mm榴弾砲を乗せた自走砲です。

この臨時のキャンプ地は、イベントのために集まった軍用車両と、コスプレイヤー(兵隊の姿)が滞在しており、臨時の博物館と化しています。


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M3ハーフトラック。
装備品も戦争当時を模したもので、まるでプラモデルのジオラマを見ているよう。


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私はトラックは詳しく無いので型式は不明ですが、対空砲を搭載した珍しいものです。
自由フランス軍の部隊章が描かれています。


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車両だけでなく、塹壕付きの司令部も作られていました。
皆さん、1/1スケールのジオラマを楽しんでいます。


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臨時博物館(笑)の見学後、サント=メール=エグリーズにある、エアボーン博物館(Airborne Museum)の見学をしました。(16:15入場)
入場料は9.9ユーロ。
入り口のシャーマン戦車の前では、式典に来たと思われる米兵(現役)が記念撮影をしていました。


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空挺作戦用のグライダー(ワコ)が展示されています。


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グライダーの中の様子も見る事が出来ます。


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この博物館では、巨大なC-47輸送機を、そのまま展示しています。


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空挺師団用の特殊装備も展示されています。
上の写真は米英の空挺師団に配備された75mm榴弾砲。
この砲が空挺師団独自に持つ、最大火力となりました。


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第82空挺師団、副師団長ジェームス・ギャビン将軍の展示品。
彼は、マーケット・ガーデン作戦の直前に、マシュー・リッジウェイの後任として師団長に昇進しました。


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第101空挺師団、師団長マクスウェル・テイラ将軍ーの展示です。


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空挺兵の装備一式です。


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ノルマンディー時の降下計画図。
サント=メール=エグリーズを含む北西部が第82空挺師団の担当区域で、東と南部が第101空挺師団の担当区域でした。


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こちらが実際の降下地点。
赤丸が82空挺師団で、オレンジが101空挺師団を表します。
闇夜とドイツ軍の対空砲火で、降下は大混乱となり、計画地域から大きく外れた場所にも丸印が記されています。
この結果、米軍側は部隊の集結に非常に手間取りましたが、ドイツ軍側も敵の実態が判らず大混乱になり、上陸作戦時の反撃も弱まりました。


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独軍の足となった、ケッテンクラート。


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ドイツ軍に摂取されたルノー戦車。
連合軍の爆撃で埋まった姿を再現しているのでしょうか。


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  左:ウィリアム・タッカーの軍服。
    彼は第82空挺師団、505空挺連隊の所属で、ノルマンディ、マーケット・ガーデン作戦、
    バルジの戦いを歴戦しました。
  右:ロバート・パイパーの軍服。
    同じく505空挺連隊の所属で、第二次世界大戦中に、米軍最多の5回の降下を行ったそうです。


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ロバート・パイパーの勲章。
下の降下章には、星が四つしかないように見えますが・・・


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レジスタンスの様子。
ここでも、自転車のような自家発電機で無線を使っています。


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GMC CCKW 353、2.5トントラック。
連合軍の兵站・兵員輸送を支えたトラックです。
このトラックには何故か101空挺師団の506空挺連隊と書かれていました。
サント=メール=エグリーズなので、82空挺師団で良いのでは?

17:15に博物館を出ました。


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博物館の向かいの駐車場には、フランス軍や、消防隊の展示が行われていました。


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町の中心にある、サント=メール=エグリーズ教会(Eglise de Sainte-Mère-Église)。


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第82空挺師団の落下傘兵の一部は、誤って町に直接降下しましたが、その多くは火事のために集結していたドイツ軍に射殺されました。
ジョン・スティール二等兵も町に降下した際に、パラシュートが教会の塔に引っかかりましたが、戦闘のあった二時間死んだふりをして助かりました。
現在でも教会では、その様子を人形で再現しています。


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教会の内部。


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  左:聖ミカエルの周りにノルマンディー上陸作戦に関するシンボルが記されています。
  右:聖母子像と、空挺兵の肖像が描かれています。


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町の中央広場を歩く米兵(現役)。


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広場の周りには多くの屋台が出ており、沢山の兵隊(コスプレイヤー&現役)が食事を取っていました。


この後、ユタ海岸の見学に行ったのですが、その様子は次回に紹介します。
20:40にユタ海岸から戻って来ました。


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キャンプ地に戻ると、M5軽戦車 スチュアートが車列に加わっていました。



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505空挺連隊所属のクリフォード・マーガン上等兵は、このロッジの庭に降下し、この屋敷に滞在していたドイツ兵の捕虜となりましたが、後にそのドイツ兵はクリフォードに投降しました。

今は、C-47と言う名の軽食店となっています。


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ユタ海岸で夕食の予定でしたが、開いているレストランが無く、ここで、遅い夕食を取りました。


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サント=メール=エグリーズの町役場です。


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町役場の表には、0kmの道程標が設置されています。
この道程標は、ノルマンディー上陸からバストーニュまで、パットン将軍の進撃路に沿って設置されています。

なお、ユタ海岸にも同じく、0kmの道程標が設置されています。


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駐車場横にある、仮設の観覧車。
夕暮れでライトアップされていました。


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駐車場に戻る前に、再度コスプレイヤー(笑)達のキャンプ地に戻ると、新しいM4A1中戦車 シャーマンが加わっていました。76mmの長砲身砲は力強いです。


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M4A1を見学する人々。
米空挺師団の軍服を着た二名の右側は女性です。
第二次世界大戦当時から米軍には女性の戦闘兵がいたんだ!?(爆)。

ユタ海岸の紹介に続きます。



ノルマンディ旅行 二日目 ~バンド・オブ・ブラザーズの聖地巡り その1 

2018年5月30日~6月3日にノルマンディ地方に行って来ました。

今回は、いよいよバンド・オブ・ブラザーズの聖地巡りです。

バンド・オブ・ブラザースは、米国のケーブルテレビHBOが2001年に制作した、米軍の第101空挺師団、第506空挺連隊、第2大隊、E中隊(イージー・カンパニー)の訓練から終戦までを全10話で描くドラマです。
映画「プライベートライアン」のコンビ、スティーヴン・スピルバーグとトム・ハンクスの製作総指揮により、映画並みの1億2000万ドルの制作費をかけて作られました。

2018年4月28日~5月1日に、バンド・オブ・ブラザーズの聖地を巡って、オランダ、ベルギーとフランスを旅行しました。
それに続いて今回は聖地巡り第2段です。
(時系列的にはノルマンディが先ですが。)

なお前回の旅行は下記のページで紹介しています。



6月1日9:10頃にモンサンミッシェルを出発し、高速道路で次の目的地、カランタンに向かいました。


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高速を降り、カランタンの向かう途中、ノルマンディーでの激戦地サン・ローに立ち寄りました。
(10:10到着)
ここはノルマンディー上陸作戦の最終局面である、7月19日に解放され、7月25日から始まるコブラ作戦の攻勢拠点となりました。

上の写真は、サン・ローの聖十字教会(Église Sainte-Croix)。


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この道を少し走ると、町の中心部に出ますが、私は車で通り過ぎただけ。


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写真では判りにくいですが、サン・ローには旧市街を囲む城壁が残っています。
ゆっくり見学したかったですが、先を急ぎました。


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カランタンに向かう途中、D-Dayに備えて集結中の部隊に遭遇しました。(笑)
この時は、てっきりどこかの特別イベントに参加する車両と思いましたが、この時期はノルマンディー全体がイベント会場となっていました。


1944年6月6日のD-Dayの前夜、海岸付近のドイツ軍を攪乱し、上陸部隊の内陸進攻を容易にするために、米英の空挺部隊が海岸の後背部に降下しました。
米国の第82空挺師団と、第101空挺師団は、作戦地域西方の、サント・メール・ エグリーズ(Sainte-Mère-Église)周辺と、カランタン(Carentan)北部に降下しました。


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カランタン到着後、町の中心に行く前に、カランタン西方にある写真の場所に行きました。
(住所:Route d'Auvers, 50500 Carentan)

バンド・オブ・ブラザースの第3話「カランタン攻略」で、101空挺部隊が占領したカランタンを再奪取するためにドイツ軍が反撃してきたところです。
写真左側からドイツ軍が攻めて来て、右側でE中隊が守っていました。

なお、今回も訪問に当たって、「戦跡散歩」さんのブログを参考にさせて頂きました。
ブログ「戦跡散歩」には、GPSのアドレスも紹介しており、訪問に非常に便利です。


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町の中心を探してググっていると、グーグル・マップに「German Defensive Machine Gun Nest」とあったので寄ってみました。(住所:67 Rue Holgate, 50500 Carentan)
しかし、現地には看板も無く、どこに機関銃座があったのか分かりませんでした。


