levante2019の旅日記

YAHOOブログの終了に伴い、引っ越してきました。 アメリカ3年、ドイツ3年の駐在を終え、2019年3月に帰国しました。 自転車やウォーキングなどを中心に日々の活動を紹介しています。

その他の欧州旅行記

アテネ旅行 3日目 ~国立考古学博物館

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月28日、今回のギリシア旅行の最終日です。


d50295e4.jpg


起床してすぐにパルテノン神殿が見えるのは、素敵な一日の始まりです!
この朝は少しのんびりと過ごし、8:40にホテルを出て、シンタグマ広場まで歩きました。


abcdfe77.jpg


国会議事堂前の「無名戦士の墓」の前で、9:00から行われる、衛兵の交代式を見に来ました。
この衛兵交代は毎正時に行われており、日曜日の10:50からは大規模な衛兵交代式が行われるそうです。


02d7f167.jpg


ギリシア独立戦争を初めとする幾多の戦争で亡くなった兵士を祭った「無名戦士の墓」。
そこを警護する衛兵の交代式です。
ギリシアの民族衣装で身を包んだ兵士の行進は、おとぎの国のようです。


2143cca8.jpg


衛兵交代式を見た後は、地下鉄でオモニア駅に移動し、そこから北上して「国立考古学博物館」に行きました。


665c7c55.jpg


ここでは、ギリシアで発見された古代からの出土品が展示されています。


1483d658.jpg


ギリシアと言えば、人物像。(?)
まずはアルカイック期(紀元前9世紀~前480年頃)の彫像が並びます。
この時代は、正立した人物像が多く作られています。

なお、紀元前480年は、ペルシアのクセルクセス1世の30万の兵に対し、スパルタ王レオニダスが300人を率いて奮戦した後玉砕したテルモピュライの戦いのあった年です。


5db7523b.jpg


ペルシア戦争後、アテナイを筆頭にギリシアの諸ポリスが経済発展し、芸術も大いに進化します。
この時期はクラシック期(紀元前480年~前323年)と呼ばれています。
なお、紀元前323年は東方大遠征を成し遂げたアレクサンダー大王が亡くなった年で、彼の死後ヘレニズム期と呼ばれます。

写真の「ゼウス(またはポセイドン)像」は、紀元前460年頃の作ですが、写実的で躍動感にあふれています。


08991ae8.jpg


展示は変わって墓石のコーナーです。
右の写真はワインの壺をかたどった墓石。
いずれも、紀元前420年ー410年ごろの作。


9b6d676c.jpg


  左:紀元前400年頃のアフロディーテ像。
  右:同じく紀元前400年ごろの女性像。

いずれも、服のひだまで細かく描写された、躍動感のある像です。
彫像は、この時代で完成していますね。


1e0aa125.jpg


メイン展示室の横に、アテナ像を集めたエリアがありました。
やはり古代アテナイの祭まつわれた、ったアテナ女神は別格なのでしょう。


7fb32d74.jpg


  左;パルテノン神殿に建っていたアテナ像のコピー。(紀元3世紀前半の作)
  右:別のコーナーにあった像で、アテナ像と思いましたが、アルテミスに捧げられた像だとの事。
    これも紀元3世紀前半の作。


a541adba.jpg


  左:紀元5世紀の墓石。
  右:紀元前300年ごろのオリジナルを、紀元前2世紀に模した女性像。
       衣装のひだの描写が細かいです。


e56c2250.jpg


紀元前140年頃の「馬に乗る少年」の像。
躍動感溢れる像で、この博物館の目玉のひとつです。
でも少年、小さすぎない?


770265f0.jpg


続いて、ミケーネ文明(紀元前16世紀―前11世紀頃)の展示です。

上の写真は、「アガメムノンのマスク」と思って写真を撮りましたが、違っていました。


464f034b.jpg


こちらが「アガメムノンのマスク」。
でも、近世の研究では、これはアガメムノンの物ではなかっただろうとの事です。


02a88d82.jpg


牛の頭の形をしたリュトン。
頭頂部の花と角が金メッキとなっています。


d5c14be6.jpg


美しい装飾の入ったダガー。
本当に、紀元前十数世紀のものなのでしょうか?


8092797e.jpg


「The Countless Aspects of Beauty」という特別展示を行っていました。
「美についての無数の様式」みたいな意味かな?

左:アフロディーテの誕生(紀元前4世紀頃のものを模した製品。紀元2世紀頃)
右:若い女性の立像(紀元前175年ー150年頃の作品)


b0d3adde.jpg


シビ○ではなく、昔の香油を入れた容器。
ミケーネ時代に書かれた製法で作ったそうです。
香り一つの美の様式と言うわけですね。


9fe58fe7.jpg



  左:キクラデス文明の女性像(紀元前2800年―2300年)
  中:デロスで発見された若者の像(紀元前100年ごろ)
  右:マラトン沖の海で発見された若いアスリートの銅像(紀元前340年-330年)

美の様式の展示はここで終わり。


ca3ec024.jpg


クレタで発見された出土品をイメージして作った洋服。
右は紀元前18世紀、左は紀元前15世紀の出土品からのイメージ。


2c8ad164.jpg


テラの遺跡で発見されたフレスコ画(紀元前1700年頃)のイメージから作った船の模型。
この模型は、国立考古学博物館の設立150周年の記念に、ドイツのハイデルベルグ大学によって作られたそうです。


56271c43.jpg


右はアンテロープ(レイヨウ)の壁画。
鮮やかな色が残っていると思いましたが、よく見ると、出土した部分は少しで、ほとんどが想像図ですね。
このフレスコ画の出土場所を控えてくるのを忘れてました。


1acf0429.jpg


アクロポリスで発見されたマイナス(ギリシア神話)の像。
マイナスはワインと泥酔の神であるディオニソスの女性信奉者で、酩酊と酩酊から来る狂乱のイメージです。
この像は、酩酊し寝ているのでしょうが、色っぽい。(笑)
古代ローマのハドリアヌス帝の時代(117年―138年)の作。


6080dd0b.jpg


考古学博物館、最後の紹介は、初代ローマ皇帝アウグストゥスの像です。
この像は、エーゲ海で発見されたそうです。

11:40に考古学博物館を退出しました。
9:40に博物館に着いたので、2時間の見学時間でした。


75eb8676.jpg


飛行場に行く時間が近づいていましたが、飛行機に乗る前にオモニア駅からピレウスに行って来ました。
12:25にピレウス駅に到着。


dc6bb1f2.jpg


ピレウスはアテネの南西約10kmに位置し、古代からアテネの外港として栄えた町です。
古代には城壁で守られた街道でアテネと結ばれていました。
現代のピレウスは古代のイメージは全くなく、大型クルーズ船が停泊する近代的な港町でした。


c767a204.jpg


このまま、船に乗ってどこかに行きたいです!!!


ac8269a3.jpg


これが高層ビルの並ぶピレウスの町。

駆け足で、ピレウスの港と、その風景を見て、アテネに戻りました。


22fa3b3a.jpg


オモニア駅に戻り、荷物を取りにホテルに向かいますが、いつも歩くアティナス通りではなく、一本東のエオルー通りを回ってみました。と、コツィア広場で古代ギリシアの遺跡を発見!
古代アテナイの城壁跡のようです。


48bece88.jpg


広場の東側の建物。市庁舎かと思いましたが、何かの博物館のようです。


1196e563.jpg


近代的なビルの入口に、アテナイのみどりを至急結果をまとめます。
なお、市街の「アーレニアン門」の遺跡がありました。


6a7b6fa1.jpg


エオルー通りにはガラスで覆われた遺跡が並んでいます。


bb0b0103.jpg


中央市場を抜けて、ホテルに向かいました。
中央市場の東側は、肉屋が並んでいましたが、豚やら鶏がそのままの姿で吊るされており、ちょっとエグかったです。


9fcb86ac.jpg


中央市場の西側は、野菜や果物の屋台が並んでいます。

ホテルで預けていた荷物を受け取り、13:20にモナスティラキ駅から地下鉄で空港に向かいました。


65df9d5b.jpg


帰りもオリンピック航空ですが、スターアライアンスグループのラウンジが使えたので、ラウンジで夕食を取りました。


ae8b57b7.jpg


長かったギリシア旅行もいよいよ終わりです。

予定を少し遅れ、17:00過ぎにテイクオフしました。


92d06a2c.jpg


飛行場で見かけたアントロポフ輸送機です。
初めて見ましたが、やはりでかいです。
(もしかしたら会話はロシアで見たかな?)


c6567768.jpg


ギリシア半島と、その先にネグロポンテ(エヴィア島)が見えています。
ネグロポンテは、かつてヴェネチア共和国が統治していた時代の呼び名。
15世紀のオスマン帝国との戦争時にオスマンに奪われました。


bee49074.jpg


ギリシア北部には頂に雪の残る、高い山が連なっていました。
その先にはネグロポンテの島が続いていました。


dde6b31d.jpg


ギリシア北部の山岳部。
意外と(失礼)、飲みやすかったです。


8f282445.jpg


アドリア海東岸の風景。
もう少しでドブロブニク上空と思いカメラを構えていましたが、丁度手前で日没→暗くなり撮影は出来ませんでした。

飛行機は18時過ぎにミュンヘン空港に着き、この度も終わりました。


今回は古代ギリシア~ローマの歴史を持つアテナイ、中世の軍事拠点であるロードス、コルフと、塩野七生ワールドを堪能した旅行でした。
冬で天気が心配でしたが、寒さはとも角、雨がほとんど降らずに良かったです。


これでギリシア旅行の紹介を終わります。



コルフ旅行 三日目 その2 ~コルフ散策

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月27(木)、12:50にアジア美術館を出て、美術館の西側の門を抜けて、町の北側を歩きました。


c127fa1b.jpg


美術館の西側にある門。


9abe5c43.jpg


美術館の裏側です。
この二つの翼が、各々「聖マイケル(ミカエル)」と「聖ジョージ(ゲオルギウス)」だったのでしょうか?


45d48e06.jpg


旧市街の北西コーナーから見た「旧要塞」。
ヴェネチア共和国統治時代は、ここも主要な港でした。


9a8fee18.jpg


海に向かって開いた、「聖ニコラス門(ポンタ・サン・ニコロ)」。
ヴェネチア共和国統治時代の1576年―1588年に作られたので、この門の上にも「有翼の獅子像」が掲げられています。
かつてこの門は、軍事病院の一部だったので、この港も軍港だったのでしょう。
そして、軍事病院のほとんどは、「聖マイケルと聖ジョージ宮殿」の建築時に破壊されたそうです。

なお、ここの看板によると、ヴェネチア共和国統治時代、市街の城壁には、ここを含めて4つの門があったそうです。
4つとは、「聖ニコラス門」、「旧要塞に向かう門」、「新要塞のロイヤル・ゲート」と、「オールド・ポートに面したスピリア門」かな?


82b1ea36.jpg


海辺から見た「旧要塞」。


fd40845c.jpg


本土との間に横たわるヴィド島。
コルフの北側を守るため、19世紀初めのフランス帝国統治時代に、この島も要塞化されたようです。


9ddb62a2.jpg


2ec78304.jpg


コルフ北側の景色。


7301cf16.jpg


「オールド・ポート」の桟橋から見た「新要塞」。


05d87b05.jpg


そこにあった、かつてのコルフの城壁の絵。
現在の姿よりも遥かに強固な稜堡が築かれていたのですね。


8415bb93.jpg


「オールド・ポート」沿いを歩いていると、コルフでもシマノの名前が店の前に掲げられていました。
この店は釣具店ですが、まさに世界のシマノですね。


07a763b0.jpg


夏場はクルーズ船で賑わう「ニュー・ポート」ですが、シーズンオフの冬場は静かです。


cad57045.jpg


先ほど見た看板の稜堡が見れないかと、「ニュー・ポート」の南にある丘の西側を歩いて見ましたが、城塞の片鱗もみえませんでした。
この丘を城塞化したのではないのかな?

上の写真は「カポディストリア墓地」のヴェネチア風の鐘楼。


6a696146.jpg


自転車でも、シマノの看板を見つけました!
この店はシマノのサービスセンターだそうです。


12feed72.jpg


そろそろ、コルフ市街に戻ります。
この道を歩くと、「サン・ロッコ広場」に出ます。


f93edd29.jpg


旧市街の「アニュンチア―タ教会」。


63a3b7da.jpg


旧市街の「ヴラヒリオッティ広場」。


4e073b62.jpg


「ヴァシリオス・ケ・ステファノ教会」。
元々、このまま「スピアナダ広場」に戻るつもりでしたが、寄り忘れた所を思い出して、ここから北西に戻りました。


17975456.jpg


イタリアを思わせる「ニキフォロウ・テオドキ通り」を北西に歩いています。


56563e8c.jpg


途中、通りを外れて寄り道しました。
町中の地図に「レモニア広場」とありましたが、広場には、本当にレモンが植わっていました。


e0f402d8.jpg


最後に来たかったのは、「聖スピリア門(手前)」と、「ヴェネチアン・バラック(奥)」。
地図に「ヴェネチア」の名前が載っていれば、やはり来るしかありませんよね。(笑)

「聖スピリア門」は、1576年―1588年にかけて作られた、「オールド・ポート」に向かう門。
残念ながら、ここには「有翼の獅子像」がありません。

「ヴェネチアン・バラック」は、旧市街の城壁沿いに建てられた兵舎です。


9de0fce5.jpg


「スピアナダ広場」に戻る途中の道には、サンタの洋服が干されていました。
クリスマスも終わったので、洗濯したのでしょうか?(笑)


34b662f8.jpg


時刻は15:30になっていたので、遅い昼食を取りました。
今回入ったのは、レストラン「リストン(Listón)」。
今回も地元のビールを頼みました。
お水は無料で、レストラン名前入りのビンで出てきましたが、恐らく水道水でしょうね。


ff1e969c.jpg


メインは「カサレッチェ・アルフレッド」。
カサレッチェにチキンとパルメザンのクリームソースのあえたもの。
見た目がおしゃれです。

ゆっくりと、一時間かけて食事をしましたが、まだ少し時間があるので、再び散策に出ました。


a1ee593c.jpg


向かったのは、「新要塞」から続く稜堡の南翼。
ここには「レイモンド堡塁」が築かれています。


e8638324.jpg


一番南側の稜堡部分。
なお、右側の建物は「コルフ・パレス・ホテル」です。


ff15cef3.jpg


そして、ようやく見れた「考古学博物館」の建物。
道を歩いていると、あちこちに案内の看板があったのですが、途中で案内がなくなり、何処にあるのかよく判りませんでした。このため、何とか場所を見つけようと、変に意地になっていました。
すでに閉館していましたが、展示物に興味は無いので問題ありません。(笑)


e3075f6b.jpg


夕暮れのコルフの通り。



aad5815f.jpg


夕暮れのレストラン街。
この時の時間は17:50でした。


6cca27a2.jpg


そろそろ、空港に行く時間なので、ホテルで預けた荷物をとって、18:00にタクシーに乗って空港に行きました。

987ebdaa.jpg


18:10(!)に空港に到着。
市内からコルフ空港は3km弱なので、歩いても行ける距離です。


effb9b9c.jpg


19:25にターミナルから再び歩いて搭乗しました。
帰りは19:40発のオリンピック航空で、残念ながら(笑)ジェット機でした。

20:40にアテネ空港に到着し、地下鉄でアテネ市内に向かいました。


dd8583ba.jpg


アテネのホテルは前回と同じ「アテネ・センター・スクエア―・ホテル」。
22時前にチェックインしました。

部屋に入ると、なんと窓から「アクロポリス」が見えました。
ラッキーでしたが、今回は一泊しかしないのです。。。。


7f813ff3.jpg


部屋から見えても、やはり屋上からの景色にはかないません。
せっかく、このホテルに泊まったのだから、屋上にカメラを持っていきました。

アテネ旅行の3日目に続きます。


コルフ旅行 三日目 その1 ~コルフ散策

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月27(木)、この日はコルフの最終日で、飛行機の時間までコルフの町を散策しました。
8:40にホテルを出て、旧市街を散策しながら、まず「新要塞」に向かいました。


e807217e.jpg


初日も見た、「聖スピリドン教会」です。


f328c87c.jpg


今回は中に入ってみました。
コルフにもヴェネチア共和国の富が流れていたと思いますが、中は意外と質素です。


55f723a5.jpg


「オールド・ポート」に面して建つ「スピリオティッサ教会」。


b98b9da9.jpg


「オールド・ポート」の前にある「第10憲法の広場」と、「新要塞」。


4ddd2df9.jpg


東側から「新要塞」に上る道。


ca595823.jpg


「新要塞」の入り口ですが、安全上の問題で、内部の公開はしていないと書かれていました。
3日連続ここに来ていますが、過去2日は、朝早すぎたり、夕方遅すぎるので門が閉まっていると思い込み、説明の文書を読んでいませんでした。
「3度目の正直」ならぬ、「3度目の真実」ですかね。(笑)


9ef636cc.jpg


「ゲオルギオ・テオトキ通り」。
この通りは、この3日間で何度歩いたか判りません。


ff015d20.jpg


通りにあったおもちゃ屋さん。
店の名前が「ハイジとペーター」。日本のアニメがコルフにも進出しています。
でも、この絵は、きちんと使用許可を得ているのだろうか?


16ea2785.jpg


市営の劇場です。
先ほどの「ハイジとペーター」の店は、この劇場の裏にあります。


2a54c05b.jpg


劇場の前の広場から見た、「「聖アタナシオス堡塁」。


31b7a3ad.jpg


「スピアナダ広場」の南の端に立つ、「カポディストリアス像」。
イオアニス・カポディストリアスは、1821年に始まったギリシア独立戦争の中で、1827年に独立勢力によりギリシア大統領に選ばれました。
彼はヴェネチア共和国支配下のコルフ島(ケルキラ島)の貴族の家の生まれです。

なお、カポディストリアスの姓は、イタリア語のカーポ・ディストリア→イストリアの先端の意味→現スロベニアの都市コペルに由来しているそうです。現在仕事でスロベニアやコペルに関係しているので、少し縁を感じました。


e60acea7.jpg


「スピアナダ広場」の南の端に建物に「ヴェネチアン・バラック・グリマーニ」の看板がありました。
グリマーニ家はヴェネチア共和国の有力貴族で、最初グリマーニ家の屋敷かと思いましたが、バラックとあるので、グリマーニ家の建てた兵舎なのでしょうね。


c9cbfda1.jpg


この建物に気づいたのは、入口に「有翼の獅子像(聖マルコ像)」があったから。
町中で、この像をこれほど見ることが出来て、ほんと、コルフっていいな。(笑)


480b30c7.jpg


「新要塞」の見学ができなかったので、「旧要塞」でリベンジです。(笑)
上の建物は、メインゲートを抜けた先にある、英国統治時代の1843年に建てられた兵舎。
コルフは要衝であったため、多くの兵舎(Barrack)が残っています。

なお、メインゲートへと向かう橋の手前に、入場券売り場(のように見える)があるのですが、入場券を買おうとしたら、そのまま行けと言われました。ネットを見ると要塞の見学は有料そうなのですが、冬場は無料なのかな???


3fb86b83.jpg


英軍の兵舎を抜けた先。
要塞の中庭は一段高くなっており、両側にある階段を上ります。


b8ca65c9.jpg


前にも紹介しましたが、ここに3枚の「有翼の獅子像」が残されています。


e7f8069c.jpg


中庭です。
正面の石垣の部分に、かつて、ヴェネチア共和国の弁務官邸が建っていましたが、1943年のドイツ軍の爆撃で破壊されました。


4a50780c.jpg


弁務官邸の横にあった井戸には、「有翼の獅子像」がありました。
(見つける度にブログで紹介して、ちょっと、しつこいですか。。。?)


