levante2019の旅日記

YAHOOブログの終了に伴い、引っ越してきました。 アメリカ3年、ドイツ3年の駐在を終え、2019年3月に帰国しました。 自転車やウォーキングなどを中心に日々の活動を紹介しています。

日本旅行記

博多駅前のクリスマスアドベントに行って来ました

2023年11月25日、午前中に若松北海岸を走った後、夕方に妻と博多駅前で行われているクリスマスアドベントに行って来ました。


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博多駅前には巨大なクリスマスツリーが立っていました。
イルミネーションの色が変化して綺麗です。


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駅前にはクリスマス・マルクトの屋台も出店していました。


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妻はグリューヴァイン(ホットワイン)、私はチェコのピルゼンビールを購入。
その後、私もグリューヴァインを、お代わりしました。


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シュテファンブルスト(右)とポテチキシュリンプ(左)。
って、シュテファンブルストってドイツで聞いたことが無かったけど、この屋台のオリジナル?
それとも実際にあるのかな?


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クリスマスツリーの色を見ているだけで飽きません。


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周囲のイルミネーションも綺麗でした。
ドイツで楽しんだクリスマスマルクトも、日本に入ると日本風にアレンジされ、これはこれで楽しいですね。

終わり


小田原城と銀座ライオン

2023年11月3日-5日に妻が東京に遊びに来たので、この週末は自転車を封印して、久しぶりに徒歩旅行をしました。
11月3日‐4日で当初予定した鎌倉と横浜の妻の行きたい所をまわったので、5日は小田原まで足を伸ばしました。


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9:20に小田原城の馬出門前に到着。
私は、この馬出門と二の丸隅櫓の間から天守閣が見える景色が好きなので、小田原に来たら毎回立ち寄ります。


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馬出から二の丸に入る、住吉橋と銅門です。


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銅門。


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二の丸から本丸に入る常盤木門です。
今回、写真を撮り忘れたので、2020年6月27日に撮影した写真です。


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常盤木門です。


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小田原城、本丸です。
ここも写真を撮り忘れたので、2020年6月27日の写真です。


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天守閣の見学後、大手門鐘楼にも立ち寄りました。


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小田原城を見学後は銀座に移動。
東海道線から山手線に乗り換えるために品川駅に下りた際に、駅構内にある、常陸野ブルーイング 品川店で一杯。


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16:45に、この日の最終目的地の銀座ライオンに到着。
開店までの時間稼ぎに品川駅で一服しましたが、ここは昼から開いているので、真っすぐ銀座に来れば良かったです(笑)。


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一階は1934 年創業の老舗ビアホールです。
壁のモザイク画など、店内の雰囲気が良いです。


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他の壁にもモザイク画がありました。


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ビアホールなので大ジョッキを選択。
昨日からビールばっかりですね。
つまみはドイツっぽいメニューを選びましたが、やはり日本風にアレンジされていました。
アレンジされた方が美味しいのですが、たまにはオリジナルのドイツ料理も食べたいです。
とはいえ、雰囲気の良いビアホールで美味しいビールと料理を楽しみました。

終わり。

鎌倉~江の島~横浜めぐり

2023年11月3日-5日に妻が東京に遊びに来たので、この週末は自転車を封印して、久しぶりに徒歩旅行をしました。
まずは11月3日-4日に鎌倉と江の島、そして横浜をブラブラしました。


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9時に鎌倉駅に到着し、まずは小町通りを歩いて鶴岡八幡宮へ。
朝早く、まだ多くの店は開店前でしたが、お団子の夢見屋さんが開いていたので、4色団子とかぼちゃ味団子を頂きました。


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9:20の鶴岡八幡宮は、まだ人も少なかったです。


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鶴岡八幡宮の本宮を撮るのを忘れたので、隣の白旗神社の写真です。


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参拝を終えると人だかりがあり、少し待つと明治天皇の御誕生日を記念した明治祭が始まりました。


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鶴岡八幡宮の源氏池。


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同じく平氏池です。


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一旦鎌倉駅前に戻り、駅前からバスに乗って、鎌倉大仏で有名な高徳院へ移動しました。


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青空の元の大仏様。


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大仏内部の見学もできます。
首の部分から頭のぶつぶつが見えました。


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大仏様をもう一枚。


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高徳院から長谷駅に向かう途中、長谷寺も参拝。


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長谷寺にあった、良縁地蔵。
かわいい笑顔ですね。


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長谷寺です。


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長谷寺は小高い山に建てられており、境内には鎌倉市を見下ろす展望台がありました。
そこで鎌倉ビールで喉を潤しました。
自転車で無いので、昼からビールが飲める!(笑)。