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11:10にカランタン中心部に到着。
カランタンの町には、カランタン駅の北側に広い駐車場があり、車での訪問に便利でした。


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カランタン駅。


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駅の前に、第101空挺師団の記念碑がありました。
どうやら、この日か、次の日に式典があるようで、記念碑の前に椅子を並べていました。


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1944年6月12日に第101空挺師団によって、この町が解放されたことが記されています。
記念碑には、3つの空挺連隊だけでなく、師団HQや師団付き偵察小隊に至る、全ての部隊名が記されていました。


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記念碑の横にある市庁舎(Hôtel de Ville)。


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オルガット通り(Rue Holgate,)。 
カランタンの町中に万国旗が上がっており、お祭りモードでした。


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空挺師団で町興しを計っているようで、空挺師団に関わる装飾をしているお店が多いです。
上の写真は宝石店ですが、宝石の真ん中に兵士の写真が飾っています。


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こちらはメガネ屋ですが、まるでサープラス・ショップのよう。

******************* 9月16日 追記 ********************************************************

8月22日に家族と再訪した際は、普通の眼鏡屋に戻っていました。
これは、D-Day前のお祭りのようなものだったようです。

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これは本当のサープラス・ショップです。駐車場の前にありました。


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町の中心のレピュブリック広場(Place de la République)。
カランタンの占領後、部隊がここに集結して勲章授与式を行ったそうです。


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広場に面したアーケード。


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米兵(フランス語を話す)がジープに乗って来ました。


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D-Dayの6月6日に向けて、各地で様々な催しが行われており、それに合わせてコスプレイヤー(笑)が集まっています。
伍長や軍曹にしては年がいっていますが、軍服は本格的です。


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水路を通して海に接しているカランタンは、港町の景色も持っています。
上の写真は次の日に立ち寄った際の撮影。


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レンガ造りの建物が並び、港町らしい景色です。

11:40にカランタンを出発しました。


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次に向かったのは、カランタン北方にあるデッドマンズ・コーナーです。
カランタンからは「Village des Ponts Douve」通りを真っすぐ進むだけですが、この日はイベントのために通りが閉鎖されていました。
写真は、その迂回路上で偶然見つけた記念碑。
第101空挺師団、第506連隊、第3大隊 大隊長のロバート・リー・ウォールヴァ―トン中佐は6日の降下時に、リンゴの木にパラシュートが絡まり、この地で亡くなったそうです。
クロワ通り(Rue des Croix)から、一本北に回り込んだ名も無い道沿いにあります。


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12:00にデッドマンズ・コーナーにある、「D-Day Experience」博物館に到着しました。
(住所:2 Village de l'Amont, 50500 Saint-Côme-du-Mont)

ここにもコスプレイヤー(笑)が大勢いて、軍用車に乗った人以外にも、普通の乗用車で観光している人も多かったです。


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博物館の前にある88mm対空砲。


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デッドマンズ・コーナーにある博物館。
「D-Day Experience」とセットになっており、「D-Day Experience」で先にチケットを購入する必要があります。
と言っても、私は別の博物館と思い、ここに最初に来たので、ここでは無賃入場してしまいました。
(後で、「D-Day Experience」で入場料を払いましたよ。)


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その前にある、スチュアート軽戦車。
このコーナーの名前は、ノルマンディー上陸後の6月7日にこの地で撃破されたスチュアート戦車から来ています。
撃破された際に、戦車兵がターレットにぶら下がったまま死亡しましたが、激戦が続き彼の遺骸は四日間放置された事から、デッドマンズ・コーナーと呼ばれるようになりました。


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この地は米国とドイツ軍の空挺師団が直接激闘した場所としても有名です。
こちらの建物はドイツ軍の展示をしています。


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  左:この降下猟兵の迷彩スモッグは、大戦時に、リチャード・ウィンターズが記念に持ち帰ったもので、
    1989年に彼がドイツを訪問した際に、面会したヘイテに手渡され、ここに寄贈されました。
  右:ドイツ軍の無線式所。手前にある自転車のようなペダルで自家発電しています。


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ドイツ軍の軍装品。


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博物館の二階からコーナーを見下ろしました。
正面がカランタンに続く道ですが、イベントで封鎖されています。


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道を歩く、第82空挺師団の兵隊さん。
恐らくフランス語しか話しませんが。(笑)


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博物館の一階は、軍装品を扱う土産屋となっています。
本格的に軍装品がそろっており、米国の空挺ジャケットでも買おうと思いましたが、ピンバッジだけにしました。
前回、マーケット・ガーデン作戦の戦跡を訪問した際に、買いそびれたので、ここで買えて良かったです。


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お土産屋さんには、携帯担架も売っていました。
コスプレイヤーさんが、車両等の装飾のために買うのでしょうか?


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「D-Day Experience」に戻る途中にある、訪問者の名前を記した壁。
リチャード・ウィンターズの名前がありましたが、彼の勇気を称えたナウル家(Noullet family)によるものでした。


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博物館の前にいた、兵士たちです。
地面に座った姿が、本物っぽいです。


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「D-Day Experience」のアメリカ軍の展示品。
後で紹介するアトラクション、デッドマンズ・コーナー博物館とセットで、12ユーロでした。

  左:第506空挺連隊の兵装
  右:アイゼンハワーのジャケット


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第506連隊第二大隊の大隊長ストレイヤー中佐の使った地図。


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  左:空挺兵のパラシュート。
    降下時に空挺兵が機体にフックをかけていますが、目的が判りませんでした。
    今回、自動的にパラシュートを開くための構造が判りました。
  右:敵を欺くためのダミーのパラシュート兵。


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アトラクションは参加人数の制限があり、13:15まで待つ必要がありました。
アトラクションは、作戦のブリーフィングから始まります。


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ブリーフィングが終わると、グライダーに乗り込みます。


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英国の飛行場を飛び立ち、ドーバー海峡を超え、フランス上空で対空砲火を受けた後にグライダーが着陸(墜落?)してアトラクションは終わりました。


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アトラクション終了後に、アメリカ軍の展示の第二段があります。
これはドラマの主人公と言える、リチャード・ウィンターズの制服。


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こちらは、ウィンターズの軍装品です。
この軍服がこの博物館にある事はネットで調べて知っていましたが、アトラクション前の展示室で見つけられず焦りました。


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グライダーのスケルトンモデル。
狭いグライダーに、ジープが押し込まれています。


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博物館を出ると、先ほどの兵隊さん達が、どこかに出発していました。


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博物館を出て、サント=メール=エグリーズの西にあるパラシュート記念碑(Memorial Parachutiste)に移動。
(住所:6-, 10 La Fière, 50480 Sainte-Mère-Église)

  左:パラシュート兵の勇気を称えた、アイアン・マイクの像。
  右:空挺部隊の記念碑。


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アイアン・マイクから見た景色。
第82空挺師団は6月6日の早朝に、サント・メール・エグリーズの町を解放しましたが、その直後からドイツ軍が反撃を行い、9日まで、この地で激戦が繰り返されました。
写真左手の駐車場のそばの橋が、特に激戦地となりました。


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米軍の防衛線となったメルドレ川。
事件か事故のために、警察の潜水士が川底を捜索していました。


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ドイツ軍が攻勢を行った道路を、米兵の一団が進んできました。
彼らはコスプレイヤーではなく、現役の米兵でした。

周囲の見学を終え、次はサント=メール=エグリーズの紹介です。

続く


ノルマンディ旅行 初日 ~ モンサンミッシェル 

2018年5月30日~6月3日にノルマンディ地方に行って来ました。

ノルマンディ地方には、古代のガリア=ケルトの時代、中世のノルマン人の征服等、長い歴史がありますが、一番最近で有名な出来事は、第二次世界大戦の転機のひとつ、ノルマンディー上陸作戦が行われた事です。

今回は、そのノルマンディ上陸作戦の戦跡を巡りました。
と、言いながら、最初は番外編で、まずはモンサンミッシェルの訪問です。


5月30日、ルフトハンザ便で、22:00ミュンヘンを出発し、23:30にパリのシャルルドゴール空港に到着。
この日は、空港横のIibis Paris CDG Airportホテルに泊まりました。


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5月31日。
せっかく空港隣接のホテルに泊まり、ホテルを早く出たのに、空港内の移動に手間取り、8:50にようやくレンタカーを借りる事が出来ました。