59d7a65d.jpg


中庭から山城部分に入る門(カンパーナ要塞)。


67666ec0.jpg


山城の頂上部分。
日本式に言えば、本丸ですね。


d97e7ee9.jpg


山城の頂上からは、コルフの町を見渡すことができます。
上の写真は南側。
前の日に行った「アキレイオン(奥の山の麓)」や「カノニ(手前の半島の先)」が、この方向にあります。


232fb18c.jpg


西側は、コルフ旧市街や「新要塞」が見えています。
また、「旧要塞」の西の稜堡構造がよく判ります。


23c3c775.jpg


「新要塞」の拡大写真。
複雑な構造をしています。


37c22487.jpg


「旧要塞」の東側。
旧要塞の兵舎跡と、イオニア海やギリシア本土が見渡せます。


a145ff1d.jpg


「旧要塞」の南側に建つ、「聖ジョージ(ゲオルギウス)教会」。
英国統治時代の1840年に建てられた、新古典様式の建物です。


45ed742f.jpg


要塞の南西側の城壁。


4a53696c.jpg


ヴェネチア共和国の統治下、ジョルジョ・パスクアリーゴによって1721年に建てられた「パスクアリーゴ兵舎」。
ヴェネチア共和国海軍を支えるガレー船の漕ぎ手であるダルマチア兵を収容していたとの事です。
この建物も、第二次世界大戦中のドイツ軍の爆撃で破壊されました。

奥に建つのは、1850年に建てられた「英国士官宿舎」です。
.

8b2513d2.jpg


要塞の北側には小さな港があります。
ヴェネチア共和国統治時代は、ここにガレー船が並んでいたことでしょう。


422a8706.jpg


要塞の北側には港に抜ける門があります。
稜堡化される前の要塞は、ここがメインゲートだったようです。
(アキレイオンにあった絵によると。)


876dd250.jpg


「旧要塞」の見学の後は、「アジア美術館」を見学しました。

この建物は、英国統治時代に、高等弁務官のサー・トーマス・メイトランド長官の命により、彼の住まう「聖マイケルと聖ジョージ宮殿」として1814年から建築が始まりました。
(英国統治時代なので英語表記しましたが、「聖ミカエルと聖ゲオルギウス宮殿」方が私にはしっくりきます。)
建物の建築(増築?)はイオニア諸島が英国からギリシア王国に引き渡される1864年まで続いたようです。


c6c32b09.jpg

30

入口を入った所のロビー。

29e98694.jpg


994860e5.jpg


52b8de92.jpg


ロビーの横には、かつての宮殿の時代の部屋が残っていました。


d6e59913.jpg


最初は中国の展示。


c077655a.jpg


仏像も日本とは趣が違います。


6f0dcd3d.jpg


漢字が違和感のないフォントで書かれており、センスを感じました。


1de4e5e7.jpg


日本コーナーです。
写真が見にくいですが、日の丸と「日本」の文字の組み合わせたデザインもセンスが良くないですか?
恐らくアジアに造詣の深い方が、美術館を監修したのだと思います。


04033929.jpg


日本の甲冑は当然展示されています。(笑)


4a3c6c55.jpg


平家物語の那須与一のエピソードの衝立。


a92a70ca.jpg


日本の女性の生活様式も紹介されていました。
「武家の女性は、夫を助けるために戦場で敵と対峙できるように、弓やなぎなたで武装し、恥を受けた場合に自害ができるように懐剣を持っていた。」とありました。前半は少し誇張し過ぎな気もしますが、良く調べていると思います。


a4697327.jpg


江戸時代(19世紀)のかんざしとポーチ(左)と、懐紙用ポーチ(右)。
いずれも、芸者の持ち物と紹介されていたと思います。


0304a523.jpg


江戸時代の肥前焼きの陶器。
柿右衛門様式の陶器は欧州の博物館には定番です。


2de3145e.jpg


明治時代のコオロギのケージと香炉。
コオロギのケージは特に細工が細かく、日本人として誇りが持てます。


13a97d20.jpg


茶室も展示されていました。
質素で詫び錆びを感じます。(茶道は全く判りませんが。)


この美術館で一番期待していた浮世絵は、どこかに貸し出されているのか、全く展示されていませんでした。
残念!!!


71a9b07e.jpg


ガンダーラ文明の展示もありました。


cd0bf869.jpg


トイレの手洗い場にあった装飾。
こういった何気無い装飾に、センスを感じました。
浮世絵意外は、あまり興味が無く入ったのですが、浮世絵が無くても、この美術館のセンスが楽しめました、

美術館を出た時、時刻は12:50になっていました。

もう少し、コルフ市内を散策します。
三日目 その2に続きます。


コルフ旅行 二日目 その2 ~カノニ&コルフ散策

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月26(水)、13:00に「アキレイオン」からコルフ市街に戻り、バス停から「スピアナダ広場」まで歩きました。


2b630fde.jpg


日中は暖かいので、「スピアナダ広場」のレストラン街は人でいっぱいです。


73840c0a.jpg


広場にある「アジア美術博物館」。


5ae8fd82.jpg


美術館の前に停まっていたクラシカルな車。


82a50ffb.jpg


「旧要塞」。


ed1bcf82.jpg


「旧要塞」の西側にある、「マンドラキナス教会」。


6b7088c1.jpg


「旧要塞」の前に建つ「マティアス・フォン・デア・シューレンブルグの像」。
ヴェネチア共和国に雇われたドイツ人の将軍で、1716年のトルコ軍のコルフ襲撃を撃退したそうです。


b7e866cc.jpg


「旧要塞」の入り口。

この後、13:40に「スピアナダ広場」のバス停から、カノニ行の2番のバスに乗りました。


1af7b272.jpg


バスから見た、「モン・レポス宮殿」の入り口。
英国女王エリザベス2世の夫である、エディンバラ公フィリップは1921年に、この宮殿で生まれました。
彼はなんと、ギリシャ王子アンドレアスとアリキ妃の末子として生まれましたが、1年後にギリシアでクーデターが発生しフランスで亡命生活を行いました。
1928年に渡英し、第二次世界大戦中は海軍士官として活躍。
1947年2月イギリスに帰化し、7月にエイリザベスと結婚しました。


f57b183a.jpg


ローマ時代の浴場跡(?)


23706861.jpg


14:00にカノニに到着。
崖の上のカフェから見た景色です。
右がヴラへルナ修道院で、左に見えるのがポンティコニシ島。


2b3de934.jpg


崖を下って海辺に降りました。


031c113d.jpg


ヴラへルナ修道院の内部。
礼拝堂は、こじんまりとしています。


5d28a764.jpg


修道院から見たカノニの崖。


4702045f.jpg


カノニから対岸のぺラマまで堤防がつながっています。
地元の人は、ここで釣りを楽しんでしました。


52754753.jpg


私の目的はこれ。
コルフの飛行場の滑走路の先に出る事ができます。


35007359.jpg


ちょうど飛行機が着陸してきました。
堤防の中央まで行くと、飛行機が真上を通過していきます。


2e4b0246.jpg


カフェに戻って来ました。
カノニの名前は大砲に由来するのでしょうか?


198d72d5.jpg


カフェ・カノニは1864年の創業。
古いなあ。


f42eeaf4.jpg


14:40発のバスに乗ってコルフに向かいましたが、途中下車し、コルフの湾の南側にあるアネモミロス地区に立ち寄りました。
上の写真はアネモミロス地区のランドマークの風車です。
(アネモミロスとは風車の意味のようです。)


この時、時刻は15:00になっていました。


2b862a79.jpg


海では地元の人たちが海水浴や日向ぼっこを楽しんでしました。
なお、右に見えるのは、コルフの「旧要塞」。


d6549e65.jpg


冬でも美しい、イオニア海の海。


7d664dca.jpg


先ほど水着だった人たちも、陸に上がるとダウンジャケットを着こんでいます。(笑)
この時、気温は8度ですから仕方ないですが、この気温で海水浴をする?


07e5964d.jpg


アネモミロス地区から見たコルフの旧市街。

アネモミロス地区からコルフの町まで景色を楽しみながら歩きました。
(途中からは昨日と同じルートですが。)


3c33f889.jpg


この日も「新要塞」の周りを散策し、「オールド・ポート」に到着。

この時、時刻は16:00になっていました。


93a7761f.jpg


昨日も来た、「新要塞」の東側の門。


4f70da8f.jpg


前の写真の門の南東側にも別の門がありました。
現在、ギリシア海軍の基地として使われており、近づいて門を撮影しようとしたら、撮影禁止と言われました。


4918e725.jpg


門の横の展示品は撮影して良いそうです。


3b085ab2.jpg


旧市街を散策しながら、「スピアナダ広場」に戻って来ました。
16:30は過ぎていたので、少し早いですが、晩飯にしました。
この日に入ったのは、ピッツェリア「ゴンドラ」です。


0463cfb1.jpg


この日はワインではなく、ローカル・ビールを飲みました。


f933a966.jpg


メインに選んだのは海鮮のフライ。
このギリシア旅行中に一度、イカのフライを食べたかったのですが、魚もセットになっており、大満足です。


57c76a2c.jpg


17:30にホテルに戻って来ました。
少し早いですが、この日はホテルで大人しくしていました。


3ed4d43e.jpg


ホテルに屋上がありそうだったので階段を上ってみましたが、ドアのカギがかかっていました。
写真は、窓越しに見た景色ですが、屋上からの景色は綺麗なのでしょう。
外に出れずに残念。


91adc0b5.jpg


なお、部屋のトイレに、この看板がありました。
この看板、ギリシアに来た時からよく見ていたのですが、てっきり「便器にトイレット・ぺ-パー以外は捨てるな」との注意書きと思い込んでいましたが、よく見ると「トイレに紙を捨てるな」とあります。
ネットで調べると、ギリシアでは使ったトイレットペーパーは便器に捨てずに横のゴミ箱に捨てるそうです。
使ったペーパーをゴミ箱に捨てるのは違和感を覚えますが、これ以降は実践しました。


コルフ散策 三日目に続きます。



コルフ旅行 二日目 その1 ~アキレイオン宮殿

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月26(水)、8時にホテルを出て、新市街側にあるバス停に向かいました。


bdbe5089.jpg


旧市街の中央部分にある「アニュンチア―タ(受胎告知)教会」は、旧市街のランドマークになっています。


1a4ea1a7.jpg


「ゲオルギオ・テオトキ通り」に出ました。
「新要塞」の堡塁に挟まれたこの部分には、かつて旧市街への門「ロイヤル・ゲート(ポルタ・レアレ)」がありました。

15bc35d7.jpg


当初は、朝一番で、カノニ行く予定でした。
「サン・ロッコ広場(ゲオルギオ・テオトキ広場)」のバス停で時間を調べると、9:00にバスは出る事になっており、そのまま待っていましたが9:10になってもバスが来ません。
切符売り場の係員に聞くと、時刻表は始発地点の時刻で、この広場には、その20分前に来るとの事。
(そんな事、判るか!!!)

9:20に来た次のバスに乗ったところ、バスは「スピアナダ広場」に戻ってしまいました。
なんと、「サン・ロッコ広場」はカノニからコルフに戻る途中による停留所で、カノニ行きのバス2番の始発地は「スピアナダ広場」でした。(どうりで20分前・・・)

予定外に時間をロスしたため、このままカノニに行っても時間が中途半端になる気がしたので、行先を「アキレイオン」に変更しました。

「アキレイオン」行きのバスは10:15に出るため、「新要塞」に寄り道してバス停に向かいました。

なお、この日はバスの一日券(5ユーロ)を購入。


dc85c067.jpg


途中で会った、コルフのネコ。


21fce0c1.jpg


「新要塞」の「サランダリス堡塁」の南側に作られた「聖アタナシオス堡塁」。
コルフのメインゲートである「ロイヤル・ゲート」はこの二つの堡塁の間に設けられていました。


ceb0f006.jpg


「アキレイオン」に行くバス10番は、「サン・ロッコ広場」から更に南西に歩いたところにあります。
(事前にホテルの人に聞いていました。)


a8983eed.jpg


田舎道を走って、約20分で「アキレイオン」に到着。


acc8100b.jpg


バス停のすぐ横に「アキレイオン」の入り口はあります。


386c8144.jpg


「アキレイオン」はオーストリア皇妃のエリザベト(以下、シシィ)によって1891年に建てられた別荘で、彼女の憧れの英雄アキレウス(アキレス)にちなんで名付けられました。
建物は1891年10月に完成しましたが、シシィは1893年には、すでに飽きて売却も考えたそうです。
従弟の我らがルーちゃん(バイエルン王ルードビッヒ2世)に匹敵する放蕩ぶりですね。


e31b7a2e.jpg


入り口に建つシシィ像。
彼女は、この身長172cm、ウエスト51cm、体重43〜47キロという驚異の体形を維持するために、お金と時間を費やしました。


4192347b.jpg


入り口の「ホール」です。


2a46409d.jpg


  左:ホールにあったアテナ像。
  右:ホールの右側にある「礼拝堂」。


d247a06e.jpg


「礼拝堂「の奥にある「シシィの間」。


5df00154.jpg


その奥にある「皇帝の間」。
ここで言う皇帝とは、オーストリア皇帝ではなく、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の事。


5de46113.jpg


ホールの左側には、チケット売り場の部屋の奥に、「応接の間(?)」があります。


b822bac2.jpg


その奥の「居間(?)、もしくは執務室かな(?)」。


f8c4cdcc.jpg


「居間(?)」にある高級な家具。


3b5d0f26.jpg


執務机。


e5640f3d.jpg


その横には廊下があります。
隣(写真左)は、かつてキッチンだった部屋なので、主人の部屋と間を取っているのでしょうね。


2fade557.jpg


かつての「キッチン」です。
今は、宮殿内の家具を集め「寝室」のように展示されています。


53a2ff22.jpg


  左:高級な家具。
  右:高級な姿見。


c12aa029.jpg


装飾に飾られた階段を上って二階へ。


fbe7366d.jpg


二階は、南翼の部屋のみが公開されています。


ec83136f.jpg


次の部屋。


dfb2756a.jpg


外には大きなバルコニーが設けられています。


8b4c0ef4.jpg


次の間。


f1c597a9.jpg


横にある小部屋。


c50da1e5.jpg


三階に上がる階段に掲げられた「凱旋するアキレウス」。
 「イリアス」のクライマックス、トロイの王子ヘクトールをアキレウスが一騎打ちで倒し、その死骸を馬車で引きずり回している場面を描いています。


ba9cf834.jpg


三階には「大きなホール」があります。
一般の宮殿では、ここでパーティーや舞踏会が行われたところでしょうが、社交性の無いシシィの性格だと、使い道が無かったのではないでしょうか。


89a6a1b8.jpg


ホールに中世のコルフの版画が掛けられていました。
稜堡式になる前の中世の城壁である事から、1500年前後の景色と思われます。
当時は、城内に入る門は北側(港側)にあったようです。

絵にはヴェネチア共和国海軍のガレー船が多数描かれています。


73e562a9.jpg


三階から中庭に出ます。


dbf41486.jpg


中庭は、古代ギリシアの女神像に囲まれています。


182239ff.jpg


イオニア式の列柱。
古代の遺跡は塗装が落ち、大理石むき出しですが、往時はこのように彩色されていたのでしょうね。


ae61d13f.jpg


中庭の端に設けられた、丸いベンチ。
この時期の彼女は、1889年の息子ルドルフ皇太子の自殺に非常に心を痛めており、この下の森の中に彼の慰霊碑を築きました。
このベンチに座って、息子を悼んでいたのでしょう。


e0ed2622.jpg


中庭の横には一階に続く階段があります。


7cd1e763.jpg


その途中にある展望台。
本来は中庭の見学の後に、ここから一階に降りるのでしょうが、私はまだ中庭見学を終えていないので、引き返しました。


3eecf5ea.jpg


丘の形状に合わせ、中庭には段差があります。


e2ec1198.jpg


中央の中庭には「死にゆくアキレウス」の像が飾られています。
不死の体を持ったアキレウスはトロイア(トロイ)戦争で大活躍をしましたが、勝利の直前に唯一の弱点であった足の腱(アキレス腱)を射抜かれて命をおとしました。

なお、像が作られた時は、腱に刺さった矢がありましたが、今は失われています。
(パンフレットの写真にも残っているので、かなり最近の事のようです。)


658f2530.jpg


更に中庭を進み、次の階段を下りました。


d0706f93.jpg


階段の前に建つ「アフロディーテ(だったかな?)」像。


6884ed3a.jpg


この庭の中央に、巨大な「勝利を得たアキレウス」の像が建っています。
これはシシィが作らせたものではなく、後に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世が作らせたもの。


dd12e348.jpg


ここからはコルフの町並みが良く見えます。


53480a40.jpg


中庭からの階段にも多くの彫像が飾られています。


59acfe20.jpg


海から宮殿に上る階段に設けられた門(1889年製のオリジナル)。
今はコピーが置かれているそうです。


a217f29d.jpg


出口に向かう階段。

これで宮殿の見学は終了。
シーズンオフの宮殿は、観光客が少なかったです。(私も含めて、4~5グループ。)
コルフからのバスの間隔が約2時間あったので、ゆっくりと見学出来ました。


367d377d.jpg


土産物屋(チケット売り場)で買ったシシィ像。


daa4ac74.jpg


13:00にコルフ市街に戻って来ました。

カノニとコルフ散策に続きます。


コルフ旅行 一日目 ~コルフ散策

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月25日(火)、10:35にロードスを飛び立った飛行機は、アテネ空港に11:35にアテネ空港に到着しました。そのままアテネ空港から、14:00発の飛行機で次の目的地のコルフに向かいました。

コルフ島(ギリシア語でケルキラ島)は、イオニア海に浮かぶ島で、日本ではそれほど知られていませんが、欧州ではリゾート地として知られています。

またこの島は、アドリア海をの出口と、イタリアーギリシア間の航路を抑える位置にあるため、古代からこの島の支配を巡った争いが繰り返されました。

コルフ島は、1386年にヴェネツィア共和国の保護領となり、1401年には正式な領土となった後、1797年にヴェネチア共和国が崩壊するまで、共和国の重要な拠点でした。

なお、これまで私は、コルフの「コ」にアクセントを置いて呼んでいましたが、会社の欧州人と話しても全く通じません。地図で示すと、彼らは「フ」にアクセントを置いて呼んでいました。
コルフー」見たいな発音です。


7a6ed2b8.jpg


コルフへはSky Expressを使ったのですが、格安キャリアの格安チケットと思っていたのですが、なぜかラウンジを利用できました。
この日はクリスマスなので、一人で赤ワインで乾杯!