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長谷寺の弁天窟。
もう少し大きな洞窟と思っていました。


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洞窟内の弁天像です。


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長谷駅から江ノ島電鉄に乗りました。
湘南は何度も自転車で走っていますが、江ノ電に乗るのは初めてです。


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江の島駅に到着。


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江の島駅前のスズメは防寒着を着込んでいました。


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時刻は13:30を過ぎていたので、江の島に向かう、すばな通りで昼食です。


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まずは江の島ビールで喉を潤します(飲んでばかり)。


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つまみはバッファロー・ウィング・チキンです。
アメリカを代表する、おつまみで、懐かしい味です。


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そして、ナチョスです。
メキシコ料理ですが、私にとってはアメリカのスポーツバーの味です。

食後、富士山を期待して、江の島大橋まで歩きましたが、この日は雲が多く、残念ながら富士山は見えませんでした。
その後、江の島には寄らず、江の島駅から再び江ノ電で鎌倉駅に戻り、横浜に移動しました。


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横浜では、まずはガンダム・ミュージアム。
ガンダムも何度も外からは見ていますが、ミュージアムに入るのは初めて。
やはり目の前で見ると迫力があります!


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ガンダムが動きます。
ビデオでは見ていましたが、実物は大迫力。
ちょっと舐めていました。


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目の前で膝を付きました。
こっちを見てる(笑)。


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そして、最後はトゥース!!!(笑)


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ガンダムミュージアム前からの横浜の夜景。


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ライトアップされた横浜マリンタワー。


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ライトアップされたガンダムのドックも綺麗です。


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3日の最後は横浜中華街での食事でした。


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明けて11月4日も再び横浜に繰り出しました。
まずはカップヌードルミュージアムに開店ダッシュ。
日頃、お世話になっている日清さんとインスタントヌードルの歴史を勉強しました。
ミュージアムにはカップヌードルのガルパンバージョンも展示されていましたが、何故か色あせており残念でした。
でもガルパンバージョンの新品が欲しいです。
日清さん、再販しませんか??!


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ミュージアムには世界のヌードルが食べられるフードコートもあります。
我々は体験型のチキンヌードル・ファクトリーやマイカップヌードル・ファクトリーには寄らずに、ミュージアムから真っすぐフードコートに向かいました。

フードコートは、てっきりカップ麺かと思っていましたが、ガチの料理でした。
写真はインドネシアのミーゴレンとマレーシアのラクサです。
他にカザフスタンのラグマンと謎肉丼を頂きました。
謎肉丼は個数限定との事でしたが、店を出る時は、すでに販売終了していました。

他にもベトナムのフォーや韓国の冷麺など食べたい麺がたくさんありました。


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締めはカップヌードル ソフトクリーム(笑)。
カレー味を頼みましたが、アイス本体ではなく、トッピングにカレー味が付いていました。
キワモノかと思いましたが、意外と甘いソフトと合っていました。


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続いて横浜ハンマーヘッドに行きました。
ここの目的は、狂ったセブンイレブンと呼ばれる、セブンイレブン横浜ハンマーヘッド店。
常時300種類以上のクラフトビールを集めています。


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購入したのは、ハンマーヘッドで醸造されるナンバーナインのヘイジー。
フルーツの風味がするペールエールです。


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名前の元になったハンマーヘッド・クレーンの下の展望台で海を見ながらビールを飲みました。

この後、赤レンガ経由で桜木町駅まで散歩しました。
桜木町駅から横浜駅に移動し、横浜と川崎で買い物をしました。

3日目に続く。






河口湖 ソログルキャン

2023年10月14-15日に河口湖にチャリキャンプに行って来ました。
今回はSNSのソロキャンプの集いで、昨年の第一回河口湖キャンプと同じ「森と湖の楽園」のキャンプ場で行われました。今回は、ソロキャンプ好きが22人集まりました。


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今回は、皆さんとキャンプを楽しむのが目的なので、河口湖駅まで楽して輪行です(笑)。
いつもの富士急行の三つ峠を過ぎた所からですが、上空は雲が多かったですが、山頂には雲が無く美しい富士山が見れました。


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河口湖駅で自転車を組み立て、10:20に駅を出発。
今回の装備は写真のものに加え、デイパックを担いでいますが、デイパックを少し空けるために、右ホークにスタッフバックを付けています。


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最近は9月の富士山登山やその後のフォローアップライド(?)と、雨の河口湖が続きましたが、久しぶりに綺麗な富士山が見れました。


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SNSのグループメンバーより旅の駅「kawaguchiko base」を聞いたので、立ち寄ってみました。
河口湖は何度も来ていますが、ここには初めて来ました。
多くの地元の食材・お土産が売られていますが、ワインの品ぞろえも多かったです。
私も、キャンプ場で皆で飲むために地元産のワイン「浅間メルロー 」を購入しました。
正直、国産ワインには期待していませんでしたが、このワインは美味しかったので、今後は国産ワインも飲んでみようと思います。


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天気も良いので河口湖を一周してキャンプ場に向かいました。


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昼食は道の駅「かつやま」でほうとうを食べました。
当初は富士山下山後に食べた「小作」に行こうかと思いましたが、昼食時は恐らく混んでいるので、こちらで食事を取りました。


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道の駅ではコロッケも宣伝されていたので、一緒に食べました。
河口湖一周の対価としてはカロリー過多ですが、美味しかったから良し!