それにしても、シャルルドゴール空港は案内が無さすぎです。
大きな空港には必ずある、レンタカーの看板が無く、過去の経験からとりあえずターミナル2に行きましたが、そこでも看板が無く、ターミナル内を行ったり来たり。
人に聞きながら歩いて、ようやくターミナル2Cの一番奥から階下に降りるとレンタカーオフィスを見つけました。


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14:00に、ようやくモンサンミッシェルが見えてきました。
トイレとガソリン給油以外はノンストップでしたが、パリ市内の渋滞につかまった事もあり、380km走るのに5時間もかかりました。 


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この日の宿は、モンサンミッシェルの対岸にある、ホテルLe Relais Du Roy。
通常、村の手前の公共駐車場に車を停める必要がありますが、ホテル宿泊者は予めもらった暗証番号でゲートを抜け、ホテルの前まで入る事が出来ました。


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モンサンミッシェルは橋でつながっており、無料シャトルバスで渡る事が出来ます。
でも、時間があれば景色を楽しみながら歩いて渡るのも楽しいです。


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15:00からモンサンミッシェルを見学しましたが、モンサンミッシェルは、2016年10月31日に訪問しているので、今回は詳細な紹介は省きます。

なお、前回の訪問は、パリからのガイド付き日帰りツアーで、詳しい解説は非常にためになりましたが、見学時間は限られたので、今回、前回の説明を思い出しながらゆっくり見学しました。

なお、前回の旅行記は下記のページで紹介しています。


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ここでは、前回行かなかった、島の南西部分を紹介します。


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建物の中。


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建物の先には、ガブリエルの塔(La Tour Gabriel)があります。


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潮が満ちている際、歩けるのはここまでした。


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17:50頃、モンサンミッシェルの見学を終え、対岸の町に戻って来ました。
何件かレストランを見た後、結局、夕食はホテルでとりました。


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まずはビール。
ローカルビールを頼んだら、このビールが出てきました。


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メインは牛を焼いたもの。
ドイツ的に、肉の塊にソースをかけた料理を想像しましたが、やはりフランスの料理はお洒落です。


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今回、再訪した理由の一つは、島の対岸のホテルに泊まって夜景を撮る事。
でも、夏場は日暮れが遅く、完全に暗くなるのは22時頃になるので、ホテルに戻って時間を待っていました。
しかし、21:30過ぎから強い雨が降り出し、部屋で雨が止むのを待っている間に痛恨の寝落ち!(笑)

23:40頃に目を覚ますと、雨が止んでいたので、慌てて撮影に出ました。

上の写真は橋の手前側から撮影した写真です。


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更に近くで見ようと橋を歩き始めると、頂上部の照明が消えてしまいました。
ライトアップは00時に終わるようです。
このために、今回は三脚まで持ってきたのに、撮影は約10分で終了。

なお、島に渡る橋は、ルートを示す照明はあるものの、基本的に真っ暗でした。
三脚にカメラに取り付けるのも苦労したので、もし夜間に行く場合は照明を持っておいた方が良いです。


******************* 9月16日 追記 ********************************************************

8月22日に家族と再訪した際に撮影した夜景です。

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雨は完全に上がって、月が出てきました。


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明けて6月1日。
朝の散歩も兼ねて、モンサンミッシェルを見学しました。

なお、モンサンミッシェルの潟を守るために、川の水量をコントロールしています。
現在は右側の水位が高く、左側の川に水が流れ込んでいます。


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この日は、先を急ぐのですが、ついつい橋の奥まで歩いてしまいました。
でも、人のいないモンサンミッシェルを撮影出来て満足していたのですが、昨夜の夜景撮影以来、露出オーバーに設定したままでした。(涙)


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約30分で橋を往復しましたが、戻る頃には左右の流れの水位が逆転していました。
でも、この管理ってどういう意味があるのだろう?

9時過ぎにホテルに戻って、チェックアウトをして、次の目的地に向かいます。
いよいよ、バンド・オブ・ブラザースの聖地(笑)を巡ります。


続く




ロワール古城めぐりの旅 四日目 ~ヴェルサイユ宮殿

4月17日(月)は、8時半にホテルを出て、駐車場の周りを散策した後、8:50にソミュールを出発しました。
この旅の最終日で、この日の夕方にはシャルルドゴール空港からミュンヘンに帰る必要があり、朝からロワールを離れてパリに向かいました。

目指すは、この旅最後の城、ヴェルサイユ宮殿です。
ソミュールからヴェルサイユまでは高速で315km。
パリに近づいた所で激しい雨に会いましたが、12:10に宮殿に着いたころには雨も上がりました。


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ヴェルサイユ宮殿です。
雨は上がったとは言え、また今にも降りそうな天気でした。

パリの渋滞を考えると、14時には宮殿を出る必要があり、時間を気にしてパリまで走ってきましたが、ヴェルサイユ宮殿は月曜日は休館日で、逆に時間に余裕ができました!
宮殿内は見学できませんが、庭には入れるので、ゆっくり散策しました。

なお、庭を散策中に天候も回復し、以降の写真は天候の回復した帰り際に撮影したものです。


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ヴェルサイユ宮殿は、1682年に当時治世の絶頂期を迎えたフランス王ルイ14世が建てました。
宮殿の前には、ルイ14世の騎馬像が立っています。


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ルイ14世は、宮殿の完成と同時に臣下の貴族も宮殿内に住まわる事で、彼らの領土からの切り離しと、王との関係の強化を計り、専制的な絶対王政を確立していきました。

なおフランス王家の象徴である、この豪華な宮殿は、以降、多くの王家が宮殿づくりの参考としました。
特にルイ14世に憧れた、我らがルーちゃんは、この宮殿を完全に模倣したヘレン・キームゼ―城を作っています。


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宮殿の前面に広がる屋敷です。
宮殿の前にある円形の広場を囲うように建物を建てる事も、多くの城で真似られています。


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庭側から見た宮殿の全景です。


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宮殿前の池にある、ソーヌ川を象徴する女性像です。


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こちらはローヌ川を象徴する男性像。
ネプチューンの像と思って撮影したのですが・・・笑
ヘレン・キームゼー城の庭園もこの像をコピーしてましたが、あちらもローヌ川の像だったのですね。


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主庭である噴水庭園です。
ルイ14世は、この庭園を、宮殿以上に労力をかけ作りました。
周囲に高地が無く噴水が作れないため、10km先のセーヌ川から揚水し、水道橋でこの地まで運んでいるそうです。
フランス王は自然を超える力を持つとのメッセージを込めたそうです。


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「ラトナの噴水」。
噴水の頂上には、アポロンを守るラトナの像があります。
周りにいるカエルやトカゲは、神の怒りで姿を変えられた村人たちを表しているそうです。
この噴水も、ヘレン・キームゼ―でコピーされています。


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宮殿の北にも庭園が広がっています。
庭園の一番奥には「ネプチューンの噴水」があります。


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途中にある「ピラミッドの噴水」。


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ネプチューンの噴水の手前にある、「ドラゴンの噴水」。


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そして、これが北の庭の一番奥にある「ネプチューンの噴水」。
噴水の北側から見ると、手前の「ネプチューンの噴水」「ドラゴンの噴水」「ピラミッドの噴水」が連なり、その奥に宮殿の北翼が見えます。


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庭園内には多くの像が立っていますが、ネプチューンの噴水の周りにあった三つの像。
左から、「女神ケレス」、「王の名声」、「女神ユノー」です。


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ネプチューンの噴水から西側に歩いたところにある「水の劇場(Theatre D'Eau)の茂み」。
なんか触手みたいなウニウニした物が立っており、恐らく、近代(現代)になって作られたもの(?)。


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そばにあった噴水「子供たちのギルド?(Enfants Dores)」。
作りが新しく、土台がプラスティックっぽいので、やはり現代に作られたもの?