189be019.jpg


久しぶりに乗ったプロペラ機。
揺れを期待(!)していましたが、天気が良くほとんど揺れませんでした。残念。(笑)


4aeb56a5.jpg


ギリシアの西側にあるプレベザの東に広がる内海。
残念ながら、私の席からはコルフ島は見えませんでした。


bbd87ed8.jpg


ほぼ定刻の15:30にコルフの飛行場に到着。


6235132f.jpg


小さな飛行場で、歩いてターミナルに向かいます。


3dc4a92d.jpg


空港からはタクシーに乗って、今回泊まるホテル「アルカディオン ホテル」に行きました。
このホテルはコルフの町の東側にある「スピアナダ広場」に面しており、広場までタクシーで10ユーロでした。
(コルフ市内までは、統一料金なのだと思います。)


c9f8a930.jpg


「スピアナダ広場」は非常に広くて、市民の憩いの場となっています。
あまりに広くて、広場全体が判るような写真を残していませんでした。
(上の写真も27日に何気に撮影したもの。)


b4b8a2f4.jpg


コルフに関する情報は、ヴェネチア共和国が作った新旧の要塞と、シシーの作ったアキレイオンぐらいだったので、ホテルでもらった市内地図で作戦を練りました。

まずは、ホテルの近くにある「M テオトキ広場」に行ってみました。
この広場には、「市庁舎」(左)と、「聖カトリック教会」(右)があります。


b3907be4.jpg


「市庁舎」です。(別の日に撮った写真)


1e5f71e9.jpg


「聖カトリック教会」です。(別の日に撮った写真)
奥に見える鐘楼のデザインがヴェネチア風です。


0109f717.jpg


一旦「スピアナダ広場」に戻って、「旧要塞(パレオ・フルリオ)」に行きました。
「旧要塞」の元は、6世紀頃に作られましたが、ヴェネチア共和国の統治期間に、今の構造に強化されました。



0ca64a85.jpg


10fd5aee.jpg


38ceb7eb.jpg


本来、門の上にはヴェネチア共和国の守護聖人、聖マルコを表す、有翼の獅子像が掲げられたはずですが、英国統治時代に取り換えられたようです。
共和国統治時代の有翼の獅子像は、英国時代のバラックを抜けたところに、展示されていました。

下の二枚の、丸い形の像は、これまで私の記憶に無かったのですが、この後にヴェニスを訪問した際に多く見ました。何故これまで気付かなかったのだろう?


0710d7d6.jpg


この要塞は海に孤立した島となっており、陸地側は強固な稜堡で守られています。


f8bc94df.jpg


反対側の稜堡。


9973b869.jpg


要塞内部です。
要塞の奥には丘が二つ連なっています。
ここにもヴェネチア風の鐘楼が建っています。


57164a17.jpg


「旧要塞」に来たのは、空港から来たタクシーからの景色が美しかったから。
要塞内部の見学はせずに、日が暮れる前に、南側に回り込みます。


26293396.jpg


コルフの南側の景色。


7b024159.jpg


湾の中央まで歩いてきました。
日もかなり傾いて来たので、この先で引き返しました。


cbc8a0d1.jpg


「旧要塞」(左端)の先には、ギリシア本土が見えます。


ee1d10ba.jpg


南側から見た「旧要塞」。



9611c97e.jpg


コルフ側に戻り、「ダグラスの碑」から市街の中心に向かいました。


0a5fee1c.jpg


「サン・ロッコ広場」にあった臼砲。


0107d918.jpg


広場の北側にある「新要塞(ネオ・フルリオ)」。
写真は、主要塞の南に作られた「サランダリス堡塁」です。
主要塞とはカーテンウォールで結ばれており、その中に旧市街と結ぶ通路があります。

「新要塞」は、旧市街を守るために1577年から1588年にかけて作られました。
この時期は、1571年のレパントの海戦での勝利によって、無敵オスマン帝国の西進を停めた後、西洋諸国の方針がまとまらないことから、1573年にヴェネツィア共和国がオスマントルコと単独講和した直後。
レパントの海戦の完全勝利や、その後の講和にも関わらず、警戒を怠ること無く、この強力な要塞を築きました。
ヴェネチア共和国の、したたかで周到な、外交感覚が良く判ります。


9954187c.jpg


「サランダリス堡塁」を別の角度から見ます。


3a1276fb.jpg


「新要塞」の主城郭の前に掲げられた、有翼の獅子像。


edc7e58c.jpg


主城郭の西側の城壁にも有翼の獅子像がありました。
コルフは、ヴェネチア共和国の主要拠点であるのため、共和国を象徴する、この像を多く見れて幸せです。(笑)


788369e5.jpg


「新要塞」の北側には「オールド・ポート」があります。


e19fd5c4.jpg


「オールド・ポート」の夕暮れ。


aee5dbd7.jpg


「オールド・ポート」から見た、「新要塞」。


a36249f4.jpg


そこにある門の上にも、大きな有翼の獅子像がありました。


ba394810.jpg


現在の「新要塞」の入り口は、要塞北側に回り込んだところにあります。
この時は、夕方遅いので入城門が閉まっていたと思ったのですが・・・


d3983b37.jpg


その横に、「新要塞」と「サランダリス堡塁」を結ぶカーテンウォールと、そこに開いた通路があります。



944a83b6.jpg


「新要塞」沿いを南に歩くと、電飾で飾られた華やかな通りに出ました。
この時は何処か判りませんでしたが、旧市街と新市街を結ぶ繁華街「ゲオルギオ・テオトキ通り」です。
なお、この通りを少し西に歩くと、先ほど通った「サン・ロッコ広場(ゲオルギオ・テオトキ広場)」に出ます。


2309f43f.jpg


通りに飾られたクリスマスツリー。


031592d6.jpg


旧市街をホテル方向に向かいながら適当に散策中。
ほとんど地図も見ずに歩いたので、何度か方向を見失いました。(笑)

右の写真はコルフの観光地、「聖スピリドン教会」ですが、この時は全く気付いていません。


ab927d76.jpg


「ニキフォロウ・テオトキ広場」。
ギリシア語が判らないので、地図に記載されたまま書いていますが、テオトキって広場の意味なのかな?


e0317bf8.jpg


通りにあったスイーツ店。
店内もファンタジックに飾られていました。


b82624d6.jpg


「旧要塞」の夜景。


a149e6a4.jpg


「スピアナダ広場」にある「メイトランド記念碑」。


561742aa.jpg


「スピアナダ広場」にある「アジア博物館」。


4c279642.jpg


この日の夕食は「スピアナダ広場」に面したレストラン「AEGLI」でとりました。
この通りには多くのレストランが並んでおり、結局コルフでの食事は全てこの通りでとりました。


606647bb.jpg


クリスマスにはビールではなく、ワインですね。


b3d14ad8.jpg


ギリシアの郷土料理ですが、名前は忘れました。
コルフの料理は、お洒落で、美味しくて、リーズナブルです。

夕食を終えると時刻は20:00を過ぎていましたので、ホテルに戻って就寝しました。

コルフ散策、二日目に続きます。


ロードス旅行 二日目 その2 ~ロードス散策

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月24日(月)、14時半過ぎにリンドスから戻って来て、再びロードスの町を散策に行きました。


38664af9.jpg


まずは、(かつての)「軍港」に抜けました。
前の日は曇り時々小雨の天気でしたが、この日は晴れており、海も綺麗でした。


617b3c1b.jpg


「騎士の通り」を通り、「スペイン(カスティーリャ)の館」の横から南に抜けます。


c9df1593.jpg


かつての騎士の居住区を抜け、一般住民の居住区に向かいます。


75ec16c0.jpg


左の壁が、騎士と一般居住区の境界でした。


301fba96.jpg


同じく、境界の壁です。


f178fda2.jpg


ここでも、ネコ。。。


d6082658.jpg


騎士の居住区を西に抜けます。


f26537e9.jpg


横には「スレイマン・モスク」。
1522年に、スレイマン1世が10万もの大軍を送りロードスを陥落させた直後に、勝利を記念して建てられたモスクです。
ただし、現在の建物は1808年の再建だとの事。
スレイマンの名を冠していますが、イスタンブールの物などと比べると建物も小ぶりで、ミナレットも一本だけです。


7cd6d174.jpg


かつての騎士の居住区の角に、ビザンチン様式の「時計塔」が建っています。
最初の塔は7世紀頃に建てられたようですが、幾度も破壊と再建を繰り返して今に至っています。
塔に上って旧市街を見渡せるようですが、この日は閉館していました。


9144d7e9.jpg


別角度から見た「スレイマン・モスク」。


e490c98b.jpg


「時計塔」の横の「オルフェオス通り」にはレストランやバーが並んでしますが、この時は閉まっていました。
中央のレストランが、店主の妻が日本人の「ママ・ソフィア」です。
ここでロードス料理を食べて見たかったです。


3ccee489.jpg


ちょっとセクシーなポスターがありました。
インスタ映えで、色々な人がトライしそうなテーマですね。
(ポスターが貼っていたのは、「ママ・ソフィア」とは別のレストランです。)


91ded977.jpg


レストランの前から見た「時計塔」。


42cc6a08.jpg


「オルフェオス通り」裏の、路地の奥にひっそりとあった、「聖マルコ教会」。
ホテルでもらった地図に名前があったので寄ってみました。
「聖マルコ」の名前があると、つい行ってみたくなります。


d17b0914.jpg


「アポロニオ通り」を西に行くとゲートがありました。
ここが「聖ジョルジュ砦」の入り口です。


e6add1de.jpg


その後、旧市街を南に歩きました。


43aac3b8.jpg


アラゴン城壁が内側に屈曲した辺りの旧市街にあった、「ローマ時代のアゴラ」。


この後、「イギリス砦」から城外に出て、この日も城壁の周りを歩きました。


e1fd0a1c.jpg


「アカンティア門」から旧市街に入り、「ヴァージン門」に向かって歩いていると、騎士の模様の入った建物がありました。

「グランドマスターの館」や「騎士の通り」など、ロードス騎士団時代の施設が観光の目玉ですが、町中であまり騎士にまつわるものを見ませんでした。
今回の旅行で、聖ヨハネ騎士団の変形十字(左の紋)は始めて見た気がします。
マルタ島では、騎士団を前面に出してPRしていましたが。。。


deb142e8.jpg


「ヴァージン門」を出ると、ちょうど「商港」が夕日に染まって綺麗でした。


9670c66d.jpg


「聖パオロ門」もライトアップ。


db9b56b9.jpg


「軍港」の風車も、クリスマスらしく、東方三賢者でライトアップされていました。


99c2f6d9.jpg


「軍港」と「グランドマスターの館」の夜景。
この日は、この後ホテルに帰りました。


明けて、3月25日。
この日は朝からアテネに戻ります。


1c32aaaa.jpg


8時にホテルを出て、「軍港」の周りを散策しました。


87129d77.jpg


日の出を迎えた三連風車。


1d9c3c8e.jpg


「グランドマスターの館」も、良く見えました。


541050d6.jpg


ホテルから、タクシーで空港に向かい、10:35の飛行機でロードスを旅立ちました。

賞味二日間の短い滞在でしたが、目的だったロードス騎士団の遺構を堪能しました。
特に、中世の高くそそり建つ城壁から、近世の大砲時代の稜堡構造へ移行する、最初のロードスの城壁は、圧巻でした。

ギリシア旅行は、まだ続きます。


ロードス旅行 二日目 その1 ~リンドス

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月24日(月)、クリスマス・イブのこの日は、市内の博物館は閉館しているため、市内を散策する予定でしたが、一番関心のあった城壁は、昨日、ひと回りしたので、この日は朝からリンドスに行く事にしました。

でもリンドス行のバスは9時に出るので、それまでロードスの町を散策しました。


b2fa1a99.jpg


8時前にホテルを出て、ますは「商港」を散策。


07043dcb.jpg


「マリーン門」から旧市街に入り、「ヒポクラテス広場」に来ました。


ed90bfc1.jpg


広場の中央には「カステラニアの噴水」があり、その先端部にはフクロウ像がついています。


73fa24f6.jpg


14世紀中ごろに作られたこの建物は、当初は裁判所と牢屋だったと考えられています。
壁には、第41代グランドマスターのダンボワーズの紋章や、後にロードス最後のグランドマスターとなる、騎士リラダンの紋章が描かれているそうです。
なお、今は図書館として使われているようです。


b25462dd.jpg


一旦「商港」に戻り、海沿いを歩きました。
朝日を浴びて、海沿いの城壁が美しかったです。


126b1b07.jpg


「ヴァージン門」から再び市街に入り、門の名前の由来となった、「ブルグのヴァージン教会」の跡を訪問。
14世紀に作られた教会ですが、ロードス騎士団が島を出た後、イスラムの支配の中で荒廃しました。


be8f690a.jpg


「ブルグのヴァージン教会」南側には二つの遺跡が残っています。
テントの下にあるのはビザンチン時代の教会跡。


6e1c7b34.jpg


こちらは紀元前3世紀頃の市の城壁の遺跡。


bc75d1b6.jpg


面白いことに防御の塔は西側(現在の旧市街側)を向いています。
この当時は、ここまで市街地が広がっておらず、「商港」を堤防まで守るために、港に沿って城壁が建てられていたようです。


この時点で、時刻は8:45になっていました。
8:30頃から引き返さないといけない思っていましたが、ついずるずるとここまで来てしまいました。(笑)
いつもの事ながら、結局、帰りはバス停までダッシュになりました。(爆)


aff064b8.jpg


なお、ロードスのバス停は新市街に入ったすぐの所にありますが、二カ所あります。
こちらは空港などに行くバスが停まる「Central Bus Station」。


bda32d7a.jpg


リンドスに行くのは、少し旧市街側にある「KTEL Bus Station」からです。


リンドスはロードスの町から約50km南にある小さな町ですが、古代のアクロポリスで有名な町です。


6cb21475.jpg


途中、道を間違えたりして、少し諦め気分もありましたが、何とか9時発のバスに間に合いました。
ツキは、まだまだあるようです。(笑)
でも、バスに乗った際は、冬にも関わらず汗まみれの、ちょっと変なアジア人になっていました。


1c62c697.jpg


リンドス行のバスの景色。
綺麗な海岸線も見えていましたが、逆光で綺麗な写真は取れませんでした。


14136b37.jpg


10:20にリンドス到着。
ロードスではそこそこの人数が乗りましたが、地元の人は途中下車していき、リンドスまで来たのは私を含めて2人だけでした。
たった二人で、周囲に、ほぼ何もないこの広場に降りた時は、ここで正しいのか、少し不安になりました。
(一緒に降りた人も、地元民らしく、市街とは別の南に向かって歩いて行きました。)


3575186e.jpg


でも、駐車場からは、目の前にリンドスの神殿跡が見えているので、そちらに向かって左に見える坂を下っていくだけです。



f0aaa9a5.jpg


上の駐車場から約400m降りると、セントラル広場に出ます。
ここから先の町中には一般の車は入れないので、夏場はここも、タクシー待ち等の観光客で賑わっているのでしょうね。


6af2ccf2.jpg


広場から見た景色。
冬場にも関わらず、海が綺麗です。


7b4ad802.jpg


正面にはアクロポリスと、ロードス騎士団の砦跡が見えます。


4ab3ec1c.jpg


ギリシアの白い街並みを抜けて歩くと、「パナギア教会」が見えてきました。
町全体が真っ白なので、この塔がよいランドマークになります。


7a2e6979.jpg


教会の中は、予想以上に豪華でした。
さすがビザンチンの支配下だった教会ですね。


e1f359a0.jpg


町の壁は何処も真っ白で、道も判りにくいですが、アクロポリスの看板(左手にある青い矢印の看板)に沿って歩きました。


3de3e3fb.jpg


坂道を上って入り口に達しましたが、残念ながら、アクロポリスは閉まっていました。
クリスマスイブなので半ば覚悟はしてましたが、残念です。


455d5d32.jpg


古く、この地にアテナ・リンディアの神殿が建設され、紀元前300年ごろに最終的な形になりました。
その後も、ヘレニズム期からローマ帝国時代に更に建物が追加されて発展しましたが、中世になって廃れました。
その遺跡の上にロードス騎士団が要塞を築き、現在の形となりました。


1c1c784f.jpg


次のバスまで時間があるので、ゆっくりと周囲を散策しました。
海側の崖から見た、要塞です。


21718cd0.jpg


リンドスの南側の町並みです。
右手の台地になった所が、バス停のある広場。
時間があるので、後でひと回りしました。


871e1c05.jpg


リンドスの北に広がる湾。
湾の奥が砂浜になっており、冬場で無ければ美しい海で海水浴を楽しめます。


0ec41184.jpg


断崖の続く南側の景色。


6c6a414a.jpg


北の湾(ビーチ)に降りる途中で見えた、アクロポリスの城塞。


82b52e1b.jpg


町中に降りる途中から見たリンドスの町。
ここからだと、バス停の広場がある台地がハッキリわかります。


5f54ec3b.jpg


美しいリンドスのビーチ。
この時期、流石に海水浴客はいませんが。


56a9d572.jpg


同じくリンドスのビーチ。
ちょうど、ここは日陰になっており、美しいビーチを見ながらしばし休憩しました。
寒かったアテネと違い、最高気温18度になったロードスでは、日向は少し暑かったです。


d0c45718.jpg


リンドスの中心に戻って来ました。


46f0aa8e.jpg


そこにあった、ネコ壁(たぶん)。


b1b7c575.jpg


同じくリンドスのメインストリート。
土産物屋やレストランが並んでいますが、この時は全て閉まっていました。


7207dbb7.jpg


そこで見かけた看板。
海から見たアクロポリスと思って写真を撮りましたが、海側には白い家は無いし、どこからの(いつの?)写真なのでしょう?


c2f8ff49.jpg


町のメインストリートを抜けて、バス停の広場に上がって来ました。
バス停の奥にある駐車場(閉まっていました)から見たアクロポリスの丘。

次の帰りのバスは13時ですが、時刻はまだ11:40です。
時間はたっぷりあるので、歩き続けます。(笑)


6fe501f9.jpg


同じく駐車場から見た、北の湾。


053f8014.jpg


バス停の広場からリンドスの南側まで歩いていました。
先ほど、アクロポリスの入り口付近から見た景色を逆から見ています。


27bffd58.jpg


丘の上にアクロポリスの神殿も見えました。


fec780e3.jpg


町の南側にも小さな湾「聖パオロ湾」がありましたが、ここは北の湾以上に美しかったです。


9f0f3259.jpg


リンドスの南端。
ここから市街に戻りました。

なお、リンドスにはアクロポリスの丘の麓に古代の劇場跡があります。(上の写真の中央右側)


7da61fec.jpg


途中で見かけたヤギの親子。


111a1f27.jpg


途中で見かけたネコ。


57d04e51.jpg


このネコは、今回ギリシアで会った中でも、最上に人懐こいネコでした。
しばらく撫でた後、歩きだしても着いてくるので、結局10分以上遊んでしました。


be3715f8.jpg


町中にあった通路。
上部の模様がイスラムっぽかったので撮影。


cb030799.jpg


民家の前にあった、ガレー船のモザイク。


640c5f20.jpg


民家の前の犬。
彼(彼女?)は手を出しても全く無視(逃げもしませんが)だったので、絡めませんでした。
ご主人を待っているのか、10分後に再び通った時も、ここにいました。


ab39b9a0.jpg


先ほど南側の丘の上から見えた劇場跡です。
紀元前4世紀頃に作られたもので、当時は約2000人の収容力がありました。


df237e7a.jpg


劇場横には、ヘレニズム時代に作られたディオニソスもしくはアポロの神殿の跡があります。


この後、再びリンドスの町中を抜けて、バス停に向かいました。


b3014968.jpg


バスは予定通り13時に出発しました。
リンドスの町ともお別れです。


ab3ce3f5.jpg


帰りは太陽の方向もよく、綺麗な海を見ながらバスの旅程を楽しみました。


6145fbd0.jpg


最後に、市内の看板にあった、往時のアクロポリスの想像図を紹介します。

リンドスはアプロポリスの神殿跡で有名ですが、ギリシアらしい白い町並みと、美しい海もあります。
ロードス島で時間があれば立ち寄る価値はあると思います。
今回、閑散期に来ましたが、日常の町並みを見れて良かったです。