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庭園には幾何学的に木が植えられ、その要所に噴水があります。
これは「ケレスの噴水」で、夏を表しています。


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これは「フローラの噴水」で、春を表します。
中央の「緑の絨毯」を挟んで反対側には、秋を表す「バッカスの噴水」、冬を表す「サトゥヌスの噴水」があります。


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「アポロンの噴水」です。
ルイ13世の時代には白鳥の泉と呼ばれたようですが、ルイ14世が王の象徴である太陽神アポロンの彫刻を飾りました。
この噴水も、ヘレン・キームゼ―にコピーしようとしましたが、未完に終わっています。


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「大運河」側から見た「アポロンの噴水」。
その先に「緑の絨毯」や「ラトナの噴水」があり、その奥に宮殿が見えます。


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庭園の西に延びる「大運河」。


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「列柱廊の茂み」です。
庭園内には茂みに囲まれたエリアがいくつかありますが、休館日のこの日は門が閉まっていました。
中に入れなかったので門の隙間から写真を撮っています。
中央にあるのは、「プルトンに連れ去られるプロセルピナ」。


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庭の南西にある「王の庭園」。


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人口の草を配した泉もありました。
地図には「シャンデリアの茂み」とありました。


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「緑の絨毯」と「アポロンの噴水」、「大運河」。


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宮殿南の庭と、南翼。


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南側にも大きな庭がありますが、「オランジェリー」だそうです。


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冬の間にオレンジの鉢を退避させる建物です。

庭だけであれば二時間あればゆっくり回れると思っていましたが、最後は時間に追われて、南西側の庭の一部を見る事が出来ませんでした。

また、「大運河」の北側にはトリアノン宮もあるので、宮殿内も含めて全てを見ようとすると、一日かかりそうです。
宮殿内を見学するためにも、ヴェルサイユには、また来たいと思います。

14:10に宮殿を出発し、シャルルドゴール空港に向かいました。
高速の一部で渋滞したものの、大きな遅れも無く、約1時間で空港に到着しました。
空港でレンタカーを返却し、飛行機でミュンヘンに帰りました。

私の好きな城三昧だったロワールの旅も、これで終わりです。

この日の走行距離:370km
今回の旅行での全走行距離:906km


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イースター休暇中のフランスは、少し肌寒さはありましたが春の気候でした。
しかし、ミュンヘンに戻ると冬に戻っていました。
写真は、次の日の朝ですが、なんと雪が降っていました。



ロワール古城めぐりの旅 三日目

4月16日(日)9時にトゥールのホテルを出て、西に26kmの所にある、アゼ・ル・リドに向かいました。
アゼ・ル・リド城は、昨日行ったヴィランドリー城からは約10kmしか離れていないのですが、見学時間の都合で、この日にまわしました。


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9:25に城に到着しました。
城の周囲には、何カ所か無料の駐車場が準備されています。
9:00開場と思って来ましたが、9:30開場との事で、開場まで少し周りを散策しました。


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閉まった門の隙間から城を撮影しましたが、残念ながら改装中のようです。


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敷地内に、サン・シンフォリアン教会がありますが、中には入れませんでした。


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門の横には小さな庭園があり、ここでもチューリップが満開でした。


9:30の開場と同時に城に入り、観光客も少ない中、城内を見学しました。
城内の様子は攻城記で紹介予定です。
入場料は6.5ユーロ/人。


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この城は、フランソワ一世治世下の徴税官兼トゥール市長を務めていたジル・ベルトロが1518年から1527年にかけて建設しました。
城の入り口の上には、フランソワ一世の紋章のサラマンダーが刻まれています。


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この城の見どころは、川に映った屋敷のなのですが、残念ながらこちら側も改装中でした。
なお、行く時は気づきませんでしたが、町中にアゼ・ル・リドは改装中とのポスターが貼られて、注意を促していました。(入る前に通知するのは親切だと思います。)

10:10に城を出て、次に向かったのは、西に20kmの所にあるユッセ城。
この城は、当初の予定に無かったのですが、ネットで『眠れる森の美女』のモデルの城と知って訪問しました。

基本的に西に走ればいいのですが、アゼ・ル・リドで見つけた城のパンフレットの住所をナビに入れても認識せず、適当な住所で走った所、離合も難しいような狭い道を走らされました。
なお、今回の旅行では、城の公式ホームページにある住所を入れても、ナビが認識しない事が多くて苦労しました。

途中何度か住所を入れ直し、11:00にようやくユッセ城に着きました。
ユッセ城のそばに無料駐車場があるのですが、既に満車で、かろうじて川沿いの空き地に駐車できました。


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川の対岸から見た、ユッセ城の全景です。
11世紀にバイキングが築いた城砦の跡地に、15世紀にシャルル七世の中隊長、ジョン5世・ドゥ・バイユが城を築きました。17世紀にテラスや庭園が整備され、今の容貌となりました。

入場料は少し高く、14ユーロ/人でした。


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入り口から上がってきた所から見た城です。


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敷地内にある礼拝堂。
1520年にシャルル・デピネーと夫人のルクレス・ドゥ・ポンスに建てられました。


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敷地内にある厩舎です。


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礼拝堂の裏には洞窟があり、ワインの醸造所がありました。
(展示のみ)


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シャルル・ペローは、このユッセ城で、この城をモデルとして「眠れる森の美女」の作品を書きました。
一般の城内の見学コースとは別に、この塔の入り口から「眠れる森の美女」の物語を追う展示がされています。


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塔に上ると、周りの景色も良く見えます。
ユッセの町並みです。


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ユッセ城の庭と、城前の景色。


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塔内の部屋に「眠れる森の美女」の各シーンが再現されています。
ただし、その物語は基本的にディズニー版の物語をベースにしているようです。
(ペロー版より有名ですからね;笑。)

写真は王女オーロラの誕生の場面です。


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子供の生誕の祝宴に招待されなかった魔女が、それを恨んで、「王女は15歳になると、紡ぎ車の錘が指に刺さって死ぬ」という呪いをかけて立ち去るシーンです。


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オーロラ姫が、紡ぎ車で指を刺して眠りにつくシーン。


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魔女の呪いのシーン(左)と、王子が姫を訪れ、眠りから覚めさせるシーン(右)です。
他にもいくつかのシーンが準備され、仏語と英語で各シーンの説明がされていました。


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途中、塔の屋根裏を通り抜けるのですが、屋根裏を見学できるのも珍しい経験でした。

12:10にユッセ城を出て、次は約10km南にあるシノン城を目指します。


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12:30にシノン城に到着。
シノン城にも無料の駐車場がありますが、満車状態で、運よく一カ所だけ空いていました。
城は10世紀にブロワ伯の拠点として築城されましたが、12世紀にイギリスからフランス西部を支配した、アンジュ―帝国(イギリス王国)の南部の拠点として拡大されました。
アンジュ―帝国の最盛期を作ったヘンリー二世と、その息子のリチャード一世(獅子心王)は、この付近のフォントヴロー修道院に埋葬されているそうです。
獅子心王の墓があるなら行ってみればよかったです。


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ロワール川沿いの城は、宮殿が多いですが、このシノン城は武骨な軍事拠点です。
宮殿や庭の維持費がかからないためか、入場料は安く、6.5ユーロ/人でした。


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城下に広がるシノンの街並み。
前を流れる川は、ロワール支流のウィーン(Vienne)川です。


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15世紀初期、シノン城はフランス王太子(のちのシャルル7世)の居城でした。
1429年にジャンヌ・ダルクがシノン城を訪問し、王太子にイギリスからフランスを解放するように訴えたそうで、城内の博物館にジャンヌ・ダルクの展示コーナーがありました。


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シノン城は全長400mにもなる大きな城塞です。
城の西の端から見た景色です。

見学を終え、シノン城を出たのは13:40でした。
この日の最終目的地は、ここから西に約30kmのソミュールで、午後イチに入る予定でしたが、ここまで予定外に時間がかかっており、この時点で少し焦っています。
従って、この日も昼食は抜きです。(笑)


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移動の途中にあったモンソロー(Montsoreau)城。
ウィーン川がロワール川と合流する所に建っています。

なお、ヘンリー二世と、リチャード獅子心王の眠るフォントヴロー修道院は、ここから約5km南にあるようです。
時間は押しているとは言え、折角なので立ち寄りたかったです。


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今回の旅行の目的は、当初は純粋にロワール川沿いの古城めぐりでした。
しかし、計画時に地図を見ていると、ソミュールの地名を発見。
ソミュールと言えば・・・、戦車博物館が有名(?)で、これは立ち寄らざるを得ません!(笑)
シノン城で少し焦っていた理由も、ここの見学に時間が取られるからでした。

14:30に博物館に到着し見学開始。
なお、博物館の正式名称は「Musée des Blindés」で、直訳すると「装甲博物館」です。


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博物館の入り口には、フランス軍のルクレール戦車の試作車が飾られています。
他にもシャーマンやローランドなどが展示されており、更にメイン展示館の横には、レストア待ち(破棄待ち?)の戦車がズラッと並んでいました。

この博物館の展示物もそのうち別に紹介したいと思うので、ここでは主の展示だけを紹介します。

なお博物館の入場料は8.5ユーロですが、写真撮影には別途5ユーロを払う必要があります。
でも、日本の博物館を思えば、これだけの展示物に対して、13.5ユーロでも安いと思います。
(写真を撮るだけで5ユーロは高いと思いますが。)