バスは14:30過ぎにロードス着きました。
ロードス観光に続きます。




ロードス旅行 初日 その3 ~城塞都市ロードス

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月23日(日)、14時過ぎに「騎士の病院(考古学博物)」の見学を終え、ロードスの町を守る城壁の散策に行きました。

初日の「その1」で、、1309年の騎士団のロードス移住まで紹介したので、その後の歴史を簡単に紹介します。
イスラム国の主要都市であるイスタンブールとアレクサンドリアの航海上に位置シテ海賊行為を繰り返すロードス騎士団は、イスラム教国にとって目障りで、1444年のエジプトのマムルーク朝、1480年にはオスマン帝国のメフメト2世が来襲しました。
1522年7月28日、スレイマン1世が10万の兵とともに上陸し、攻城戦の指揮を執りました。
その時の騎士側の守備部隊は、700人の騎士と6000人の傭兵+雑兵のみ。
10倍以上の敵に攻囲され、5ヵ月の攻防の末に、12月22日に降伏を受け入れました。

騎士団は武具、財産の持ち出しを認められた上での撤退で、騎士団は、その後マルタ島に本拠を構え、スレイマン1世との第2ラウンドを戦う事になります。

マルタ島も訪問しており、その際の日記は以下で紹介しています。



6432b5f8.jpg


「軍港」東側の堤防には、三連の風車が建っています。


0a46555c.jpg


堤防から見た「軍港」。


6bcf2fba.jpg


堤防の先には、「軍港」の入り口を守る「聖ニクラウス砦」があります。


4df24e2d.jpg


「軍港」の堤防から、「商港」を見ると、軍艦が停泊していました。
ギリシア海軍のフリゲート艦「エリ」(艦艇番号:F-450)です。


851ab7f9.jpg


堤防から見た、「グランドマスターの館」。


f17abf9c.jpg


「グランドマスターの館」を撮影する際、逆光だったので、ベンチに座って太陽に雲がかかるのを待っていました。
その際、横でネコが居眠りをしていましたが、カメラを向けると顔を上げてくれました。


42e1ed30.jpg


旧市街の北東の角にある「自由の門」。
この門は20世紀のイタリア統治時代に作られた門で、今は「アーセナル門」を通って、「商港」に抜ける車道となっています。


db66b5f3.jpg


「自由の門」の横の堀。
右側は中世からの市外を守る城壁ですが、大砲の弾を当たり難くするために斜堤(左側)を付加しています。




ad2b7a6c.jpg


まずは「商港」の入り口を守る堤防です。
堤防の端には、かつて「商港」の入り口を守った「ナイラック塔」の跡があります。

なお、写真には写っていませんが、この写真の右側には「商港」に抜ける「聖パオロ門」があります。


49c4bd41.jpg


陸側から「商港」に抜ける「聖パオロ門」は、砦状になっています。


aa538e3a.jpg


かつて、旧市街から造船所(アーセナル)に向かうために作られた、「アーセナル門」。
現在は「自由の門」を通って新市街に向かう、車の通り道となっています。


9ea5a334.jpg


「聖パオロ門」の横から見た「商港」。
中央右側に「アーセナル門」があります。
操船技術に優れていた騎士団は、海に面した城壁は、中世以来の地面からそそり立つ城壁のままです。

なお、上の写真は次の日の早朝に撮影したもの。


53ba7bed.jpg


「商港」の全景です。


f1474d87.jpg


「商港」から旧市街への入り口となる「マリーン門」は、1477年から1478年にかけて作られました。


3f193f5a.jpg


「商港」の南に開いた「ヴァージン門」。
騎士の時代からあった門ですが、現在の門は1954年に建設されました。


7e2de982.jpg


「商港」から見た、「グランドマスターの館」。


769d5e9e.jpg


「商港」の南東部分に砦がありました。

なお、写真の左側の城壁部分には「聖カタリナ門」があります。


555aa975.jpg


操船技術に優れ、「商港」の制海権には自信を持っていたため、港に面した城壁は中世のままの高く薄い城壁でしたが、「商港」から外れた旧市街の東端には、海に面しているにも関わらず、外城壁が設けられています。


c35e3dd1.jpg


旧市街の南東に開いている「アカンティア門」。


49a82998.jpg


「アカンティア門」の向かいにある斜堤。
ここからは、城壁の堀の中を歩きました。

なお、ロードスに来た主目的は、ロードス騎士団の残した城塞構造の見学でした。
この日だけでなく、次の日の朝、および午後も城壁の周りを歩いており、ここから紹介する写真も、撮影日時が異なるものが混じっています。


fcde573b.jpg


「アカンティア門」の横に作られた「デル・カレット砦」。

1453年のコンスタンティノープル攻防戦では、、オスマン帝国のメフメット2世が、大軍と大量の大砲を投入する事で、中世最強ともいえるテオドシウスの城壁を攻略しました。
この戦いで中世の城壁が大砲に対して、脆弱である事が判明したのですが、その事に気付いた者は少数で、実際の城壁を変えるには、もう少し時間が必要でした。

ロードスは、1480年にスルタン メフメット2世の派遣した7万人の攻略軍に包囲されました。
包囲を撃退した後、騎士団はロードスの旧市街を囲む城壁を強化していきました。

特に、第41代グランドマスター ファブリツィオ・デル・カレット(在位:1513年 – 1521年)によって行われた改造は、大砲時代に応じた革新的なものでした。


cbdda3dc.jpg


中世の城壁と、ロードスの城壁の違いを図式してみました。

ロードスの城壁は、中世時代の高い城壁や塔を削って低くし、厚みを増やしました。
更に、その前に斜堤を築き、大砲の弾を当てにくくすると共に、広い堀を作りました。
また、「聖ヨハネ砦」から「スペイン砦」までの間の城壁には、主城壁と斜堤の間に外城壁を付加する事で、難攻不落の構造となりました。


なお、騎士時代、海からこの「デル・カレット砦」までは、「イタリア語グループ」の担当区域でした。


12d749e3.jpg


旧市街の南側の城壁は直線状になっているため、砦状になった塔で強化されています。


b32b4774.jpg


「聖ヨハネ門」を防御する「聖ヨハネ砦」。


59ea4c0f.jpg


南側から見た「聖ヨハネ門(別名:コスキノウ門)」と「聖ヨハネ砦」。

騎士時代は、「デル・カレット砦」から「聖ヨハネ門」までは、「プロヴァンス語グループ」の担当区域でした。


69fa7391.jpg


「聖ヨハネ門」から「スペイン砦」までの城壁は、外城壁(写真左側)によってさらに強化されています。


01bb5d0b.jpg


斜堤(左側)と外城壁(右側)。


e566a336.jpg


「イギリス砦(聖アタナシウス門)」から見た城壁。
左から内城壁、外城壁、斜堤となっています。

騎士時代、「聖ヨハネ門」から「イギリス砦」までは、「イギリス語グループ」の担当区域でした。


9eee3747.jpg


「イギリス砦」の内側には、中世時代の防御の塔が残っています。


d022fa1e.jpg


「イギリス砦」の全景。

481ffc9a.jpg


1522年のオスマン軍の包囲戦の際には、「イギリス砦」の前の丘の上に、スレイマン大帝が本陣を置いていました。


e48293c6.jpg


「イギリス砦」と「スペイン砦」の間の城壁も、外城壁によって強化されています。

そして、1522年の攻防戦時は、ここの城壁が最大の激戦地となりました。
塩野七生女史の「ロードス島攻防記」の、開戦時の文書を紹介します。
「アラゴン城壁の上には、聖ヨハネ騎士団の軍旗を背後にした団長リラダンが、仁王立ちの姿で、砲煙の中でも動かなかった。」
私も、このシーンを思い浮かべながら城壁を眺めていました。


db1d7999.jpg


「スペイン砦」。

騎士時代は、「イギリス砦」から「スペイン砦」までは、「アラゴン語グループ」の担当区域でした。


88353e2b.jpg


北西側から見た「スペイン砦」。


2e8c0716.jpg


ロードスの西側の長い直線の城壁を強化するために作られた「聖ジョルジュ砦」。

なお、これまで砦と紹介してきましたが、機能的には稜堡と呼ぶべきものです。
塩野七生女史は「ロードス島攻防記」で、「16世紀初頭の話をしているのに(稜堡は)なんともそぐわない」ので砦と書いていると言われていましたが、私にとっては「見た目」も稜堡と呼ぶより砦の方がぴったり来ました。
しかし、この5角形の巨大な砦は、近世城郭の稜堡と呼べるものです。


98130733.jpg


斜堤から見た「聖ジョルジュ砦」。


ecf3d229.jpg


斜堤から見たロードス西側の城壁と「グランドマスターの館」。
城壁の下に、市街に抜ける小さな門が開いています。


255dbcdc.jpg


「ダンボワーズ門」に戻って来ました。

この時、時刻は16:20になっていました。
最初に、この門をくぐったのが12:00。
城壁の堀を歩き始めた15:15からでも、1時間以上歩きまわっていました。
(途中、「イギリス砦」に上がったり、内城壁と外城壁の間の堀を歩いた後に、外城壁と斜堤の堀に戻ったり、ウロウロしていました。)


e9570751.jpg


「軍港」側から入って来た敵を遮断するように伸びている銃座。
城や要塞を多数見てきましたが、私は、堀の中にある、こんな構造の施設は初めて見ました。


35ec1eca.jpg


「グランドマスターの館」の北西に延びた城郭部分。


91a975aa.jpg


別の角度から見ています。


1df8202b.jpg


「グランドマスターの館」の横を通り抜けます。


6f6cbeae.jpg


堀の中には、オスマン軍の砲弾が多数積まれていました。


05072ad7.jpg


堀内の遊歩道の出入り口にある、「聖パオロ砦」。



94b6dc1a.jpg


歩きまわってお腹が空いたので夕食にしました。
出来れば、オーナーの奥さんが日本人である、旧市街の「Mama Sofia」で食事をしたかったのですが、クリスマスシーズンの旧市街のレストランは全滅でした。
仕方が無いので、泊まったホテルのレストランのビュッフェで食べました。


e8d01f6f.jpg


サラダ。


171a6948.jpg


食事を取って、元気も出たので、再び夜景を見に外に出ました。
上の写真は、ドデカネーゼ地方の政庁舎。


5037ded6.jpg


その向かいのロードスの市庁舎。
市庁舎の前の広場は、臨時の遊園地になっていました。


94fd3945.jpg


ライトアップされた、「聖ニクラウス砦」と「軍港」です。


新兵器である大砲に対して、16世紀初頭に築かれたロードスの城壁は、大変素晴らしく大満足でした。
(一般の人には、茶色い城壁が延々と延びているだけしょうがね。笑)

ロードス旅行の二日目に続きます。



ロードス旅行 初日 その2 ~騎士の通りと騎士の病院

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月23日(日)、13時に「グランドマスターの館」の見学を終え、「騎士の通り」に向かいました。


08abbbf0.jpg


「グランドマスターの館」の向かいには、14世紀前半に作られた「聖ヨハネ教会」の遺跡があります。
 

77935483.jpg


足場に居たネコ。
私を見ても逃げませんでしたが、警戒していました。
なかなかベッピンさんです。(雄かもしれませんが。。。)


e84cec56.jpg


「聖ヨハネ教会」の遺跡の上には、オスマン帝国支配下で作られた学校が建っています。


92983620.jpg


「グランドマスターの館」と「騎士の通り」をつなぐロッジア。
現在の建物は、オスマン時代に荒廃したものを、イタリア統治下で再建したものです。


453c52c9.jpg


これが「騎士の通り」。
騎士団統治下では、騎士専用の居住区でした。


ec54c19f.jpg


騎士たちは、話す言語によってグループが分けられており、ロードス時代は「オーヴェルニュ」「イル・ド・フランス」「プロヴァンス」「アラゴン」「カスティーリャ=ポルトガル」「イタリア」「ドイツ」「イングランド」に分かれており、各々のグループが館を持っていました。

上の写真の左の建物は「プロヴァンスの館」。


651b7855.jpg


壁には紋章があります。


341bd2e2.jpg


右の建物が「スペイン(カスティーリャ)の館」。


6b768a87.jpg


騎士の居住区から、庶民の居住区へ抜ける通路。


47b60f6a.jpg


1365年から1374年に建てられた「三位一体教会」。


f0c84d0b.jpg


左の建物は「イル・ド・フランスの館」。


152a3dbf.jpg


下の紋章は、ロードス島攻防戦を戦った時のグランドマスター、リラダン家のもの。
第44代グランドマスターである、フィリップ・ヴィリエ・ド・リラダン(在位:1521年 - 1534年)は、ロードス攻防戦とそれに伴うロードス島からの退去、ヨーロッパ放浪を経てマルタ島に入るまでの、困難な時期を率いました。


09917d2d.jpg


続いて「イタリアの館」。
「イタリアの館」は、第41代グランドマスター ファブリツィオ・デル・カレット(在位:1513年 – 1521年)によって1519年に建てられました。
ファブリツィオは、「ロードス島攻防記」の主人公のひとり、アントニオ・デル・カレットの叔父であり、ロードスの町の城壁を近代化した人物です。

なお、現在の建物はイタリア統治時代の再建だそうです。


aebb4a4b.jpg


「イタリアの館」の紋章ですが、鷲の紋章?


bc7b0264.jpg


アラゴン軍団の長、ディオメデ・デ・ヴィララグート(Diomede de Vilaragut)の屋敷跡。


a8c718d2.jpg


「騎士の通り」の東の端には「考古学博物」があります。
この建物は、騎士団統治下では病院として使われていました。


10b0b450.jpg


「騎士の通り」を振り返ります。
この日は道の工事をしていて歩きにくかったですが、次の日は道の中央は立ち入り禁止になっていました。
やはり、シーズンオフは色々と制約があります。


6402b00e.jpg


「考古学博物」の東側のファサード(入り口)。


119291c9.jpg


「考古学博物」の向かいには「イギリスの館」があります。


6f95a52d.jpg


「イギリスの館」にあった紋章。


b6174167.jpg


更に、「考古学博物」の前のアペロウ通りを北に行くと「オーヴェルニュの館」があります。

「アラゴンの館」と「ドイツの館」は、何処にあったのか判りませんでした。


17626c05.jpg


「オーヴェルニュの館」の二階から中庭を見たところ。
中庭は今はカフェになっています。


44745a16.jpg


「考古学博物」の中庭。


c9f2e54e.jpg


獅子の像がありました。
ロードスのネクロポリスの墓の彫像として出土したそうです。


7777b432.jpg


一階の回廊。

7b71c4cf.jpg


この広間が、聖ヨハネ騎士団時代の病院です。
聖ヨハネ騎士団は、ホスピタル騎士団とも呼ばれており、軍事だけでなく病院活動にも力を入れており、当時としてはヴェネチア共和国に並ぶ医療レベルを誇っていました。

領土を失い軍事機能を無くした現在でも、欧州全域で医療活動を行っており、ミュンヘン市内でも、ヨハネ騎士団の救急車が走り回っています。


273d2114.jpg


各ベッドはカーテンで仕切られ、個人の所有物を収める小部屋までありました。
ここでの医療は全て無料で、遠路エルサレム巡礼に来て病にかかった人を大勢助けました。


d21bf3b1.jpg


二階の回廊。


dae96e6d.jpg


「考古学博物」としては、ロードスから出土した品を展示しています。
有名なものとしては「アフロディーテ像」がありますが、思った以上に小さく、私は、ほぼスルーしてしまいました。(私の関心は出土品より病院跡にあるようです;笑。)


a9ddbe24.jpg


二階の回廊の周りは小部屋に分かれていますが、高貴な病人用の個室かな?


a07e6b9f.jpg


「騎士の通り」に降りる階段。


87282ce9.jpg


病室の広間(写真奥)の外は、テラスと庭になっており、歩ける病人は病院内で散歩も出来ました。


f5d4ce5d.jpg


一階に降りる階段。


d2966d4e.jpg


モザイクとギリシア/ローマ風の神殿(?)。


eba6a6f1.jpg


「薔薇の花咲く島」だけあり、冬でも花が咲いていました。



e0757ed6.jpg


bb177f4c.jpg


10cf083b.jpg


テラスから続く庭です。


9ecbba73.jpg


庭にはミカンやレモンもなっていました。
ロードスでは、柑橘類を越冬させるオランジェリーは不要ですね。


9150b9a7.jpg


庭にあったロッジア。


f48991e7.jpg


ロッジアの壁にはモザイクが飾られていました。

写真はペガサスに乗りキマイラを倒すベレロポーン。


ec46b8a4.jpg


02e18d9c.jpg


「騎士の通り」に面した小庭。


baff5c0b.jpg


向かいは「フランスの館」です。
と言う事は、すでに「ディオメデ・デ・ヴィララグートの屋敷」に入っていたのですね。


cfc69cf4.jpg


ここでも、ネコと戯れました。


348065df.jpg


屋敷の横にあった小さな池。

14時過ぎに「騎士の病院(考古学博物)」の見学を終えました。

「城塞都市ロードス」に続きます。



ロードス旅行 初日 その1 ~グランド マスターの館

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月23日(日)、この日は、朝からロードス島に移動しました。

ロードス島は、「薔薇の花咲く島」という意味から名づけられたほど、温暖な島で、古代には「世界の七不思議」に数えられた巨像を建てるほど栄えました。
古代ローマ時代は哲学の学府が有名で、カエサル、キケロ、ブルータス、ティベリウス等の貴族の子弟が学びに訪れたそうです。

しかし、私にとってのロードスは、塩野七生女史の「ロードス島攻防記」の舞台です。

1023年ごろアマルフィの商人がエルサレムに病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立したことに始まった組織も、11世紀末の第一次十字軍によるエルサレム王国の設立後、1113年に教皇パスカリス2世から聖ヨハネ騎士修道会として正式な承認を得ました。
その後、エルサレム王国をイスラム勢から守るために軍事的要素を強めていき、エルサレム王国の防衛には欠かせない軍事力を持ちました。

しかし、1291年のアッコンの陥落によりパレスチナの地を追われ、一時欧州を放浪した後に、1309年に東ローマ帝国領だったロードス島を占領し、騎士団の本拠を構えました。
ロードス島に移ってからは、騎士団は馬を船に変え、イスラム相手の海賊行為(彼らにとっては聖戦ですが)を
繰り返し、「ロードス騎士団」とも呼ばれるようになりました。


a8c6aa99.jpg


ホテルを早朝に出て、アテネ空港に到着。
9:00アテネ発の飛行機でロードス島に飛びました。


9b9e263e.jpg


10:00にロードス空港に到着し、タクシーでホテルに移動しました。
空港からロードス市街までは約15km、26ユーロでした。
この時期ロードスはシーズンオフになるため、ホテルの多くが閉まっているとタクシーの運転手が言っていました。

今回泊まったのは「ベスト・ウェスタン・プラザ・ホテル」です。
新市街の中心にあり、旧市街までは約1kmの位置にあります。
シーズンオフのためか、朝11時過ぎでもチェックインできました。


d0090b1b.jpg


ホテルから東に抜けるはずが、北に歩いてしまったので、新市街の北側に広がる美しいビーチを見る事ができました。
夏場は、このビーチもドイツ人で埋まっているのでしょうね。(笑)


f12832c9.jpg


ビーチから南下すると、かつての「軍港」(以下、単に軍港と書きます。)の入り口と、そこを守る「聖ニコラス要塞」が見えてきました。


93934d0f.jpg


ロードス島を中心としたドデカネーゼ地方の政庁舎。
イスラム風の建物です。


efbd2b1e.jpg


「軍港」の入り口。
ロードスでは、紀元前3世紀の初めに、戦勝を記念して太陽神ヘーリオスを象った巨像が建てられました。
ニューヨークの自由の女神ぐらいの大きさの巨像だったようで、世界七不思議の一つにあげられています。
通説では、現在鹿の像の建っている場所に、港の入り口をまたぐように建っていたと言われていますが、鹿の像の距離が約60m、流石にこの距離を跨いで建つのは無理でしょう。


9592dad9.jpg


「軍港」の一望。
右に、「グランドマスターの館」が見えています。


d3e074ea.jpg


港の横に建つ「エヴァゲリスモス教会」。
古い教会かと思いましたが、1925年の建築だそうです。


57bf526f.jpg


鐘楼には、サンマルコの彫像が飾られていました。
でも、イタリア統治下の建築とは言え、なぜ有翼の獅子像がここに掲げられているのでしょうか?

聖ヨハネ-ロードス騎士団は異教徒と交易を行うヴェネチア共和国を良くは思っていなかったので、ロードス観光で、この像を拝むことができるとは思っていませんでした。


9a0881bb.jpg


港側から見た、「軍港」の入り口。


0c744c02.jpg


港の東側には、「聖ニコラス要塞」まで、堤防が延びており、堤防上に3基の風車が建っています。


44fab180.jpg


「軍港」から「自由の門」経由で旧市街に入る事ができますが、まずはロードス騎士団が領有していた時代の正門と言える(かな?)、「ダンボワーズ門」から入城する事にしました。

「軍港」から「ダンボワーズ門」に行くには、少し西に回り込みます。
上の写真は旧市街の北西角の斜堤を利用した公園から撮影したもので、「ダンボワーズ門」は右端に見えています。

ロードスの旧市街は、大砲時代に備えた稜堡式城壁を最初に取り入れており、強固な城壁に囲まれていますが、その紹介は後程。


f6506ff3.jpg


公園の遊歩道ですが、道の横にはロードス島攻防戦でオスマン軍から多数撃ち込まれた砲弾の一部と思われる、丸い石が並んでいました。


45acc4ff.jpg


これが「ダンボワーズ門」です。
第41代グランドマスターのダンボワーズ(在位:1503年–1512年)によって強化された事から、この名がついています。


245e32c0.jpg


「ダンボワーズ門」そのものが独立した要塞となっており、門を抜けても、旧市街に入るには、更に濠を渡る必要があります。


8c44481b.jpg


旧市街に入ると、目の前に「グランドマスターの館」が建っています。


b83f8795.jpg


旧市街に入った敵兵は(右が「ダンボワーズ門」から入る門)、濠と城壁で守られた「グランドマスターの館」から攻撃を受け続けるようになっています。
(日本の城で言う、曲輪の構造ですね。)

なお、正面に見えるのが「聖アントニウス門」です。


fda5775a.jpg


かつて、聖ヨハネ騎士団の総長であるグランドマスターの住んだ、「グランドマスターの館」。
一般には「グランドマスターの宮殿」と呼ばれていますが、「清貧」を旨とする騎士修道会の総長の住む屋敷を「宮殿」と呼ぶのは、そぐわない気がするので、私は「館」と呼びます。

なお、ロードス島は最初のドイツ駐在時にも来たことがあるのですが、その時は「グランドマスターの館」は、クリスマス休暇で閉館中でした。
同じ間違いをしないように、今回はイブ・イブの23日に見学しました。


73064ffa.jpg


館の中庭です。


67e53fbb.jpg


メインの居住区は二階になります。
階段には手すりが無いのですが、怖くないのかな?


33e1c987.jpg


一階の階段横にある、礼拝堂。


d0678f53.jpg


訪問時は見落としていたのですが、この部屋の奥の壁にはFERT FERTの文字が彫られています。
「FERT」はラテン語で「耐え忍ぶ」の意味。
騎士団と呼ばれていますが、あくまでも修道会であり、騎士たちには「清貧」「服従」「貞潔」が求められていました。


5d69caaa.jpg


館の中に派手は装飾はありませんが、床には美しい古代のモザイクが集められています。
なお、この館は騎士団が退去した後に荒廃し、イタリア統治時代に再建されていますから、内部の装飾も騎士団の統治下のものは少ないと思われます。


c86ecde6.jpg


「ラオコーンの像」はレプリカ。


98ebc92c.jpg


コス島にあった古代ローマの屋敷から持ってきた、メデューサのモザイク。


f3c6a08a.jpg


残念ながら、館内には、ほとんど案内板が無く、各部屋の紹介が出来ないので、以下は各部屋の写真だけを並べます。


8cbb2e7e.jpg


677c6970.jpg


0f0d0181.jpg


7be1e4e6.jpg


244324f3.jpg


古代ローマの雌オオカミ像。
古代ローマの創始者と言われるロムルスとレムスに乳を与えて育てたとの話しにちなんだ像ですが、1912年からのイタリア統治時代に、港の入り口に飾られたそうです。


e522aea3.jpg


2df04067.jpg


ad6ce652.jpg


156dc9f4.jpg


09a74f7b.jpg


8e5752c4.jpg


0a06df3e.jpg


f3a5d09b.jpg


d2bafeb9.jpg


7521672f.jpg


c2c478aa.jpg


be8fa59a.jpg


1eb475df.jpg


上の二枚のモザイクもコス島のローマの屋敷から持ってきたものだそうです。


b008d160.jpg


立派な衣装が並んだ部屋。
いつの時代のものかは不明ですが、少なくともイスラム教徒と日々戦っていた時代のものでは無いですね。


d40d939b.jpg


a51c682b.jpg


暖炉には「ヴィットリオ・エマニュエーレ三世」の紋章が描かれていますので、これもイタリア統治時代のものです。


2ef31f2f.jpg


繰り返しますが館内に看板がほとんど無いので、各部屋の役割や、いつの時代の装飾なのか判りませんでしたが、雰囲気は良く出ており、「ロードス島攻防記」に出てくるシーンをイメージしながら見学しました。
今回は見学できて良かった。

次は「騎士の通りと騎士の病院」に続きます。


アテネ旅行 2日目 その3 ~ゼウス神殿とアクロポリス博物館

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月22日、アテナイの遺跡の散策の続きです。


74062b82.jpg


14時に「ケラメイコスの遺跡」を出た後、地下鉄に乗って「ゼウス神殿の遺跡」に戻ってきました。


1e8a254b.jpg


神殿の入り口。


2db22d5d.jpg


「ゼウス神殿」は、紀元前6世紀、僭主政のアテナイの時代に建設が始まりましたが、権力の交代によって何度も建築の中止と再開を繰り返しました。
初代ローマ皇帝アウグストゥスの統治時代にも神殿の建築が再開されましたが、その完成は第14代ローマ皇帝ハドリアヌスにより成し遂げられました。
建築開始から完成まで、約640年もかかりましたが、最終的には、ローマ帝国期を通じて建てられた神殿の中で、最大規模のものとなりました。


0807eb5e.jpg


南側には別の神殿の遺跡も残っています。


7e6c1735.jpg


高さ17m、直径2mの巨大なコリント式の柱が並んでいます。
しかし、5世紀に東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世がキリスト教以外の神殿を否定したため、「ゼウス神殿」も破壊され、柱はキリスト教の教会の建築に使われたそうです。


baf38534.jpg


「ゼウス神殿」と「アクロポリス」。


36567f31.jpg


別の角度から見た神殿の遺跡。

なお、アテネの遺跡の共通券で、この他にアリストテレスの作った学園、「リュケイオン」にも行けたのですが、当日は気付きませんでした。


e2001f09.jpg


少し時間があったので、、「アクロポリス」横にある、「アクロポリス博物館」に行きました。
「アクロポリス」からの出土品を展示するために、2008年に建築された博物館ですが、この時は「国立考古学博物館」と勘違いして入りました。(笑)


6ba09cf9.jpg


博物館の下も遺跡があるので、博物館そのものは多数の柱で地面から持ち上げられて作られています。


5bc1ac33.jpg


博物館内部。


24ea44e4.jpg


ヘビの彫像。
古代では、脱皮を繰り返す蛇は、生命の再生・循環のシンボルとされていました。


77fa0f18.jpg


フクロウの彫像。
古代ギリシアでは、フクロウはアテナの従者で、知の象徴とされていました。


83dbcd46.jpg


博物館のガラス張りとなった最上階から、「アクロポリス」が良く見えました。


d0c4af9f.jpg


写真では判りにくいですが、ガラス張りの床は地上階までシースルーとなっています。


bd68af0e.jpg


「エレクティオン」の、「少女の玄関 」の柱のオリジナルが展示されています。


9778d6b3.jpg


博物館の見学を終え、「アクロポリス」の東側をのんびり歩いてホテルに戻りました。
上の写真はプラカ地区の名物(?)、石段に並ぶカフェやレストラン。
昼もいいでしょうが、夜景も趣があります。


bcdacbdf.jpg


ライトアップされた「風の塔」。


78427d0e.jpg


ライトアップされた「ローマ時代のアゴラ」。


b655935c.jpg


「ローマ時代のアゴラ」の門。


40158f6b.jpg


「アクロポリス」の夜景。


573007c0.jpg


「ハドリアヌスの図書館」


88220714.jpg


d5b8c70c.jpg


「モナスティラキ広場」の写真を二枚。


4cbf8949.jpg


この日の夕食は、ピタギロス。
ホテルに帰る途中でお店を見かけたので、買いました。
ギリシアに来たら、一度は食べないといけません。(笑)

これで、アテネ散策の前半が終了です。
アテネは28日に再び散策したので、また紹介します。

ロードス編に続きます。




アテネ旅行 2日目 その2 ~アゴラ見学

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。


c451d62c.jpg


11:00に「アクロポリス」の見学を終え、西ゲートから退出後、北に歩いて、古代アテナイの旧市街、プラカ地区に向かいました。


ee3e38b9.jpg


プラカ地区には多くの古代遺跡が残っています。
最初に来たのは「ローマ時代のアゴラ」。
アゴラとは古代ギリシアで「人の集まるところ」を表し、市民の生活の中心地でした。
ローマで言うところのフォルムの事です。
上の写真はアゴラの前に建つゲートです。


4d7bf4b4.jpg


「ローマ時代のアゴラ」は、列柱に囲まれた幅69m奥行き82mの広い広場。
元からあったギリシア時代のアゴラが手狭になったため、ユリウス・カエサルが資金を出して建設を始め、アウグストゥスが引き継ぎ、紀元前12年から紀元2年の間に完成させたそうです。


4a5e4854.jpg


当時の列柱が一部残っています。


90b60bb0.jpg


アゴラの東の端にある、「風の塔」。
紀元前2世紀末頃に作られた、13.85mの塔。


57f86561.jpg


中の床には、円形の溝と、それにつながる水路(左上に次がっている溝)が刻まれており、古代の水時計、もしくはプラネタリウム(って看板に書いていました!?)と考えられているそうです。


a50951aa.jpg


「風の塔」の北側にある「公衆トイレ」の跡。
四角い建物になっており、壁際に彫られた正方形の溝を背にして座って用を足すと、溝を流れる流水で汚物が下水に流れる仕組みだったそうです。


1d3f7660.jpg


アゴラの北側にはバジリカ跡がありました。


e835de8e.jpg


「ローマ時代のアゴラ」の見学を終え、外に出ると目の前にはカラフルな布を売っているお店がありました。


c7c88862.jpg


「ローマ時代のアゴラ」から少し北に歩くと、「ハドリアヌスの図書館」があります。
ローマ皇帝ハドリアヌスが132年に、ここにアゴラ(フォルム)を建設しましたが、敷地の東側の建物にパピルスに書かれた巻物が保管されていたため、この名が付いています。

上の写真はアゴラを囲む列柱と壁の遺跡です。


21f6afb3.jpg


西側に開いた、アゴラの出入り口。


d892f75c.jpg


西南のアゴラの壁の跡。


b2e3f361.jpg


そのアゴラの中庭に、5世紀中にキリスト教の聖堂が造られ、7世紀になると3廊式の聖堂が建て直されました。
それらも今は壊され遺跡のみが残っています。


d59bdca9.jpg


「ハドリアヌスの図書館」からは「アクロポリス」が良く見えました。


616ef815.jpg


写真では判りにくいですが、写真手前にはモザイクが一部残っています。


076c44cc.jpg


次に向かうのは「古代のアゴラ」です。
「ローマ時代のフォーラム」から「古代のアゴラ」は見えていたのですが、フェンスに囲まれ入り口が判らず、ウロウロしました。
結局、北側の「アドリアヌー通り」(上の写真)を西に行った所にある事が判りました。


6620dbe1.jpg


「アドリアヌー通り」は途中からレストラン街となりました。
なお、右側の鉄道はピレウスに向かう地下鉄1号線です。


d711fd2d.jpg


11:55に「古代のアゴラ」に入場しました。
上の写真は「アグリッパの音楽堂」。
紀元15年頃に、初代ローマ皇帝の右腕であったアグリッパの作った音楽堂の跡。
残った柱は、建物の入り口の天井を支えた、トリトンと巨人の彫像が彫られています。


6a213315.jpg


トリトンの柱。


7c1164ec.jpg


「古代のアゴラ」の東にある、「アッタロスのストア(アッタロスの柱廊)」。
紀元前2世紀に、ペルガモンの王アッタロス2世が、アテナイで学問を学んだことに対する謝礼として寄贈したものです。その後、破壊されていたものを、1953年から1956年に博物館として再建。


3671e526.jpg


「アッタロスのストア」の南の端にあった水場。
休息所だったのでしょうか?


65b936b3.jpg


「アッタロスのストア」は西半分が列柱の並ぶオープンな場所で、東半分が建物になっています。
建物はかつてはビジネスの場として使われたようですが、今は博物館になっています。


df9b3e3e.jpg


そこで、なついて来たネコ。
今回訪問した所は何処もネコが多かったですが、大半は近づくと逃げる中、たまに人懐っこいネコもいました。
ギリシアはネコ好きの人は癒されるでしょうね。


8af1cb1d.jpg


博物館には、ギリシアの発掘品が多数展示されています。
5賢帝の一人、ローマ皇帝アントニヌス・ピウス(在位:138年 - 161年)の像。
ギリシアではなく、ローマ時代の彫像の紹介ですね。(笑)


d69a65ef.jpg


古代から近代にいたるコインのコレクション。


babb5daf.jpg


紀元前4世紀頃に作られた、女神ニケの像 。
一部しか残っていませんが、十分、躍動感を感じます。


f9de6a53.jpg


「アクロポリス」の「西門」から「ディパイロン門」まで続く「パナテナイク通り」。
古代アテナイの幹線でした。


e55f78c3.jpg


「聖使徒聖堂 」は、10世紀末から11世紀頃のビザンティン時代に建てられました。


5bd1ab22.jpg


アゴラの南西角にある「古代の水時計」の遺跡。
かつては四角い部分がタンクになっており、そこに貯まる水のカサで時を計りました。


5ff8ed21.jpg


アゴラの西は丘となっており、そこから、「アクロポリス」と「古代のアゴラ」が見渡せます。


3379f8df.jpg


丘の上には、紀元前449年に建てられ始め、紀元前415年頃に完成した「ヘーパイストス神殿」が建っています。
鍛冶屋や窯業者が集まる地区に建てられたため、炎と鍛冶の神とされたヘーパイストスを祀る神殿となったそうです。


3d3b48bd.jpg


会社でもらったお菓子を持ってきたので、「アゴラ」と「アクロポリス」を見渡せるベンチに座って、昼食代わりに食べました。(笑)


434249ee.jpg


「新・評議場(ブレウテリオン)」の遺跡です。


8d4b79b7.jpg


「ローマ皇帝ハドリアヌスの彫像」。


e0d97ba5.jpg


紀元前5世紀前半の用水路の遺跡。


76ff6d3a.jpg


13:15に「古代のアゴラ」の見学を終えました。
でも、アゴラの遺跡の外側にも遺跡は広がっていました。

なお、遺跡の奥を走っている電車は地下鉄です。
それにしても、落書きがすごい。


78792d58.jpg


続いて「テセイオン駅」の北西にある「ケラメイコスの遺跡」に行きました。
でも、立て続けに遺跡を見学すると、好奇心が鈍って来ますね。

「ケラメイコスの遺跡」は、アテナイの市壁にあった門の遺跡です。
古代には陶工が多く住む地域で、英語のセラミックの語源にもなったそうです。


3f08c479.jpg


写真の左部分の壁が、かつてのアテナイの市壁跡。


a58ff677.jpg


門を抜けた先の道の両側には、裕福なアテナイ人が大きな墓標彫刻を立てました。
街道沿いに墓標を建てる事はローマも取り込んでいます。


3e704f37.jpg

墓標彫刻。

2e408db9.jpg


右の道の先にエレウシスに向かう道が通る「聖なる門」がありました。


52fa9963.jpg


アカデメイアに向かう道が通る、「ディパイロン門」のあった部分。


a8656043.jpg


当時は、2つの門の間に「ポンペイオン」という建築物が建っていました。これは円柱に囲まれた中庭と宴会場からなり、パンアテナイア祭の時のアテナを称えるパレードの時に、ここで食事が提供されたそうです。


daab10cd.jpg


手前から「聖なる門」の通る道と「ポンペイオン」、そして奥に、「ディピュロン門」を通る道が並んでいます。


4dacc45f.jpg


「ケラメイコスの遺跡」には博物館も併設されており、ここで発掘された出土品が展示されています。
中央にあるのは外の墓地にあった牛の彫像。
と言うことは、外の彫像はコピーだったのでしょうね。


ebdf73c9.jpg


「スフィンクス」と「男性の彫像」。


029593dd.jpg


先ほど紹介した墓標彫刻。
これも外にあった彫像もコピーだったのでしょう。


「ゼウス神殿とアクロポリス博物館」に続きます。



アテネ旅行 2日目 その1 ~アクロポリス

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

12月22日(土)、アテネ観光の2日目です。


20233c96.jpg


ホテルの屋上から見た、朝日に輝く「アクロポリス」。


3a74bb37.jpg


ホテルを出た後、「アティナス通り」を北上し「オモニア広場」に向かう途中にあった「コツィア広場」。
この時は知りませんでしたが、この広場の奥に古代アテナイの遺跡があります。
(アテネ旅行 3日目に紹介します。)


d0897ddd.jpg


これが「オモニア広場」。
地下鉄1号線と2号線の交わる場所で、ここからは「考古学博物」も近いです。
(「考古学博物」は、3か目に紹介します。)


fc87d302.jpg


「オモニア広場」の地下には、古代アテナイ時代の上下水道の遺跡があります。


0964b616.jpg


「オモニア駅」から「アクロポリ駅」に地下鉄で移動し、アクロポリスを観光します。
昨日会ったジョージは、今日はアクロポリス入場は無料だと言っていましたが、しっかりお金を取られました。
彼は、情報も、いい加減だなぁ!

なお、この日は終日遺跡巡りの予定だったので、アゴラも含めた共通券を購入。
でも、30ユーロって高い気がするけど、全部回れば元を取れるのかな?