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今回の訪問で一番期待していたのが、パンター戦車でした。
昨年、ムンスターとコブレンツの戦車博物館を見学しましたが、ドイツの名中戦車のパンターがなぜかありませんでした。
従って、私にとって、これが初めての実車見学です。
パンターは、やはり恰好良いですが、中戦車としては大きいですね。
このパンターはツィンメリット・コーティングされており、迷彩塗装も違和感がありませんでした。

なお、フランスの博物館なのに、ドイツの車両の展示は充実しており、II号からVI号までの各戦車はもちろん、自走砲や火砲も多数展示されています。


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展示物の看板も、戦車の名前だけでなく、主砲径や前面装甲厚などの諸元まで書かれています。
更にドイツの型式(Sd.Kfz.171)まで記されており、本当に戦車が好きな人が展示を監修しているのでしょうね。

なお、右上に書かれた「Allemagne」とは、フランス語でのドイツの事で、ドイツ語とも英語とも、あまりに異なるので毎回戸惑います。


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タイガーIの展示の横には、ドイツ軍の戦車エース、オットーカリウスが紹介されていました。
彼は2015年まで存命だった事をここで知りました。

正直、大戦中の占領軍だったドイツに対して、何らかの悪意的な雰囲気を感じるかと思って来ましたが、全く感じませんでした。


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II号戦車L型戦車、通称ルクス。
II号戦車の派生型ですが、設計段階から全く別物で、速度に特化した快速戦車。
ゲーム「World of Tanks」でも、その快速から手放せない戦車です。(笑)


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対戦車自走砲のコーナです。
手前のヘッツァーからIV号駆逐戦車までが並んでいます。
手前のIII突はシュルツェン付き、次のIII突は105mm砲装備と特徴のある車両です。
IV号駆逐戦車もアルケット社製のIV号駆逐戦車/70(A)です。
車体から専用設計されたフォマーク社製のものと異なり、IV号戦車の車体に、そのまま戦闘室を乗せたため、車高が50mmほど高くなっています。


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対空自走砲、メーベル・ヴァーゲンです。
IV号戦車の車体に37mm機関砲を載せています。


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ここの展示車両の、いくつかは被弾したままの展示となっています。
この写真はフンメルですが、左前面に被弾しています。
米第五戦車師団の戦車に撃破されたとの説明がありました。


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ドイツに続いて、イタリアの展示ホール。
戦闘車両では、カルロ・アルマートM15/42(左)とセモヴェンテ M42が展示されています。


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続いてフランスの展示ホールです。
戦車は、ACG1、ルノーAMR33、ソミュア S35、FCM 36、ルノー R35と、写真のルノー B1 bisが展示されており、その他に装甲車、輸送車、火砲が展示されていました。
第二次世界大戦から早々に脱落したフランスですが、以外と多くの戦車がありました。


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続いて、ワルシャワ条約軍のホールです。
T-34/85、T-54、T-54/55、T-62、T-72(スケルトンモデル)などが展示されています。
でも、この次が大戦中の連合軍車両のホールとなるので、順番が少しおかしい気がします。


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連合軍のホールでは米軍、英軍、ソ連軍、カナダ軍(セクストン自走砲のみ)の車両が展示されています。
米軍は、M3 リー・グラント、M4 シャーマン、M10 駆逐戦車、M8 75mm自走榴弾砲、M3A1 スチュアートや、装甲車、輸送車、火砲が展示されています。


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英軍は、ヴィッカース MarkVI、クルセーダーIII AA II(対空車両)、コメット、マチルダII、ヴァレンタイン、チャーチル Mark IV、センチュリオン Mark VIIIが展示されています。


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ソ連の車両は、S-100と、KV1です。
ソ連の傑作戦車のT-34は別のコーナー(ワルシャワ軍ホールと、大戦の指揮官紹介コーナー)で展示されていました。
この展示のようにジオラマにした展示も多く、この辺からも、この博物館は戦車(プラモ)好きの人が監修していると思います。


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続いて、フランス軍(戦後)のホールです。
写真は最新のルクレール戦車です。


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他に、ARL 44、AMX13 SS11、AMX30、AMX40、AMX50などの戦車や装甲車が展示されています。
写真右端には戦術核ミサイル自走車、プルートンが写っています。
フランスが核兵器保有国である事を改めて思い出しました。


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続いて、各国の現代の戦車の展示ホールで以下の戦車が展示されています。
  米軍 M26、M41、M47、M48、M60 A3
  英軍 スコーピオン、コンカラー、センチュリオン、チーフテン
  ドイツ軍 レオパルト I、レオパルト II、ヤークトパンツァー カノーネ
  スイス軍 PZ 61
  イスラエル軍 メルカバ Mk.I
  スウェーデン軍 S戦車


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展示されていた、ドイツ連邦軍のレオパルト IIです。
この砲塔の形状から、最初はレオパルト Iと思いましたが、看板を見るとレオパルト IIとなっていました。
確かに車体はIIのもので、恐らく試作車なのでしょう。
Wikiを見ると、105mm砲搭載の試作車が、このような形状だったようですが、看板には120mm砲と書かれており仕様が良く判らない車両です。

ここでは想像以上に多くの戦車が展示されていました。
特に大戦後の戦車の数が多く、最後まで見学した所で、最初の戦車の記憶が薄れたため、もう一回大戦中のドイツ軍ホールの見学をしました。(笑)

その後、お土産屋を少し見学後、17:40に博物館を出ました。
18時が閉館時間だったので、やはり私にとってはギリギリの入館時間でした。


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戦車博物館を出た後は、まずはホテルにチェックインです。
この日のホテルは、ソミュール市内の「Citotel Le Volney」です。
ホテルには駐車場が無いのですが、周囲には公共駐車場が何カ所かあるので、駐車場探しは困らないと思います。
私は、写真のル・テンプル・ド・ソミュール(Le Temple de Saumur)の前の広場の駐車場に車を停めました。
(念のためホテルで確認しましたが、青い線のゾーンは次の朝の9時まで夜間は無料だそうです。)

ホテルにチェックイン後、ソミュール市内の散策です。
まずはソミュール城の見学に行きました。
ホテルから行くには、上の写真の正面の道を上って行くと城に到達します。


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これがソミュール城です。
ソミュールもプランタジネット家(アンジュ―帝国)とフランス王家との抗争の中で重要だった城です。
11世紀末にアンジュー伯がこの地に主塔を建てました。
1203年、フィリップ二世は、プランタジネット家との長い戦争の末に、ついにソミュールを征服しました。
その数年後、ルイ9世(聖ルイ)が、現在の4つの丸い塔で囲まれました城を作りました。


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既に閉館しており、中には入れませんでした。


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城から北西側に降りると、サン・ピエール教会(写真)とサン・ピエール広場があります。
この広場の周りにはカフェやレストランが多く、にぎわっていました。


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ソミュール城を北側から見えないかと、少し東に歩くと城に上る階段がありました。
階段を上る右の人は、ロワール・マラソンのジャケットを着ており、足を引きずるように階段を上っていました。
階段の下に8kmの看板がありますが、この日にソミュールでマラソン大会があったようで、その参加者だと思います。


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川沿いから見たソミュール城。
右には昔の防御用と思われる搭があります。


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ロワール川の景色。


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共和国広場(Place de la République,)では、マラソン大会の表彰台が出ており、その周囲では屋台の撤収中でした。


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共和国広場の前には由緒がありそうな建物がありますが、何の建物かは不明。


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ソミュールの劇場「ル・ドーム」です。
橋から続く、劇場前の通りがソミュールのメインの通りで、この辺にもカフェやレストランが集まっています。


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私も、通り沿いのカフェのテラスに入りました。


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メニューは仏語で読めず、お店のお姉さんも英語を話さず、結局読めるメニューの中でアメリカン・バーガーを選びました。(泣)
美味しかったのですが、この旅行でフランスの料理は食べませんでした。


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夕食を食べた後はホテルに戻りました。
ホテルのそばにあるソミュールの郵便局です。


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これが今回泊まった「Citotel Le Volney」です。
「ル・ドーム」から500m離れただけですが、静かな環境でした。
20:45にホテルに戻りました。


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次の朝、ホテルを出て駐車した広場に行くと、民家の上に塔が見えたので行ってみました。
城壁の防御の塔に見えるので、城壁跡を探して周囲を歩きましたが、それらしい雰囲気はありませんでした。


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歩いている時に見つけた、塔を持つ屋敷。
結局、城壁があったのかどうか、よく判りませんでした。