7fd57c81.jpg


アクロポリスの南東にある「ディオニソス劇場」。
元々、紀元前4世紀中頃に17000人から19000人収容できる劇場として建設されましたが、ハドリアヌス帝(117年-138年)時代にローマ風に改築させたそうです。


1935ad44.jpg


劇場側(写真奥)にはハドリアヌス帝時代の彫像が残っています。


b79c2776.jpg


「エウメネスの柱廊」。
「ヘロディス・アッティコス音楽堂」と「ディオニソス劇場」の間に、紀元前2世紀にアッタロス朝ペルガモンのエウメネス2世により造られた、163mの長さの2階建ての柱廊です。


191291f9.jpg


丘の中腹から見た「「ディオニソス劇場」。


5f4e2eff.jpg


「アスクレーピオス神殿」。
アポロンの子であるアスクレーピオスは、ギリシア神話に登場する名医で、死者をも蘇らせる事ができたそうです。

ここには紀元前1世紀に神殿が建てられ、その後、数世紀に渡って拡張されました。


32916a3f.jpg


「イロド・アティコス音楽堂」。
161年に、ギリシア人の貴族でローマの元老院議員であったイロド・アティコスが、妻のを偲んで建設した施設。
白大理石で造られた32列の客席の収容人員は約5000名でした。
1950年代に観客席と舞台部分の改修が行われ、現在もコンサート会場として使われています。


7cbc02fb.jpg


前日に撮影した「イロド・アティコス音楽堂」の南側のファサード跡。


147f2ec9.jpg


「イロド・アティコス音楽堂」を見学すると、いよいよアクロポリスに入場します。
写真は「西の門」。
3世紀にアクロポリスの防衛力を強化した際に、この入り口も要塞化されました。


665d1a3b.jpg


城塞化され、少し窮屈な「西の門」を抜けると、壮大な入り口「プロピレア」が目の前に広がります。


d41f95f6.jpg


階段の南側には、紀元前424年に完成した「アテナ・ニケ神殿」が建っています。


4128be1d.jpg


階段の北側には角柱が建っています。


74ddd3ab.jpg


中から見た「西の門」。


d089bd01.jpg


「プロピレア」の天井。
一部天井も残っています。


44d70626.jpg


「プロピレア」の東側のファサード。


523c3425.jpg


アクロポリス南西の「アルテミス・ブラウロニア神殿」の跡。


334253fb.jpg


北東側には「エレクティオン」が建っています。
アテネとポセイドンとエリクトニオスに捧げられた、この神殿は、紀元前5世紀末に完成しました。

その手前にある台座には、かつて巨大な「アテナ・プロマコスの像」が建っていました。


6e16ffef.jpg


「エレクティオン」の南側には、「少女の玄関 」があります。
名前の通り、6体の少女の姿の柱像が、玄関の屋根の重さを支えるように設計されています。


952666b3.jpg


「エレクティオン」の東側のファサード。

9663cb4b.jpg


「エレクティオン」の北側の玄関です。


7779f8d8.jpg


続いてメインイベントの「パンテノン神殿」の見学です。
写真は「パンテノン神殿」の北東側の風景。


ac5ec9c5.jpg


東側のファサード。


c5c64668.jpg


南東側から見た神殿。
大トルコ戦争時の1687年9月26日、フランチェスコ・モロジーニ率いるヴェネチア共和国軍がアクロポリスを包囲した際に、ヴェネチア軍の放った砲弾が、オスマン帝国によって火薬庫として使われていた神殿に直撃し、神殿は爆発炎上しました。
「パンテノン神殿」破壊の悪名を残したフランチェスコ・モロジーニですが、1688年に共和国のドージェとなり、ヴェネツィア共和国を興隆させました。

散々、痛い目にあったオスマン帝国への勝利の為とはいえ、このような事でヴェネチア共和国の名前が出るのは、ちょっと悲しいです。


f77c4f4f.jpg


「パンテノン神殿」の東側には、小さな円形の「ローマとアウグストゥスの神殿」跡があります。


aca7b418.jpg


神殿の屋根を支えていた円形の梁です。


c78858e5.jpg


「パルテノン神殿」の西側にはパルテノン神殿の部品と思われる部材が並んでいました。
修復に使うのでしょうね。


c919c6f1.jpg


「アクロポリス」の東の端には展望台が作られています。
そこから見た北西側の景色。
「古代のアゴラ」や旧市街地が見渡せます。


06940b92.jpg


東側の景色。


f05cd646.jpg


南東側の景色。
「ゼウス神殿」や「オリンピック・スタジアム」が見えています。


b4701dae.jpg


展望台から見た、「パンテノン神殿」と「エレクティオン」。


88376427.jpg


「アクロポリス」南側からの景色。
左側に「ディオニソス劇場」が見えます。


4ef32d5e.jpg


「アスクレーピオス神殿跡」や「エウメネスの柱廊」を見下ろします。


7754ae44.jpg


右側に「イロド・アティコス音楽堂」が見えます。


ca36ab9c.jpg


「ディオニソス劇場」で見かけた猫。
色艶が良いので飼い猫かな?
それにしても気持ちよさそう。


168c5c9a.jpg


最後は、横になって寝てしまいました。

これで「アクロポリス」の紹介は、これで終わりです。
次は「アゴラ」編に続きます。



アテネ旅行 初日

2018年12月21日から28日まで、クリスマス休暇を利用してギリシャを訪問してきました。

訪れたのは、アテネ、ロードス、コルフで、今回も塩野七生女史の世界に、どっぷり浸かる旅でした。(笑)
 

9f11aaa1.jpg


8:30ミュンヘン発のルフトハンザ便でアテネに飛びました。
この日は飛行機からミュンヘン市内が良く見えました。
中央にミュンヘン市街の中心部、右にはアリアンツ・アリーナ、そして左側には私の住むボーゲンハウゼンが見えています。


733f3970.jpg


ドイツ・アルプスは既に冬景色。
写真の中央左側にクフスタインの町があり、中央奥に向かってインスブルックに向かうアウトバーンが延びています。


dbb97879.jpg


写真はアテネの北西にあるエレフシナ湾。
写真の左上側に見えるのが、サラミス島(サラミナ島)。
写真左端に見える海で、紀元前480年9月に、ギリシア艦隊とペルシア艦隊の決戦であるサラミスの海戦が行われました。
この海戦でのギリシア側の勝利は、ペルシア戦争の転機となると共に、アテネ(当時はアテナイ)が海運国家として繁栄するきっかけとなりました。


234dcc02.jpg


ミュンヘンーアテネは飛行機で2時間20分ですが、1時間の時差があるため、ギリシア時間の11:50にアテネ空港に到着しました。

空港から市内に移動する公共機関は、エアポートバス、地下鉄および郊外鉄道があります。
私は、エアポートバスの「X95番線」でシンタグマ広場まで行きました。


7299596e.jpg


12:15頃発のバスに乗り、13:30に「シンタグマ広場」に到着しました。
上の写真は、広場の隣に建つ「国会議事堂」。
「国会議事堂」の前の「無名兵士の墓」では、1時間毎に衛兵の交代式が行われますが、その様子は最終日に紹介します。


f3d036aa.jpg


「シンタグマ広場」。
シンタグマは憲法の意味で、1844年にギリシア王国の憲法が、ここで発布された事に由来します。

ホテルに向かうため、この広場から、写真の中央に延びる「エルムー通り」を、西に歩きました。


f9328ab0.jpg


「エルムー通り」は商業ビルの並ぶ、アテネ一番の商店街ですが、その道の中央に、「パナギア カプニカレア教会」があります。

a5580180.jpg


11世紀後半(1060年-70年頃)に建造されたギリシア正教の教会で、ビザンチン風の装飾です。


a643ecd9.jpg


「エルムー通り」が「アティナス通り」にぶつかった所で、「アティナス通り」を北上すると、「中央市場」があります。
今回のホテルは、この市場に面した「アテネ・センター・スクエア―・ホテル」です。

このホテルは、地下鉄1号線と3号線の交差する「モナスティラキ駅」と、地下鉄1号線と2号線の交差する「オモニア駅」の、ほぼ真ん中にあり、どちらの駅にも徒歩6-7分で行けるので便利でした。

14時前にホテルに着きましたが、もうチェックインできました。
上の写真はホテルの部屋から見た、「中央市場」。


43a027e2.jpg


このホテルの良い所は、屋上から周囲を見渡せる事で、アクロポリスも一望できます。

古代ギリシア時代のアテネ(アテナイ)は、ペルシア戦争後にデロス同盟の盟主として、海洋での覇権を握り、大いに栄えました。
その象徴ともいえる建造物が、「アクロポリス」に建てられた「パルテノン神殿」です。


81ddeb8b.jpg


ホテルの屋上から見た、「中央市場」と、その背後に見えるのは「リカヴィトスの丘」。


c7eb221e.jpg


南西方向には、アテネの町並みと、アテネの外港となっているピレウスの町が見えます。


7d568cdc.jpg


ホテルを出たところは、野菜、果物の市場でした。


4ad19419.jpg


「アティナス通り」と、「中央市場」の建物。


9bc72407.jpg


「アティナス通り」の東側の市場は、肉と魚介類の市場になっています。
肉の市場には、豚や鳥がそのまま吊るされた屋台が並んでおり、ちょっとグロいです。


d111a6c0.jpg


「アティナス通り」を南に歩くと、「モナスティラキ広場」に出ます。


ffb33afc.jpg


「モナスティラキ広場」はアテネの遺跡への出発点。この辺りは旧市街で、古代アテネの遺跡が集まっています。

上の写真は「ハドリアヌスの図書館」。
古代ローマのフォルムのデザインに沿って作られた、この建物も、後にキリスト教の教会が作られました。
この日は既に閉館していたので、内部の見学は次の日に行いました。


e6c88b30.jpg


続いては、「ローマ時代のアゴラ」。
「ギリシア時代のアゴラ」が手狭になったために、その東に拡張されました。
このアゴラは、ユリウス・カエサルが建設を始め、初代皇帝アウグストゥスがBC12年からAD2年の間に完成させました。
写真は、アゴラの西側の門である「アテナ・アルケゲテス門」です。


7773b924.jpg


ここから、「アクロポリス」が良く見えました。


2f7e730f.jpg


「アクロポリス」は、まだ入場できそうでしたが、時間に追われそうだったので、見学は次の日に回し、「アレオパゴスの丘」へ行きました。
この丘からは「アクロポリス」が良く見えます。


48350859.jpg


丘の北側には、「ギリシア時代のアゴラ」(写真の左側)と、アテネの町並みが見渡せます。
右の端には「リカヴィトスの丘」も見えています。
アテネの絶景ポイントですが、手すりも無い岩山で、岩も滑りやすいので、ちょっと怖かったです。


96ebc1b1.jpg


半時計周りで、アクロポリスの南側に回って来ました。


787b908e.jpg


アクロポリスの南西にある、「イロド・アティコス音楽堂」。
161年に、ギリシア貴族でローマの元老院議員であったイロド・アティコスが、妻を偲んで建設した施設です。
1950年代に座席と舞台が改修され、現在もコンサート会場として使われています。


582dac33.jpg


アクロポリスには、西側と、南東の角に出入り口があります。
写真は南東の入り口から見たアクロポリス。


3700b25a.jpg


アクロポリスの南側で、親しげに話しかけるギリシア人と遭遇。
ジョージ(マイケル)と名乗り、観光の情報や、日本の話題を話してきて、しばらく会話を楽しみましたが、高そうなバーに入ろうとしたので断ると、最後は薬代をくれ(心臓が悪いとの話もしていた)、とか、帰りのタクシー代をくれとか、結局、物乞い(客引き?)でした。

イスタンブールでは絨毯屋の客引きと何度も会話を楽しみましたが、ギリシアの客引き(物乞い?)との会話は後味が悪く終わりました。
次の日も、この道で見かけたので、毎日ブラブラしてカモを探しているのでしょう。


d7a67ec8.jpg


ジョージ・マイケルとの会話で時間をつぶし、「ハドリアヌスの凱旋門」に着いた時は、日が傾いていました。
アテナイを訪れ、多くの公共建築物の再建に力を注いだローマ皇帝、ハドリアヌスの功績を称えて、アテナイ市民が建てたそうです。

この奥には「ゼウス神殿跡」がありますが、次の日に中の見学をしたので、紹介はその際にします。


b56cfbf5.jpg


ライトアップされた「シンタグマ広場」。


deebaa41.jpg


ホテルに戻り、屋上から見た、アクロポリスの夜景。
美しいですね。


fb1141a0.jpg


ピレウス港方向の夜景です。


964e9d26.jpg


「リカヴィトスの丘」もライトアップされていました。

初日の見学を終え、2日目に続きます。



シシィの愛した王都、ブタペスト訪問 その3

2018年11月24日~25日にブダペストに行って来ました。

11月25日(日)、ブタペスト散策の二日目です。


f5db2414.jpg


この日は朝から霧がかかっていました。
7:30の時点では、霧が濃く、景色は、ほとんど何も見えませんでした。


4bae76dc.jpg


8:40頃にようやく、国会議事堂が見えてきました。
折角、景観の良い部屋になったのに、この霧は少し残念ですが、霧のかかったドナウ川も、悪くは無いですね。


479f8866.jpg


「鎖橋」方向も霧がかかっています。


d511ba74.jpg


9時前にホテルを出て、「バッチャーニ駅」へ。
この日は地下鉄ではなく、ブダペスト郊外線(HEV)に乗りました。
この日も24h券を購入しました。


a19ac397.jpg


電車を降りたのは「アクインクム(Aquincum)駅」です。
ここまでは、24h券で乗ることができます。

この地は、古代ローマ時代は低パンノニア属州の州都アクインクムとして栄えました。
先ほどの駅名も、この地名から来ています。

なお、各駅のプラットフォームには自転車マークが書かれていました。
最初、何かと思いましたが、自転車を乗せることの車両の位置を表していました。
この印があると言うことは、車両の配置と停車位置が決まっているという事で、何も決まってないドイツの鉄道より便利ですね。(笑)


14bb931b.jpg


駅の横には、ローマ時代の劇場跡が残っています。


b0279983.jpg


ただし、この劇場は小ぶりのもの。

アクインクムは低パンノニア属州の州都として栄えていたため、「ティマール通り(Tímár utca)駅」の南西には「アンフィテアトルム(Amphitheatrum)」と呼ばれる大きな劇場跡も残っています。
ここにあった看板によれば、そこは、かつてローマ軍団の基地のあった所で、この劇場もローマのコロッセオより大きな劇場だったとのこと。
場所が良く判らず、今回は訪問しませんでしたが、行けばよかったです。


726af812.jpg


駅の南側には、ローマの遺跡を保存した「アクインクム博物館(Aquincum Museum)」があります。
開場は10時なので、今回はフェンス越しの見学のみです。


ca84747a.jpg


この遺跡は、一般市民の町の遺跡で、遺跡の中には大きな道が走っていました。


6b834c2a.jpg


ローマの柱も残っています。


82363960.jpg


街道(?)沿いの家の敷居には、扉の跡と思われる溝がありました。


152f472c.jpg


これが博物館の入り口です。


87308712.jpg


ローマ遺跡の見学を終え、ブダペストの町に戻ってきました。
東側から国会議事堂の建物を見学。


11a7b4c5.jpg


国会議事堂の南側の出入り口。


dffbb1ed.jpg


国会議事堂の前には、「1956年10月25日記念館(IN MEMORIAM 1956 October 25th)」があります。
1956年10月23日の学生や労働者のデモから始まる「ハンガリー動乱」において、25日に戦車を主体としたソ連軍が突如発砲し、多数の市民を殺傷した事件を悼んでいます。


42a96afc.jpg


記念館の内部では、当時の写真やビデオの展示が行われており、奥のスクリーンでは戦車が自分に転回してきて発砲してくるシーンを再現していました。


0eeb3815.jpg


「ドナウ川遊歩道の靴(Cipők a Duna-parton)」。
第二次世界大戦末のハンガリーは、親ナチス・ドイツの政党、「アロー・クロス・パーティー」が政権を握っていました。彼らは多くのユダヤ人を収容所に送りましたが、この一部が、ドナウ川の堤防で無惨に射殺されてました。
この堤防に並ぶ靴は、彼らを悼んで作られれました。


a0226bca.jpg


横にプレートには「To the memory of the victims shot into the Danube by Arrow Cross militiamen in 1944-45. Erected 16 April 2005」と書かれていました。


68412b52.jpg


ドナウ川の景色。
背景は「鎖橋」と「王宮」です。
この日は小雨が降り、天気が悪く、景色もイマイチでした。


b8275a89.jpg


ドナウ川から「聖イシュトバーン大聖堂」に向かう、「ズリーニ通り(Zrínyi u.)」。
昨夜はとても賑わっていましたが、日曜の朝は人通りもまばら。


0e35e353.jpg


「聖イシュトバーン大聖堂」。



c5ed71ba.jpg


「シシィの愛した王都」とタイトルに書いたのに、これまでシシィの名前を書いたのは「マーチャーシュ聖堂」のみ。
記事の内容がタイトルがあっていませんが、お土産屋を覗いても、思ったほどシシィが出ていません。

ようやく紹介するのは、シシィが愛したカフェ「カフェ・ジェルボー(Café Gerbeaud)」 です。
ヴェレシュマルティ広場(Vörösmarty tér)にあるカフェは、1858年創業(この広場に移ったのは1870年)の老舗。


951f7f6e.jpg


ヴェレシュマルティ広場も、クリスマス市場で賑わっていました。

なお、この広場にある「ヴェレシュマルティ広場駅」から、地下鉄1号線が伸びていますが、この地下鉄は1896年の「「1000年記念祭博覧会」に合わせて開業しました。
地下鉄としては世界で三番目の開業、電気運転の地下鉄としては世界初の地下鉄だそうです。


769e0947.jpg


広場にある「ライオンの泉(Oroszlános kút)」。



c54c0383.jpg


 高級店の並ぶ、デアーク ・フェレンツ通り(Deák Ferenc u.)には、クリスマスの黄金の「X」のモニュメントが建っていました。


adeb7002.jpg


また、通りには、トナカイにひかれた、メルセデス・ベンツのピックアップトラックがプレゼントを満載して飾られていました。
メルセデスの「X」シリーズは、ここで初めて見ました。


8507e314.jpg


ブダペストのお店は日曜日でも営業していました。
日曜も買い物ができて、うらやましいです。


a454a75a.jpg


飛行機の時間まで余裕があったのでシナゴークに行ってみましたが、改装中で閉館されていました。
ブダペストにはヨーロッパ最大のシナゴークがあるとの事を知り、グーグルで位置を調べて、「ルンバッハ通りのシナゴーク(Rumbach zsinagóga)」に行ったのですが、ヨーロッパ最大のシナゴークは「ドハーニ通りのシナゴーグ(Dohány utcai Zsinagóga)」のようです。
事前確認不足です。


a2e68dfe.jpg


シナゴークの向かいには、シシィの顔を描いたフレスコ画が描かれていました。
ここ、ブダペストの第7区は「エルジェーベトヴァローズ(Erzsébetváros)」との別名を持ち、その地区にあるお店(?)の看板のようです。
エルジェーベトヴァローズとはハンガリー語で、エリザベート・タウンの意味で、オーストリア=ハンガリー帝国時代の1882年に皇妃エリザベート(シシィ)にちなんで命名されました。

この他にも、ブダペストにはシシィにちなんだ名前を持つ場所がいくつかあります。
まずは、デアーク・フェレンツ駅のそばにある、「エルジェーベト公園(Erzsébet tér.)」があります。
ペスト地区の中心にあり、今回の旅行でも何度も歩いたのですが、なぜか写真を撮り忘れました。

続いて、「鎖橋」の南に架かる「エルジェーベト橋(Erzsébet híd)」。
現在の橋は二本目の物で、最初の橋は「鎖橋」と同じ構造のチェーン吊橋として、1898年に建造が開始され、1903年に完成しました。しかし、第二次世界大戦で破壊され、現在の橋に架け変わりました。

また、「エルジェーベト橋」を調べていて知りましたが、ブダ側の橋の麓にある「ドブレンテイ広場(Döbrentei tér)」には、シシィ像があるそうです。
ホテルから、それほど遠くないので、知っていれば行ったのですが、残念。

更に、シシィ関係の場所として、ブダペストの北西、約30kmの郊外に「ゲデレー宮殿」があります。
この宮殿は、ハンガリー政府から、ハンガリー王フランツ・ヨーゼフ、王妃エリザベート(シシィ)夫妻に寄贈され、特にシシィは好んで滞在したそうです。
ブダペスト郊外線(HEV)で行けるようですが、今回は時間の都合で訪問しませんでした。


46ae018a.jpg


シナゴークから一旦ホテルに戻って、預けた荷物を受け取り、ドナウ川に戻ってきました。
(今回は歩く前提で、キャリバックではなくバックパックで来ていました。)

今回は、先ほど来た「ヴェレシュマルティ広場」に近い、川沿いの「ドナウ・プロムナード(Dunakorzó)」に来ました。
ここからは、「王宮」を南東側から一望することができます。


28b7eb3c.jpg


川沿いにあったモニュメント。
László Marton (1925年ー2008年)による、「Kiskiralylany(Little Princess)の像」です。
彼の最初の娘をイメージした像との事ですが、この像を見たときは男の子の像と思っていました。(笑)


e880979a.jpg


「エルジェーベト橋(Erzsébet híd)」と、その奥には、ブダ市街の南側にある「ゲッレールト山(Gellérthegy)」があります。
「ゲッレールト山」の山頂からは、ブダペスト市街を一望でき、更にハプスブルグ家が1848年から1849年にかけて作った、ツィタデッラ(要塞)もあります。


ea2882e7.jpg


「ドナウ・プロムナード」に裏にある建物、「ヴィガドー(Vigadó)」。
最初に作られた建物は、1829年から1833年に社交場として建築されました。
ヨハンシュトラウス父子も、ここで演奏を行ったそうです。

この建物も、第二次世界大戦で破壊され、戦後に再建されました。


bb4d90d1.jpg


「ヴィガドー」の前にある「ヴィガドー公園(Vigadó tér)」のごみ箱には、なぜかジーパンが捨てられていました。
一体、ここで何が起こったのでしょうか?
このジーパンを履いていた人は、この後、どうしたのでしょうか?(笑)


baeaa543.jpg


12:40に、「ヴェレシュマルティ広場」に戻って、クリスマスの屋台で昼食を取りました。


67f11f36.jpg


今回食べたのは「ランゴス(Lángos)」。
ハンガリーの庶民の料理で、揚げたパンの上に、様々な具材を乗せた、ピザのような食べ物です。


b767d72c.jpg


13時に「デアーク・フェレンツ駅」から、バスに乗って空港に向かいました。
帰りも、24H券の使える、地下鉄3号線の代替バス+「200E」バスで空港に戻りました。
写真は空港の端にあった、ハンガリー航空の昔の飛行機を保管している博物館(?)。

14時に空港に着き、16:30発の飛行機でミュンヘンに戻りました。


シシィの愛したハンガリー王国の王都、ブダペスト。
その美しい街並みは「ドナウ川の真珠」と呼ばれています。

今回は冬の旅なので、天気および風景は期待していませんでしたが、この街を回るのに2日(実質1日半)は短かすぎました。
「ゲッレールト山」や「ゲデレー宮殿」も行ってみたかったです。
(もう少し計画的に回れば、回れた気もしますが。)

できれば春から夏に、もう一度来たいですね。

終わり。


シシィの愛した王都、ブタペスト訪問 その2

2018年11月24日~25日にブダペストに行って来ました。

ブダの町の散策の続きです。
この時、時刻は11:30になっていました。


ac0b795e.jpg


 タンジチュ・ミハリ通り(Táncsics Mihály u.)から南側の城壁に、入ってきた道。
城壁沿いの家々は、各自の庭をもっており裕福な人が住んでいる(いた?)ようです。


66eab31c.jpg


かつてここには、1461年に建てられたシナゴークが建っていたそうですが、1686年のオスマン・トルコからの解放戦の際に破壊されたそうです。


ccf74f20.jpg


ブダの北側にある「ウィーン門(Bécsi kapu)」。
門の上から、城外を見ています。

なお、この道を下ると、地下鉄2号線の「シェルカルマン広場(Széll Kálmán tér)駅」に行きます。


b41dfe08.jpg


門の上から城内を見ると、目の前に「ブダ城福音教会(Budavári Evangélikus Templom)」が建っています。


7e8eddd0.jpg


城外から見た「ウィーン門」。


323d3706.jpg


「ウィーン門」の西側の城壁。
城壁防御の塔が建っています。


6e4ce15f.jpg


「ウィーン門」、東側の城壁。

ここに立つ像は、ポーランド女王 ヤドヴィガ(Jadwiga)(在位:1384年-1399年)と、その夫であるポーランド王、ハヨガイラ(Jogaila)(在位:1386年–1434年)のもの。
ヤドヴィガ(ハンガリー名はヘドヴィグ(Hedvig))は、ハンガリー王・ポーランド王ラヨシュ1世の末娘で、ブダに生まれ育ったことからブダの市民にも親しまれているのでしょうね。
なお、彼女は、1997年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されたそうです。

ちなみに彼女の父、ラヨシュ1世(在位:1342年-1382年)は、ハンガリー王国の領土の拡大を行った人で、その際、ヴェネチア共和国からダルマチアを奪取しました。(1408年にはヴェネチアが再奪取しています。)


9b42bc18.jpg


ウィーン門の横の大きな建物は「ハンガリー国立公文書館(Magyar Nemzeti Levéltár)」です。


694a317f.jpg


ウィーン門から南西に進むと、「マグダラのマリアの塔(Mária Magdolna Torony)」があります。
元は1244年に、当時まだマイノリティだったハンガリー人の教会として建てられ、15世紀末には3身廊の教会に拡張されました。
第二次世界大戦末に大きなダメージを受け、その後教会部分は破却され、鐘楼だけが残りました。
現在は「ブダの塔」とも呼ばれているようです。


6a124c42.jpg


教会跡に飾ってあったブロンズのプレート。
教会の遺物かと思いましたが、1031年に作られた戴冠式のマントをブロンズでコピーしたものとの事。
マント全体にキリスト教の聖人がびっしりと描かれていました。


edeeca56.jpg


ブダの城郭の北西の角にある、「軍事歴史博物館(Hadtörténeti Múzeum)」。
閉館中かと思いましたが、入り口は建物の西側にあるようです。


2e0b6116.jpg


博物館の前には、ソ連のT-34/85が置かれていました。
攻守ともにバランスの取れた、第二次世界大戦中のベスト戦車(および格好良い)のひとつ。


51119dab.jpg


「軍事歴史博物館」の西側で中央部分に入り口があります。
開いているようでしたが、見学はしませんでした。


d0595a30.jpg


ブダの城壁の北西の角にある丸い稜堡。
稜堡と言うより、中世時代の丸塔のようですが、大きくて低いです。


4226ab30.jpg


城外から見た稜堡部分。


56331d87.jpg


ブダの町の南側の城壁。


3cbcfbf9.jpg


直線の城壁を守るために、丸い稜堡(中世の防御塔を低くしたものと思われます)が作られています。


54199817.jpg


ブダの王宮そばの城郭部分。
ブダの王宮は、19世紀半ばの火災と、その後の第一次世界大戦、第二次世界大戦で大規模な被害を受けました。王宮は20世紀半ばに再び修復されましたが、まだ修復されていない部分も残っていました。


2ce8da79.jpg


この部分は要塞?それともかつての建物の土台???


d4d3c62a.jpg


王宮手前の広場。
この辺りで、雨が少し降って来ましたが、体が濡れると非常に寒い!


7da5d308.jpg


王宮の北側にある、「シャーンドル宮殿(Sándor-palota)」。
現在は州政府の事務所として使われてるようです。




宮殿の前には衛兵が警護していました。


4cbd63a8.jpg


宮殿は、ここからドナウ川河畔まで、ケーブルカーで結ばれています。

前のドナウ川に架かっているのは「鎖橋」です。


e8c71b4c.jpg


王宮の西にある、「”釣りの少年”の泉("A Halászó fiú" szökőkút)」。


45ee3bbf.jpg


これが王宮の正面です。
古くから、この地に城があったようですが、14世紀にラヨシュ1世によりゴシック様式の王宮に改造され、17世紀にオスマン帝国軍の攻撃で破壊されました。
18世紀にハプスブルク家により再建され、その後、バロック様式へ改造されました。
19世紀半ばに発生した火災と、その後の第一次世界大戦、第二次世界大戦で大規模な被害を受け、現在の建物は20世紀半ばに再建されました。

なお、王宮の前に建つのは「プリンツ・オイゲン(オイゲン・フォン・ザヴォイエン)公の騎馬像」。
サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族ですが、ハプスブルグ家の軍人として活躍(しかも大半を祖国フランス相手の戦いで)しました。
彼の軍歴は、1683年のオスマン帝国の第二次ウィーン包囲に始まった大トルコ戦争からで、ハンガリー戦線で活躍しました。

なお、この時、あまりの寒さに体の芯まで冷えてしまい、一旦建物の中に退避して暖を取りました。(笑)
現在この建物は、「ハンガリー国立美術館(Magyar Nemzeti Galéria)」として使われていますが、美術館の見学はしませんでした。


7b90e052.jpg


「プリンツ・オイゲン公の騎馬像」の建つテラスから見たブダペスト市街。
ドナウ川と国会議事堂、鎖橋が見えています。
天気が良ければ、絶景なのでしょうが、中央ヨーロッパの冬の旅では、晴天は期待できませんね。


5664abc8.jpg


王宮前から、ドナウ川に下る道。
ケーブルカーができる前の、川からのアクセス道路で、つづら折りの道を、いくつかの城門で防御されていました。
城門を見て無視する事も出来ず(笑)、この道を下まで歩いて、再び戻って来ました。(笑)
その道は、いつか、攻城記で紹介したいです。(いつになることやら?)


187146a2.jpg


ブダ城の南西角にある「メイス・タワー(Buzogánytorony)」と城門。
メイスって鎚矛の事でしょうが、塔の名前になるなんて、どのような謂れがあるのでしょうか?


d668f152.jpg


王宮の北西には、かつて「聖マリアと聖ジギスムントを祀った王家の礼拝堂」が建っていました。
この礼拝堂は1410年に建てられ、1767年に破却されました。

ここから、マーチューシャ教会まで歩いて戻り、そこからバスに乗って、地下鉄2号線の「シェルカルマン広場駅」に移動しました。
そこから地下鉄で、「英雄広場(Hősök tere)」へ移動。


9c818147.jpg


広場の東に建つ、「ブダペスト現代美術館(Műcsarnok)」。
ネオ・クラシック様式の建物ですが、ビザンツ風の装飾の建物です。


32bbff74.jpg


これが、「英雄広場(Hősök tere)」です。
中央の柱の上には、聖イシュトヴァーンの王冠と大主教十字を持つ大天使ガブリエルの像が立っています。

この広場は、1896年にマジャール人がカルパチア盆地に定住して1000年を記念して行われた「1000年記念祭博覧会」のメイン・エントランスとして作られたそうです。


db139ff1.jpg


広場の周りには、歴代ハンガリー王の像が並んでいます。
写真の一番左の人が初代ハンガリー王のイシュトバーンの像です。

オーストリア=ハンガリー帝国時代の建設当時は、ハプスブルグ家の像(マリア・テレジアやフランツ・ヨーゼフ1世など)も置かれましたが、第二次世界大戦後に今の像に置き換えられたそうです。


da0e08dd.jpg


柱の下には英雄たちの像が立っています。


b6083393.jpg


広場の西側にある、「ブダペスト国立西洋美術館(Szépművészeti Múzeum)」。
こちらは、典型的なネオ・クラシック様式の建物。


de775fc3.jpg


広場の手前では、コンサートの準備がすすんでいました。
「STING&SHAGGY」との事で、別の看板には、あのSTINGの写真がありました。
それにしても、こんなオープン・スペースで、もしかして無料コンサート???


f1a16051.jpg


広場から北東に延びる、コス・カーロリ通り(Kós Károly sétány)を進むと、右手にアイススケート場がありました。


67acee2a.jpg


更に進むと「ヴァイダフニャディ城(Vajdahunyad vára)」が見えてきました。
この城も、1896年の「1000年記念祭博覧会」で建てられたそうです。


bd7a7db0.jpg


城の入り口。
防衛拠点としては疑問のある構造ですが、博覧会で作られたにしては、なかなか立派な造りです。


975cceaa.jpg


城のメインの建物。
「農業博物館(Mezőgazdasági Múzeum)」となっています。


12721148.jpg


市民公園の中にある「セーチェニ浴場(Széchenyi Gyógyfürdő)」。


51183e76.jpg


浴場の入り口ですが、中も立派。
暖かい温泉に、非常に心が惹かれました!


69a7ea79.jpg


「英雄広場」から地下鉄で「デアーク・フェレンツ駅」に戻り、「聖イシュトヴァーン大聖堂(Szent István Bazilika)」の前の広場を訪問。
広場はクリスマス市場で賑わっていました。

ここで、一旦ホテルに戻りました。


478c69fe.jpg


今回のホテルはドナウ川沿いにあり、部屋からドナウ川が見えます。
部屋の目の前には、ライトアップされた「国会議事堂」が見えました。


c3428132.jpg


同じく、部屋から見た「鎖橋」。


be357477.jpg


更に、エレベータ横の窓からは、ライトアップされた「漁夫の砦」と「マーチャーシュ聖堂」が見えました。


79d516b1.jpg


再び、ホテルを出て、ドナウ川を渡り、ブダの夜景見学に出ました。
「鎖橋」横から見た、「ブダの王宮」です。


fc6a0b77.jpg


「鎖橋」と「王宮」。


95591959.jpg


ドナウ川の夜景です。


8e50fd09.jpg


鎖橋の横にある、「フォーシーズンズホテル」も綺麗にライトアップされていました。


95d7284c.jpg


「聖イシュトバーン大聖堂」に向かう通りにあったレストランで夕飯を食べました。
ハンガリー料理でしたが、名前は忘れました。(笑)

ブダペストの初日は終わりです。

二日目に続きます。





シシィの愛した王都、ブダペスト訪問 その1

2018年11月24日~25日にブダペストに行って来ました。

この地は、古代ローマ時代は低パンノニア属州の州都アクインクムとして栄えました。
古代ローマ崩壊後は神聖ローマ帝国の支配を受ける中、9世紀頃からハンガリー人が定住を始め、徐々に力をつけていき、1000年にイシュトヴァーンによりハンガリー王国が設立されました。
ハンガリー王国は、その後300年以上繁栄しましたが、14世紀から15世紀にかけてバルカン地方から勢力を拡大するオスマン帝国の圧迫を受け続けました。
1529年のオスマン帝国による第一次ウィーン包囲の際に、王国領土の大半を占領され、1683年の第二次ウィーン包囲後の、大トルコ戦争の集結まで、オスマン帝国の支配を受けました。
大トルコ戦争後の1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約により、オスマン帝国の支配を逃れたものの、続いてハプスブルク家の支配を受ける事になりました。

19世紀の中盤にハプスブルク帝国のヨーロッパでの影響力が低下し始めると、ハンガリーでも独立の機運が高まり、独立運動が活発になりました。
それを危惧したオーストリア帝国皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世は、1867年にハンガリー王国の国王を兼ねることで、オーストリア=ハンガリー帝国を成立させました。
ハンガリーを愛し(オーストリア皇室への反発もある)、オーストリア=ハンガリー帝国の設立に尽力したのが、皇妃エリザベト(通称シシィ)です。

長くなりましたが、そのシシィの愛したハンガリー王国の王都、ブダペスト訪問記を始めます。


d14afb2d.jpg


7:15にミュンヘン空港を飛び立ち、8:30にブダペストに到着。
写真は飛行機から見たブダペスト郊外の写真ですが、住宅が広がっていました。


d992012b.jpg


ブダペストの空港から市内に行く公共機関は、「200Eバス+地下鉄3号線」と「100E」バスがあります。
「200Eバス+地下鉄3号線」は、ブダペスト市内交通の「24h券」または「72h券」で乗る事ができ、一番格安で利用できます。

「100E」バスは空港から市内まで直交でき便利ですが、別途900Ft(約450円)のチケットの購入が必要です。

私は市内までの移動に「200Eバス」を利用しました。
チケットは空港のツーリスト・インフォメーションで販売しており、私は「24h」チケットを購入しました。
車両は新しく(上の写真)、綺麗でした。


809565f4.jpg


バスから見た景色ですが、東欧を思わせるレトロ(古い)な雰囲気を持つ工場が続いていました。


42ba72ec.jpg


 「ケーバーニャ・キシュペシュト駅(Kőbánya-Kispest)駅」でバスから地下鉄に乗り換えますが、地下鉄3号線(M3)は工事中で、代替バスが運行していました。


7d80ab69.jpg


町の周囲には住宅街が広がっていました。
アパート等の建物も古さを感じさせ、東欧を感じました。


1cf73e61.jpg


ようやくハンガリー王国の王都らしい建物が見えてきました。


ee3ed877.jpg


代替バスは地下鉄以上に停留所が多く、市内の「デアーク・フェレンツ(Deák Ferenc)駅」まで35分かかりました。「100E」で直行しても良かった気がします。
この時時刻は9:50になっていました。

正面に見える丸い屋根の建物はルーテル派教会博物館。

また、手前に停まった路面電車がクラシカルです。


52c63172.jpg


これが地下鉄の駅。
地下の照明や、エスカレータ等も古さを感じ、ここでも東欧の雰囲気が漂います。
ただ、町全体で怖い雰囲気は全く感じませんでした。

なお、「地下鉄3号線」は全線閉鎖されていました。


3e0180e2.jpg


地下鉄2号線(M2) に乗って、「バッチャーニ(Batthyány)駅」に移動。


51d4573b.jpg


「バッチャーニ駅」で電車を降り、地上に上がると、目の前に歴史を感じる建物がありました。
どのような歴史を持った建物かは判りませんが、今はスーパーのSPARが入っていました。


9f09c9d3.jpg


バッチャーニ広場の南側に建つ、「聖アンナ教会(Szent Anna templom)」。


cbd7279d.jpg


目の前にはドナウ川が流れ、対岸には「国会議事堂(Országház)」が建っています。
1885年から1902年にかけて作られたネオゴシック様式の建物はとても立派で迫力があります。


cd72be68.jpg


ドナウ川の風景。
正面に見える橋は、「鎖橋(Széchenyi Lánchíd)」。


64d34eff.jpg


ドナウ川沿いを少し南に歩くと、「改革派教会(Szilágyi Dezső téri református templom)」が、赤い建物で目立っていました。


43141f33.jpg


「円満(Ennmann) 」という名の日本食レストランがありました。
今回泊まるホテルは、この先にある「アートテル・ブダペスト(art'otel budapest)」です。
チェックインには、まだ早かったので、荷物を預けて散策に出ました。