三日目終わり。
四日目に続きます。

この日の走行距離:91km



ロワール古城めぐりの旅 二日目 その2

4月15日(土)、16時にシュノンソーを出発し、西に55kmの所にあるヴィランドリー城に向かいました。
ヴィランドリー城の横にある無料の駐車場に車を停め、17時から城の見学を行いました。


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1536年にフランソワ一世の財務大臣ジャン・ル・ブルトンが、当時あった城砦を破壊してヴィランドリー城を建てました。屋敷の後ろにある塔は、当初の城砦の残りだそうです。

19世紀に伝統的な庭園を壊し英国式庭園が造られたそうですが、1906年に現城主の曾祖父であるヨアキム・カルヴァロが城を買い取り、16世紀のルネッサンス様式の庭園に戻したそうです。
城内は、攻城記で紹介しているので、ここでは庭園を中心に紹介します。

ヴィランドリー城の攻城記:

城の入場料は10.5ユーロ/人でした。


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城の入り口の西側にある野禽飼育場。
中世の庭園は装飾だけでなく、実用的な部分も多く含まれています。


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城の塔の屋上から見た、庭の「菜園」部分。
9つの四角のエリアで異なる野菜を育てるそうです。


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塔の西側の庭園は、「装飾的庭園」。
各区画に異なる幾何学模様の庭が作られており、各々の模様に意味があるようです。

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城内の装飾品。
中国の扇子が展示されていましたが、骨から外して額縁に入れるのは、珍しい展示の仕方だと思います。


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ヴィランドリー城のタペストリー


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庭の東側は展望台となっており、そこからみた庭園。
手前が「装飾的庭園」で、水路の奥が「菜園」です。


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庭の南側には「水の庭園」と、その奥に「太陽の庭園」が造られています。


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庭の南東の角には、18世紀に建てられた「謁見の小亭」があります。


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「水の庭園」にある噴水ですが、この水の出方が、フランス王室のユリの形状と考えるのは、考えすぎでしょうか?(パンフレットにも、そのような説明は無かったです。)


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「水の庭園」から見た水路です。
右手奥に宮殿、左手奥に野禽飼育場の建物が見えます。


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「太陽の庭園」です。
ここは多年草の草木で飾られています。


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星形の噴水の周りには黄色とオレンジの花で飾られていました。
黄色は菜の花ですが、この季節のフランスは各所で菜の花畑が満開で綺麗でした。


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「太陽の庭園」と「迷路」の間を東西に走る道ですが、東の「森」の上まで道があります。


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これが「迷路」です。

ここで見学を終え、18:30にヴィランドリー城を出発しました。


この日の最後の目的地は、東に20km戻ったトゥールの町です。


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この日の宿は、トゥールの町に対してロワール川の対岸にある、「Lit en Loire」です。
ホテルにチェックインした後、トゥールの町の散策に出ました。
写真はロワール川の北岸から見たトゥールの町で、左にあるのがウィルソン橋。


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ウィルソン橋からみたカテドラル。
右の緑の屋根の建物は図書館です。


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ウィルソン橋から見たトゥールの町。


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川岸に金色に輝く像の掲げられた噴水を見つけました。
第一次世界大戦時に、アメリカのSOS(Services of Supply)のHQがこの町に置かれた事を記念した噴水です。


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町の東側にある、トゥール城とカテドラルです。
11世紀にアンジュ―公の領地となり、この地に居城が築かれました。
13世紀にはフランス王家の所有となりましたが、ほどなく王家は、より快適なロワール渓谷沿いの宮殿に移り、この城は放棄されました。

トゥール城の攻城記:


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カテドラル、サン・ガルシアン教会です。
トゥールの町は15世紀にはフランスの首都だったこともあり、カテドラルも立派でした。


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フランス国王シャルル八世の息子、シャルル=オルランの棺です。
王位継承者でしたが、三歳で亡くなったため、シャルル八世の死をもってヴァロア朝は断絶しました。


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教会のステンドグラスも立派でした。


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旧市街の残る西部に向かう途中にあった、トゥールのオペラ座です。


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旧市街地区にある、シャルルマーニュの塔(左の写真)と時計塔(右の写真)。
二つの塔は、かつてこの地に建っていたサン・マーティン教会の遺構です。
シャルルマーニュの塔は、教会の十字部分の北の塔、時計塔は西構の南の塔です。
二つの塔が、かつての教会がいかに巨大なものだったかを示しています。


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現在のサン・マーチン教会です。
都市の再開発のために昔の教会は壊され、この教会が新たに建ったようです。


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トゥールの旧市街の中心は、古い木組みの建物の残る、Plumereau広場。
この周りにはレストランやバーが並び、客で賑わっていました。

私はこの前に見つけたスーパーで食事を買っていたので、立ち寄らずにホテルに戻りました。


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トゥールの町の対岸の景色です。今回泊まったホテル「Lit en Loire」は写真に写った白い建物(教会の左側)の左側にありますが、普通のホテルと違って民宿のようなホテルでした。
部屋は下の写真のように、とても良く、価格もリーズナブル。
小さいながら、専用の駐車場もありました。

一方で、受付が21時以降は閉まってしまい、夜間に何も要求する事が出来ません。
(従って夜間のチェックインも出来ません。)

私も散策から帰った時は既に21時を過ぎていたので、WiFiのパスワードが判らず困りました。
(結局、部屋の中の張り紙に書かれていたのですが。)

また、次の日は日曜と言う事で、朝食が8:00以降になると言われたので断りました。
(そのためにスーパーで買い物をしたのですが。)


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部屋はこんな感じで、古城ホテルのように雰囲気が良いです。
(古城ホテルと違って、部屋は広く、調度もしっかりしています)。


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壁に架けられたタペストリーも雰囲気が良く、気に入りました。

二日目終了

この日の走行距離は140kmでした。




ロワール古城めぐりの旅 二日目 その1

4月15日(土)9時前にブロワのホテルを出て、ロワール川沿いを西に向かいました。


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ブロワから西に16km行ったところにショーモン城があります。
10世紀の頃にブロワ伯のユード1世が、アンジュ―公に対する防衛のために作った城塞が元になっています。
12世紀からアンボワーズ家の所有となりましたが、15世紀後半に宮殿に再構築されました。
1560年にこの城はアンリ二世王妃のカトリーヌ・ド・メディシスの資産となり、その後、アンリ二世の愛妾ディアヌ・ド・ポワティエに押し付け、彼女をシュノンソー城から追い出したそうです。

残念ながらまだ開館時間前だったので、城内は見学できませんでした。
なお、この写真はロワール川の対岸の道端にあった駐車スペースから撮りました。
(撮影の最適位置に駐車スペースがある事は珍しいです。)


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更に西に20km走ると、アンボワーズ城があります。
私は城の対面にある中州にあった小さな駐車場(無料)に車を停めました。
(この写真は駐車場から撮影。)

この地にはローマ時代から、ロワール川の重要な浅瀬を制するための砦がありました。
中世にはアンジュ―公とブロワ伯がこの城塞をめぐって激しい攻防を繰り返しました。
15世紀にシャルル八世がこの城を所有した後、フランス王家の宮殿として改築されました。

アンボワーズ城は攻城記のブログでも紹介しています。


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中州から橋を渡ってアンボワーズの町に向かいます。
橋から城の威容を見る事が出来ます。


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アンボワーズの町の風景です。
城への入場は左側の上り坂を進みます。
10:10に入城しました。
入場料は11.5ユーロ/人。


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城内南側にサン・テュベール礼拝堂があります。
これは、15世紀末に王家の私的な礼拝堂として建てられました。


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この礼拝堂には、レオナルド・ダ・ヴィンチの墓があります。
この時代、フランスが何度もイタリア進行を繰り返した際、イタリアのルネッサンス文化に感化され、その文化を導入するために多くのイタリア人がフランスへ招聘されました。


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城内の宮殿もイタリア・ルネッサンスの様式が取り入れられました。
右側のフランソワ一世翼が、ロワールで最初のルネッサンス様式の建物です。


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ここにも、記念撮影用(?)の額縁があったので、使ってみました。

なお、この城にはロワールで最初のルネッサンス様式の庭も作られたそうです。


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城内にいた猫。
近づいても逃げませんでした。


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城内にはレオナルド・ダ・ヴィンチの像があります。
ここには以前、彼が最初に埋葬されたサン・フロランタン教会があったそうです。


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城からみたロワール川の景色。

正面の中州の左端、ちいさな林がある部分に私が車を停めた駐車場があります。
なお、川沿いにも駐車場がありますが、混んでいました。


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アンボワーズの町では中世の恰好をした人のパレードが行われていました。


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アンボワーズの町の中心、ミッシェル・デブレ広場から見た城です。
正面の教会は、レオナルド・ダ・ヴィンチの眠るサン・テュベール礼拝堂。

なお、この道を東に600m歩くと、クロ・リュセ城があります。
私は気づかず車で移動しましたが、ここから歩いた方が早いかも知れません。


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屋台で見かけたパンを購入。
表面が真っ黒で、ちょっと不気味です(笑)が、黒い部分は見たまんま焦がしています。
この苦さが人気???