84b76eb0.jpg


まずはドナウ西岸(ブダの町)の丘の上に建つ王宮に向かいました。
ちょうどホテル裏(西側)にある「コルヴィン広場(Corvin tér)」に建っていた立派な建物。
カルチャーセンタ―になっているようです。


0da29f8e.jpg


「コルヴィン広場」から、階段で丘を登りました。


23acf025.jpg


ドナウ川の西岸には丘が広がっており、その頂上部分に約1.5kmに渡って城塞都市が広がっています。
丘の上に細長い城塞都市がある構造は、プラハの王宮を思い出しました。
上の写真は町の中央部分にある、「漁夫の砦(Halászbástya)」と、「マーチャーシュ聖堂(Mátyás Templom)」。

「漁夫の砦」は1905年に作られた、円錐の屋根を持つ5つの塔ので出来た、城のようなテラスです。
かつてこの地に魚市場があり、また城塞のこの部分を漁業組合が守っていた事から、この名前が付いたそうです。


87f23222.jpg


「漁夫の砦」に建つ兵士の像。


222173d8.jpg


そこに建つ、「聖イシュトヴァーンの騎馬像(Szent István szobra)」。
父の死を受けて997年に大首長となったイシュトバーンは、各地に軍事遠征を行ってハンガリーの統一を進め、1000年12月25日に、ローマ教皇より冠を授かり、ハンガリー王国の初代の王(王名:イシュトヴァーン1世)となりました。


5583cdfe.jpg


「漁夫の砦」からはブダペストの町並みを一望できます。
天気が良ければ、もっと綺麗だったのでしょうね。


17fa4cd2.jpg


「マーチャーシュ聖堂」と「聖イシュトバーンの騎馬像」。


d8c8e759.jpg


教会側から見た「漁夫の砦」の南半分。


49c70473.jpg


「マーチャーシュ聖堂」に入りました。
上の写真は祭壇です。

この教会は、13世紀半ばに、ベーラ4世によってゴシック様式の「聖母マリア聖堂」として建てられましたが、1479年に増築を命じたマーチャーシュ1世の名で今日まで広く呼ばれるようになりました。
その後オスマン帝国の支配期にはモスクとされ、19世紀末になってようやくゴシック様式の今の姿に改装されました。


64304353.jpg


長くイスラムの支配を受けたせいか、教会内部の装飾は西欧の物とは異なり独特です。


e120bc86.jpg


宝物館にあった展示物。

  左:15世紀作の聖杯
  右:マーチャーシュ昇階曲:15世紀に書かれた楽譜の複製。


ae6bce33.jpg


宝物館から中二階に移動し、祭壇を見下ろします。


8870dd0b.jpg


中二階テラスのライオン像。


394698ed.jpg


階段を上ると、シシィ像が現れました。
フランツ・ヨーゼフ1世とシシィが戴冠式を挙げたのが、マーチャーシュ教会で、シシィはその後も何度も訪れたようです。
また、後ろのステンドグラスも西欧のものとは異なるデザインで美しいです。


8c7e1675.jpg

30

細かく装飾されたゴシック式の柱が美しい。


b539c583.jpg


最後部(最前部と言うのかな?)から見た教会全体。
大きな教会です。


27987300.jpg


「ロレット礼拝堂(Loretto Chapel)」
大トルコ戦争で、キリスト教軍によるブダ包囲戦の際、モスクに改装された教会内でトルコ兵士が祈りを捧げていたところに、キリスト軍の大砲の砲弾が命中。砲撃で壊れた壁の中からマリア像が現れ、トルコ兵士の士気が落ちブダは陥落したと言われているそうです。
左の聖母子像が、その像と思いましたが、看板の写真と異なる気がします。


3d87adc2.jpg


「ベーラ礼拝堂(Bella Chapel)」
ハンガリー王ベーラ3世(在位:1172年-1196年)と、その最初の王妃アンナ・シャティヨンが、ここに埋葬されています。


a3b57b1c.jpg


教会の側面です。
正面の壁面の上部に回廊が見えますが、今は宝物館になっている場所です。
右手に見える、説教壇も独特のデザインです。


fc425c37.jpg


三位一体広場(Szentháromság tér)に立つ、「三位一体の像(Szentháromság-szobor)」。
この像は、18世紀に大流行したペストの終息を記念して建てられました。


68b067f0.jpg


マーチャーシュ聖堂の正面ファサード。


196b2632.jpg


マーチャーシュ聖堂の北面。
屋根のダイヤモンド模様の瓦は、19世紀末に再建された際に、新たに加えられた、ハンガリーの代表的な窯元の一つであるジョルナイ製の瓦屋根。


b4b82dec.jpg


同じく「三位一体広場」。


7b5cafbd.jpg


「漁夫の砦」の北側の部分。


ee0e4131.jpg


「漁夫の砦」から見たブダペスト市街。


7f5c069c.jpg


同じく、「漁夫の砦」とブダペストの城壁です。


95e8a351.jpg


「音楽史博物館(Zenetörténeti Múzeum)」。


d9f02c96.jpg


 タンジチュ・ミハリ通り(Táncsics Mihály u.)から見た「マーチャーシュ聖堂」。

ブダの城塞内の散策は続きます。

その2に続く


ロンドン訪問 三日目

2018年10月27日~30日に仕事絡みでイギリスに出張に行った際、その前後でロンドンを観光しました。

10月29日(月)は終日仕事を行い、夜に日本からの出張者と共にロンドンに戻り、ロンドンで宿泊。

30日(火)、日本からの出張者は夜の便で日本に帰るので、昼過ぎにミュンヘンに帰る私は、朝から別行動をとりました。


685b173d.jpg


ホテルをチェックアウト後荷物をフロントに預けて、地下鉄に乗ってピカデリー・サーカスに来ました。
昨夜は、この近くで夕食を食べましたが、その時は非常に混雑していたロンドン一の繁華街も、朝の9時は通勤客が歩いているだけでした。

この後、ピカデリー・サーカスから南に向かって歩きました。


ea3755df.jpg


近衛兵・クリミア戦争記念碑(Guards Crimean War Memorial)。
1853年から1856年に発生したクリミア戦争の勝利を記念して1861年に作られた記念碑です。


47b4acda.jpg


三人の近衛兵が、栄誉を象徴する女性像と共に建っています。


fd5c39ef.jpg


広場に建つ、アテナエウム(The Athenaeum)。
メンバー制のソーシャルクラブの建物のようです。


cf18784a.jpg


建物のファサードには、クラブの名前の元となった、黄金のアテナ像が立っていました。


64845628.jpg


エドワード7世(Edward VI)(在位:1901年 - 1910年)の騎馬像。


d8e754d0.jpg


ヨーク公記念碑(Duke of York Column)。
ヨーク公も英国の称号で、国王の次男に受け継がれてきたようです。
この像の主は、イギリス国王ジョージ3世の次男、フレデリック・オーガスタス(Frederick Augustus)(1763年-1827年)です。

実は、当日はエドワード7世の騎馬像のあった場所をトラファルガー広場と勘違いしており、この碑もネルソン提督の物と勘違いしていました。


b731cc3c.jpg


王立砲兵部隊の記念碑(Royal Artillery Memorial)。
南アフリカ戦争(第二次ボーア戦争)(1899年―1902年)を記念して1910年に建てられました。


56bd024d.jpg


ザ・マル(The Mall)通り。
長い直線の通りの先には、バッキングガム宮殿があります。


337198a4.jpg


ホース・ガーズ・パレード(Horse Guards Parade)と呼ばれる広場。
奥の建物は近衛師団のもので、この広場で近衛騎兵隊の調練やパレードが行われていました。

日本語で近衛師団や近衛騎兵隊と書きましたが、英文では師団は「Household Division」、各部隊は「Guards」と使い分けており、意味に違いがあるのでしょうかね。


03f4ea5f.jpg


セント・ジェームズ・パーク(St James's Park)側に立つ碑は、第一次世界大戦で戦った近衛師団の兵士の記念碑。


f4b11b7a.jpg


近衛騎兵隊博物館(The Household Cavalry Museum)です。


cb020ee1.jpg


近衛師団の建物東側は、近衛兵が警備していました。


d0a4816a.jpg


近衛師団の建物の東側にある、英国防省の建物。
私は気付きませんでしたが、この国防省のビルの北東の角には、王立戦車連隊の記念碑として、ボービントン戦車博物館の前に建っていた、コメット戦車のクルーの碑と同じものが立っているようです。

テムズ川に出た後、エンバンクメント駅から地下鉄に乗って、タワーヒル(Tower Hill)駅に移動しました。


399eea11.jpg


タワーヒル駅を出ると、目の前にロンドン塔(Tower of London)が見えます。


382e4c08.jpg


タワーヒル通りをくぐった所にあった、タワーヒル・ゲート跡。
中世時代、ここにはロンドン市の門がありました。


9f5f3322.jpg


ロンドン塔への入り口となるミドル・タワー(Middle Tower)。

この時10:20になっており、ここまでの散策に時間をかけ過ぎました。
残り時間を気にしつつ入城しました。


5b2299b1.jpg


ロンドン塔はウィリアムズ征服王が11世紀末にロンドンの東の守りの為の要塞として造られましたが、後に王宮も兼ねるようになり、当時は造幣局も置かれていました。
写真はそこで作ったコイン。

  左上: エドワード1世のグロート・コイン(1279年)
  右上: エリザベス1世のシリング・コイン(1560年)
  左下: チャールズ2世のペティション・クラウン・コイン(1663年)
  右下: ジョージ3世のギニア・コイン(1798年)


9b222294.jpg


権力を守るために、多くの城塞には血塗られた歴史があるものですが、ロンドン塔にはブラッディ・タワー(血塗られた塔)(Bloody Tower)と呼ばれる塔があります。
この塔は、ロンドン塔の中心部に入る主要な門で、かつてはガーデン・タワーと呼ばれていたそうです。

1483年の英国王エドワード4世の死後、息子のエドワード5世が王位を継ぎましたが、数か月で叔父が王位を簒奪し、リチャード3世となりました。
その際にエドワード5世と、弟のヨーク公リチャードが、この塔に幽閉されましたが、すぐに行方不明となりました。
その後、彼らが殺されたとの噂が広まり、ブラッディ―・タワーと呼ばれるようになったそうです。


dc2d7faa.jpg


1230年頃にヘンリー3世が王宮の強化のために築いた城壁跡。
手前には、彼の築いたコールドハーバー・ゲートの跡も残っていました。


efe111c3.jpg


ロンドン塔城内の南側には、城内の他の建物とは趣が異なる「王妃の館(Queen's House)」と呼ばれる建物があります。
民家風の、この建物は、1530年頃にヘンリー8世が王妃の為に建てました。
ヘンリー8世も、ロンドン塔の血塗られた歴史の創造者の一人で、この館に最初に住んだと思われる、彼の二番目の妻、アン・ブーリンは王の寵愛を失い姦通罪(冤罪と考えられている)でロンドン塔に幽閉され、ここで処刑されました。


85ffc4c8.jpg


今は、王家の人は住んでいないと思いますが、建物は近衛兵によって守られています。


f27a7d1d.jpg


城内北側にある、「王室宝物館(The Crown Jewels)」。
世界最大のダイヤモンド「偉大なアフリカの星」など、王室の宝物を展示しています。


8c8d69c3.jpg


宝物館の前も、近衛兵によって守られています。


90afd31d.jpg


城内にはビーフィーターと呼ばれる衛兵がいます。
正式な名称は、ヨーマン・ウォーダーズ (The Yeomen Warders)で、現在は英軍人の名誉職となっており、観光案内等を行っています。


3fb7e6f5.jpg


ロンドン塔の天守閣となる、ホワイト・タワー(White Tower)。
1066年にイングランドを征服したウィリアム征服王が、1078年にロンドンを外敵から守るための要塞の建築を命じ、このホワイト・タワーが完成しました。


182306bf.jpg


17世紀前半頃に、聖ヨハネ騎士団(=ロードス騎士団、=マルタ騎士団)によって作られた24ポンド砲。
19世紀の初めにマルタから英国に運ばれました。


37d920b0.jpg


ホワイト・タワー内部は武具の博物館になっています。


3322618b.jpg


左から、「ヘンリー王子の甲冑」「チャールズ1世の甲冑」「チャールズ2世の甲冑」。


fd344193.jpg


「チャンバー(The Chamber)」は、この建物の中で、最も重要な部屋。
暖炉とトイレも設置されており、国王がロンドン塔に滞在時は、ここに居住し、王の不在時は塔の管理者が居住したと思われます。


3b7861fb.jpg


  左:ノルマン時代の暖炉
  右:ノルマン時代のトイレ
    (下に落とすだけです。笑)


4ed96ee5.jpg


「聖ジョン(ヨハネ)礼拝堂」


c99ee2e2.jpg


ホワイト・タワーは王室の武器工廠も兼ねており、ここで作られた各時代の武具が展示されています。
写真は、エリザベス1世の時代に作られた甲冑です。


7061e23c.jpg


この甲冑は日英通称条約の合意を受けて、1613年に徳川秀忠からジェームス1世に送られたものだそうです。
解説によれば、恐らく武田勝頼が所有していた甲冑との事。
数奇な運命で、今、ここに展示されているのですね。


ddfaa268.jpg


ドイツ式の甲冑。
騎士トーナメントの大槍から身を守る、左胸の巨大なプレートが目立ちます。


9f006a44.jpg


武具で作ったドラゴンのモニュメント。


8d844b30.jpg


上の階は、武具について体験式に学べるフロアーになっており、この日も多くの子供たちが楽しんでいました。


e7141938.jpg


見学の最後は地階の武器庫です。
基本的に、ここには実戦に備えた武器を保管していましたが、一部古い武器や記念品も、ここで保管していました。


bf044ac0.jpg


サンマルコの像も飾られていました。
これは、ヴェネチア共和国がナポレオンに敗れた後、ヴェネチア領だったコルフ島から1809年に英国が持ち去ったものだそうです。
いつもはサンマルコの像を見つけた時は嬉しいのですが、この時はとても悔しい気分でした。(笑)

ホワイト・タワーの見学はこれで終わりですが、時間は既に12時になっており、当初空港に向かおうと考えていた時間でした。

しかし、最後に駆け足で城壁沿いの塔の見学をしました。


ad4dfc48.jpg


ブラッディ―・タワー内にあった、門の落とし格子。


44b48225.jpg


城壁の上を、素早く一周する予定でしたが、ルートが複雑(複数部分に分割されていた)で、おまけに混んでいたので時間がかかりました。


6a942258.jpg


ロンドン塔の南側のテムズ川に面した城壁にある、聖トーマスの塔(St.Thomas's Tower)の内部。
この部分は、ヘンリー3世(1216年-1272年)や、エドワード1世(1272年-1307年)が作り、居住した部屋です。


dcf9c0d9.jpg


王の居室。
現在の部屋は1294年にエドワード1世が滞在した時の状態を再現したそうです。


b7e9febc.jpg


ここは、王の執務室でしょうか?


0b0d391c.jpg


先の部屋には、謁見用の玉座(右の写真)と、小さな礼拝所(右の写真)がありました。


dbe6e3c4.jpg



ウェークフィールド・タワー(Wakefield Tower)と、ランタン・タワー(Lanthorn Tower)の間の城壁上から見た、巡洋艦ベルファスト(HMS Belfast)記念艦。


870da73b.jpg


テムス側に開いた、ミドル・ドローブリッジ(Middle Drawbridge)から退場しました。


a7579046.jpg


聖トーマスの塔に付属した、「裏切者の門(Traitor's Gate)」。
囚人専用の門で、ここから入った者は二度と出る事ができないと言われていましたが、女王メアリー1世の義妹のエリザベスは反乱の嫌疑で、この門を通って収監されましたが、後に無罪が証明され、その後に王座に着きました。


9d50d7f1.jpg


川岸から見た、もう一つのロンドンの象徴である「タワー・ブリッジ(Tower Bridge)」。
1886年に着工され、1894年に完成しました。

今回ネットで調べてたら、ウィキペディアに『すぐ上流にある民謡「ロンドン橋落ちた」で有名なロンドン橋と誤解されがちである』とありました。私も今日まで、完全に誤解していました。

この時、時刻は12:45になっており、全く余裕が無い時間。
タワーヒル駅までダッシュで行き地下鉄に飛び乗り、ホテルで預けた荷物を引き取り、パディントン駅へ。
電車の遅れがあればタクシー利用も頭の片隅に浮かべながらも、無事パディントン駅を出発できました。


b1458f56.jpg


結局出発の1時間以上前に空港に着くことができました。
上の写真は空港にあった、ハリーポッターの店。
さすがロンドンですね。

ロンドン旅行、終わり。



ロンドン訪問 二日目 ~午後の散策

2018年10月27日~30日に仕事絡みでイギリスに出張に行った際、その前後でロンドンを観光しました。

10月28日(日)、14:30に大英博物館の見学の後、テムズ川に向かって歩きました。


b7ebcf21.jpg


ウォータールー橋の近くで、遅い昼食を取りました。
まずは、ニューヨーク(なぜ?!)・ビールで乾杯です。


bdf317ca.jpg


そして、ロンドンと言ったら、やはりフィッシュ&チップスですね。(笑)


50b053b9.jpg


ウォータールー橋の手前にあった立派なビル。
由緒ある建物かと思いましたが、民間の商業ビルのようです。


f83c044e.jpg


テムス川沿いを歩くとオベリスクが建っていました。
クレオパトラの針(Cleopatra's Needle)と呼ばれているようです。
それにしても、欧州の主要都市には多くのオベリスクが建っていますが、何本エジプトから持ち去られたのでしょうか?


280ac9d3.jpg


テムズ川沿いに建つ立派な建物。
これも由緒がある建物かと思いましたが、1884年に高級アパートとして建てられた建物だそうです。


5b7700d1.jpg


左に建つ鷲のモニュメントは、王立空軍記念碑(Royal Air Force Memorial)です。
テムズ川を見据えるように建っていました。


96a046e1.jpg


ロンドン・アイ(観覧車)とカウンティ・ホール。
カウンティ・ホールは1922年にロンドン・カウンティ・カウンシル庁舎として建設され、現在は日本の白山殖産が所有し商業利用されています。


453279ba.jpg


RAF(王立空軍)の記念碑(Monument to the RAF)。
第二次世界大戦でのバトル・オブ・ブリテン(ロンドン空襲とその防衛戦)を記念して作られました。


c49f57ee.jpg


ウェストミンスター橋(Westminster Bridge)に建つ街灯の柱には、多くのカギがかかっていました。


1a723d0f.jpg


ロンドンの国会議事堂(Houses of Parliament)。
残念ながらビッグベン(時計塔)は改装中でした。


bf18ee9e.jpg


ウェストミンスター橋から見たテムズ川です。


a083ac39.jpg


ウェストミンスター橋の欄干に建っていた彫像。

この時、時刻は16時をまわっていたので、ここで散策を終えました。
ウェストミンスター駅から地下鉄に乗り、一旦ホテルに戻って荷物を受け取った後に、パディントン駅に行きました。
17時過ぎの、スウィンドン行の電車に乗る予定でしたが、この日はヒースロー空港への電車を除き、パディントン駅を発着する電車はすべて事故のために停まっていました。

事態が判らず駅内をウロウロしていたら、タクシーのドライバーが事情を説明してくれ、そのまま彼のタクシーでスウィンドンに移動しました。
ちょっと調子が良すぎるかなとも思いましたが、乗る前の約束通り、280ポンドでスウィンドンまで行ってくれ、道中も色々教えてくれたので、良いドライバーに当たったようです。

続く


最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

  • ライブドアブログ