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内部はフワッとしたカステラ風で、甘くて美味しかったです。
なお、これがこの日の私の昼食でした。


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先ほどのミッシェル・デブレ広場から延びる道に塔が見えたので行ってみました。
町の城壁かと思って行ってみましたが、15世紀に作られたトゥール・デ・ロルログと言うの名の建物でした。
(詳細不明)

12時前にアンボワーズを出て、次の城、クロルシェ城に向かいました。


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城の手前の有料駐車場に車を停めると、駐車場前に「シャトー・ガイラード(Chateau Gaillard)」の看板があったので、ちょっと寄り道しましたが、昼休み中なのか、中には入れませんでした。
門の看板を見ると、ルネッサンス様式の小さな宮殿と庭があるようです。


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途中の道にいた鶏。
恰幅が良かったので写真を撮りました。


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駐車場に戻り、クロ・リュセ通りを城に向かいます(左の写真)。
200mほど坂道を上るとクロ・リュセ城が見えてきました(右の写真)。

繰り返しますが、この道をそのまま600m歩くと、アンボワーズ城の下の、ミッシェル・デブレ広場に行く事が出来ます。
車では2kmほど回り込んで来ましたが、途中アンボワーズの町を抜けるので走りにくかったです。


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クロ・リュセ城。
この城は国王ルイ11世の給士長であったエチエンヌ・ルルーにより1471年に建てられました。
1490年にシャルル八世の所有となった後、フランソワ一世によってフランスに招かれたレオナルド・ダ・ヴィンチが、1516年から亡くなるまでの三年間、この城で過ごしました。

クロ・リュセ城は攻城記のブログでも紹介しています。


なお、この城は庭園の見学も含まれるせいか、入場料が少し高く、15.5ユーロ/人でした。
12:15に入場。


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レオナルド・ダ・ヴィンチの寝室です。


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寝台にはネコが休んでいました。
ここの飼い猫なのでしょう、多くの観光客にも、全く動じていませんでした。


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ダ・ヴィンチのアトリエです。
パンフレットの説明では、「彼がフランスに到着して500年後に彼のアトリエが再発見され、再現された」とありますが、2015年に彼のアトリエが新たに再発見されたとは思えないのですが・・・結局は「2015年に当時を想像しながらここに再現された」という意味なのでしょうか?


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モナリザも掲げられていました。


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この城の地下には、彼の設計した技術の模型が展示されています。


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この城からは、アンボワーズの城が見えます。
ダ・ヴィンチは寝室から親しかったフランソワ一世の居城を見るのが好きだったそうです。
激動のルネッサンス期を生きた彼ですが、亡くなる前の最後の三年は落ち着いた生活を送れたのでしょう。


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更にこの城の庭は、ダ・ヴィンチ・パークとなっており、彼の作品(技術から絵画まで)が広い庭園内に展示されています。
写真は彼の設計した戦車の模型。


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金角湾の橋。
1502年にトルコのスルタン、バヤズィット二世に頼まれ、金角湾に架ける橋を設計しました。
完成すれば360mにもなる長い橋でした。
16世紀の設計とは思えない、近代的なデザインです。

13:10にクロ・リュセ城を出発、10km南にあるシュノンソー城へ移動し、13:30にシュノンソー城の駐車場に到着しました。
シュノンソー城も超有名な城なので、広い駐車場が準備されていましたが、なんと無料でした。


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城への入り口です。
入場料は13ユーロ/人でした。


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木立の中の道を抜けると城が見えました。
ここから見ると、手前の塔と重なって別の城に見えます。


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元々この地にはマルク家の城塞と水車があったそうですが、1513年にシャルル8世の侍従のトマ・ボイエが購入後に、塔の部分だけを残して取り壊しこの宮殿を建設しました。
右にあるのが、残されたマルク家の塔です。

最終的にボイエの息子によりフランソワ1世に献上された後、この城は王家の所有となりました。
この城は、女性城主が多かったので、「貴婦人たちの城」とも言われています。
特に、アンリ二世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエと、王妃カトリーヌ・ド・メディシスの、この城を巡る確執は有名です。

シュンンソー城は攻城記のブログでも紹介しています。


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城内を見学中ですが、イースターの期間中のため、各部屋にイースターの飾り(卵やウサギを置いた飾り)が飾られていました。(他の城でも同様)


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ギャラリーと呼ばれる長い展示室。
ここがシュール川をまたぐ橋の部分で、カトリーヌ・ド・メディシスが今の形の建物としました。


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ギャラリーの先から対岸の庭に出る事が出来ます。
対岸から見る、この城も美しいです。


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城の東には、広大な「ディアーヌの庭園」があります。


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「ディアーヌの庭園」とシュノンソー城。


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城の西にある「カトリーヌの庭園」です。


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庭に咲く花々。


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「カトリーヌの庭園」とシュノンソー城。


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「カトリーヌの庭園」の北側にある、「緑の庭園」。
1825年に当時の城の所有者であった植物学者ヴィルヌーブ伯爵夫人が作った英国式庭園です。
その奥の建物は18世紀-19世紀にオランジェリーとして整備されたもので、現在は高級レストランとなっています。


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「緑の庭園」の東側に、今はカフェテリアになっている建物があります。
その地下にはワインセラーがあり、シュノンソー・ワインの試飲・販売をしていました。


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同じ建物の地上部分。


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シュノンソーのギャラリーは第一次世界大戦中に、当時の城主ガストン・ムニエ氏が自費で病院に改装していました。その時の様子が、ここで展示されています。


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馬車のギャラリーです。
「緑の庭園」の北側にはカトリーヌ・ド・メディシスの厩舎だった、「16世紀の農場」があり、その一角に多くの馬車を展示したギャラリーがあります。


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「16世紀の農場」です。


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「16世紀の農場」の北にある、「花畑」です。
城の装飾に使われる花を育てる庭園で、この時は多種のチューリップが咲いていました。

私はここから駐車場に出ましたが、メインエントランスの通りを挟んだ東側にも広大な庭が広がっており、「緑の迷路」や「女像柱」があるようです。

16:00にシュノンソーを出発しました。


その2に続きます。

ロワール古城めぐりの旅 初日

2017年4月14日(金)から17日(月)のイースター休暇を利用して、ロワール古城めぐりをしてきました。
ロワール川と、その支流沿いは、豊かな田園地帯が広がり、中世からルネッサンス期にかけてフランスの貴族たちが多くの城を築きました。
ロワールの古城は、優雅な宮殿が多く、防御拠点としてのライン川沿いの古城群とは趣が異なります。
その古城の価値が認められ、ロワール川流域は世界遺産に指定されました。


4月13日(木)の17時過ぎに仕事を終え、一旦帰宅後にミュンヘン空港に行き、20:30発のエールフランス航空でパリに飛びました。
その日は、シャルルドゴール空港のターミナル3の横にある、「ibis Styles Paris CDG Airport Roissy」ホテルに宿泊。

4月14日(金)は8時半過ぎにホテルを出て、ターミナル2横のAVISでレンタカーを受け取り、9時過ぎにロワール方面に出発しました。

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オートマのコンパクトカーを予約していましたが、出てきたのはプリウスでした。
ハイブリットカーを始めて運転しましたが(日本で一度だけ試乗した事があります)、動き始めの無音さは感動的ですね。
馬力はありませんが、速度制限のあるフランスの高速道路では、十分な性能でした。

最初に向かったのは、パリから南に約200kmの所にある、シュリー・シュル・ロワール城。
パリの周囲は少し渋滞しましたが、パリ郊外を抜けるた後は順調に走行し、12時に城に到着。
城の横にある無料の駐車場に車を停めました。


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城は、ロワール川沿いにあるシュリー・シュル・ロワールの町の横に建っています。
元はロワール川の渡河点を守る城砦として作られましたが、14世紀から何度か拡張されました。
17世紀からはシュリー公爵家の居城となりました。

城内の見学もできるようですが、城に着いたのは12時でちょうど昼休みでした。
この他のロワールの城の多くでも、昼休みがあるので、中を見学する場合は開館時間の確認が必要です。

なお、内部は見学できませんでしたが、シュリー・シュル・ロワール城別館の攻城記でも紹介しています。


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4月中旬のフランスは、まだ肌寒さは残るものの、春を迎え多くの花が咲いていました。


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シュリー・シュル・ロワールの街並みです。
フランスの街並みは、ドイツのものとは違います。


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12時半にシュリー・シュル・ロワールを出て、西に約80kmの所にあるシャンボール城に向かいました。
この城はロワール川の古城でも、一二を争う有名な城で、この日も多くの観光客が訪れており、第一駐車場は満車で、第二駐車場(どちらも有料)に車を停めました。
14時前に到着です。

シャンボール城は16世紀前半にフランス国王フランソワ一世が狩猟小屋として建設しました。
フランス国王の富と権力の象徴として建てられ、完成直前には、当時の宿敵ハプスブルグ家のカール5世を招待して見せびらかしたそうです。
しかし、あくまでも狩猟用の屋敷で、彼が滞在したのは短い期間だったようです。
更に彼の死後は80年以上も放置された後に、ルイ13世の弟であるガストン公や、ルイ14世により改修されたそうですが、結局ルイ14世もこの城を放棄したようです。

今ではフランスを代表する観光名所になっていますが、その歴史は苦難の連続だったようで、なんかノイシュバンシュタイン城を思い出すエピソードです。

なお、シャンボール城は別館の攻城記でも紹介しています。


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城の中央にはレオナルド・ダ・ヴィンチの設計と言われる、二重のらせん階段があります。
二つの階段を使う事で、相手と会うことなく三階まで登り降り出来る設計となっています。
ですが、同じ階段を使えば当然鉢合わせるわけで、何か使用時のルールがあったのでしょうか?

また、上の写真は三階(欧州式の二階)のものですが、廊下の天井にはフランソワ一世の紋章であるサラマンダーと「F」の文字が一面に刻まれています。


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左は、城内にあったフランソワ一世の像。
右は、ルイ14世の像。


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シャンボール城の屋上から見た北西側の庭です。
いかにもフランス式庭園って庭です。


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屋上には多くの塔が立っていますが、写真は中央にある塔。
上まで登れる構造になっていますが、一般客は立ち入りできません。


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屋上から見た南東側の庭です。


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東側には運河が作られています。
写真右側にある建物は厩舎です。


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南側の景色です。
中央には大きな納屋があります。


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南側から見たシャンボール城です。
こちら側には主城郭の周りに城壁が作られています。


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城の横にはサン・ルイ教会があります。
こじんまりとした教会ですが、内部の天井にはフランス王家のユリの紋章で飾られていました。


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第二駐車場から城に向かう途中にあった橋。
フランスの田舎の景色です。

17時前に出発しましたが、結局3時間もこの城を見学していました。(笑)


次はシャンボールから約20km南西にあるシュヴェルニー城です。
17:30にシュヴェルニー城に到着。
なお城の横に無料の駐車場がありました。


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シュヴェルニー城は、シュヴェルニー公爵家のフィリップ・ユローにより1624年から1630年にかけて築かれました。

庭に記念撮影用の額縁があったので、それを使って写真を撮ってみました。


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内部の見学もしましたが、詳細は攻城記で紹介しています。

写真は武具の間です。


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名前の通り、多くの武具が展示されていますが、その中に日本刀も展示されていました。
近世の宮殿にはアジアの物が多く展示されていますが、中世(ルネッサンス期)の城に、日本刀が展示されているのは、ちょっと珍しいです。


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城の北側には噴水のある庭があります。


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更に藤棚があり、この時は藤が満開でした。
他にもシュンンソー城など、多くの城で藤の花が植えられていました。
ドイツでは藤は見ない気がします。


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藤やチューリップも満開です。


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更に庭の北側に、オランジェリーと言う建物があります。
18世紀には、冬季の寒気を避けるため鉢植えのオレンジの木をこの建物に退避させていました。
フィレンツェのボーボリ庭園にはレモンを退避させるリモナイアと言う建物があり、当時の流行りだったのでしょう。


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シュベルニーの街並みです。


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シュベルニーの町役場です。
Mairieと書きますが、マイリ―と読むのかな?(フランス語の読み方は良く判りません。)


次に向かったのは、この日泊まる宿がある、ブロワの町です。
ブロワはシュベルニーから北西に16kmの所にあります。

19時半前にホテルに到着しました。
写真を撮り忘れましたが、この日のホテルはブロワ駅のそばにある「Citotel Hotel Louise de Savoie(旧ホテル サヴォイエ)」です。
ホテルの駐車場を予約していましたが、運よくホテル前の路肩に駐車できました。
そこは次の朝の9時まで無料だそうです。


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ホテルにチェックイン後にブロワの町を散策しました。
夏時間は遅くまで明るいので観光には最適です。
(その分歩き回るので、疲れますが・・・)

写真はホテルのそばにあった建物。
宮殿かと写真を撮りましたが、大学のキャンパスのようです。


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先の建物は高台にありますが、眼下には、サン・ニコラス教会があり、その後ろにはロワール川が流れています。


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これがブロワ城です。
歴代のフランス王侯が建物の増築を行ったため、様々な様式の建物があります。
写真は西側にある、オルレアン公ガストン翼。
1635-1638年の建設。


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北側にある、フランソワ一世翼。
1515-1518年の建設。


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正面にあたる、東側にあるルイ12世翼。
1498-1500年の建設。


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入り口の上にはルイ12世の彫像があります。


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残念ながら既に閉館しており、中には入れませんでした。
入り口の柵の隙間から撮った中庭の写真です。
正面がガストン翼で、右がフランソワ一世翼。
右にルネッサンス建築の傑作と呼ばれる、フランソワ一世の螺旋階段が見えています。

なお、ブロア城は別館の攻城記でも紹介しています。(内容はあまり変わりませんが・・・)


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城の見学の後はロワール河畔に降りました。
写真はロワール川に架かるジャック・ガブリエル橋。
ブロワの街は川の対岸にまで広がっています。


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橋のたもとにある町の中心の広場です。
右の通りの奥には、この町のカテドラル、サン・ルイ教会が見えています。


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橋から見た、ブロワの町の東側の景色。
左にあるのがカテドラル、サン・ルイ教会です。


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ブロワの町の西側の景色。
左に見えるのが、サン・ニコラス教会で、夕日が沈む所にブロワ城があります。


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橋から見たロワール川。
何となくフェリーの航跡に見えます。


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カテドラルに来ました。
この教会の歴史は長く、時代に沿って改築され名前も変わりました。
ルイ14世によってゴシック様式に改築され、1697年サン・ルイに捧げられたカテドラルになりました。


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左の写真は15世紀に建てられたVillebresme家(読み方不明)の屋敷。
右は、同じく15世紀に建てられたアクロバッツ・ハウス。
どちらも木組みの模様が特徴的です。


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教会の西側にある、Gallois通りが昔のブロア市の城壁跡で、当時の塔が残っています。


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少し判りにくいですが、城壁の一部も残っています。


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同じくGallois通り沿いの城壁と一体化したような建物。


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上の二枚の写真はブロア城の北側にある建物です。
撮影時は教会と思いましたが、何か公共の建物のようです(?)


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ブロワ駅。
この時既に21時になっており、レストランを求めて駅に来ましたが、周囲にレストランはありませんでした。
この日は昼食も食べていないので、流石にお腹が空いています。
街中で食べるべきでした。


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駅の横には、分不相応な螺旋階段がありました。
どうも線路を渡るための歩道橋のようです。


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宿泊したホテルにもレストランが無く、向かいのホテルのレストランでようやく夕食が取れました。
ビールのロゼがあったので頼みました。
注文時にスタッフがフルーティなビールだと言っていたので、バイスビールのような味を想像しましたが、べリー味の甘いビールでした。


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この日の夕食はピザです。
フランス語のメニューが全く判らず、フランス料理にチャレンジできませんでした。

この後22時にホテルに戻って、そのまま速攻で寝ました。

この日の走行は305km。


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明けて、4月15日の朝。
次の目的地に向かう前に、ロワール川の対岸に立ち寄り、対岸からブロワの町を撮影しました。
左から、ブロワ城、サン・ニコラス教会、中央にカテドラル(サン・ルイ教会)が見えています。


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少し車を移動させて再び撮影。
左から、サン・ニコラス教会とブロワ城です。

二日目に続きます。


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