13時前にキャンプ場に入りましたが、テント設営後はグループの方と語ったり、買い出しに出たりで忙しく、写真は無し。


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日暮れに焚火を起こし、肉やソーセージを焼きながらビールを飲んで、少しソロキャンプを楽しみました。

そして19時から、みんな揃っての雑談会が始まり、楽しい夜を過ごしました。
このグループに参加する場合はいつもですが、車組の方が美味しい料理やお酒を出してくれ、UL系でも美味しい思いが出来ます。


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そして、天気予報通り夜半から雨が降り出し、朝まで雨が残りました。
今回は、GeerTopのテントの耐水テストも兼ねていましたが、結露は多かったものの浸水等は無かったです。


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広めの前室があるので、簡単な食事も作れます。
この日の朝食も定番のカレーメシでした。

軽量ソロテントとして雨の日も十分使えますが、雨だと前室を閉じて、お籠り状態となるので、今回のようなグループキャンプでは、周りと話せず、ちょっと寂しいかったです。雨でも前室を広げられるフラップ付きのテントが欲しいですね。


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しばらくテントに籠っていましたが、10時に外を歩くと、昨夜の雑談会会場で、前夜の豚汁の残りで、おじやを作っていたので、私も頂きました。


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午前中で雨は止む予報でしたが、11時過ぎに私がチェックアウトした際は、まだ降っていたので、雨の中の撤収となりました。
荷物は入れ替え、濡れたテント等は全てビニール袋に入れてバックパックに押し込みました。

チェックアウト後は、雨の中を河口湖駅まで走りました。
駅に着くと晴れ間も出ており、もう少し走ろうかと思いましたが、早く帰って濡れた装備を干したいので、輪行して帰りました(笑)。


河口湖
初日の走行ルートです。
この日の走行距離は24kmで、2日目はキャンプ場から河口湖駅までの4.5kmだけの走行。
ロードバイクを持ってくるほどの距離は走れませんでしたが、楽しいキャンプでした。
いつもはソロばかりですが、たまにはグループキャンプも良いですね。

終わり

基肄城跡と瀧光徳寺へのドライブ

2023年2月12日に佐賀の基肄城跡に行って来ました。
今回は自転車ではなく、妻と二人でドライブ&ハイキングです。


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基肄城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭の防衛のために標高404メートルの基山山頂に築いた古代山城です。

基山草スキー場までは車で上れ、そこから草スキー場を歩いて上りました。


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草スキー場の上から見た景色。
草スキー場だけあり、かなりの傾斜があります。


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山頂北側の景色。
基肄(椽)城跡の碑が立っています。


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北側には博多の町が見えます。


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東側から南にかけて、筑後平野が一望できます。


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山頂南側の風景。


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南の端には小さな祠があり、横にはオベリスクが立っていました。


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その先には広大な筑後平野が広がっています。


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本城址の碑は折れて倒れていました。


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同じ古代山城である大野城と同様、山頂の一帯を城壁で囲んだ山城で、基肄城は約3.9キロメートルの城壁を廻らせています。

なお、基肄城跡は続日本100名城に選ばれており、スタンプは基山町民会館にあります。
ここは日曜日も開いているので、私は攻城前に立ち寄りスタンプを押しました。


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基肄城から基山市街に下る途中に瀧光徳寺があります。
本来は下の駐車場に車を停め、階段を上るのでしょうが、本堂の横にも小さな駐車場があるので、そこから五重塔を見学しました。
妻には五重塔から本堂へ下ってもらいましたが、私は車に戻って車を下に移動させました。


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車を参道下の駐車場に停め、階段ダッシュ(笑)。


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本堂で妻と合流しました。


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龍光徳寺は、大正元年に立教された中山身語正宗の本山で、なかなか立派なお寺でした。

終わり

映画 ゆるキャン△の聖地巡りと十二国記 ~名古屋

2022年10月5日‐6日に名古屋に出張した際に、映画ゆるキャン△に関連した場所(+α)を巡ってきました。
名古屋は大人になった志摩りんが通勤している場所であり、映画の物語が動き出す起点となった場所です。


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オープニング曲 Sun is coming upのアルバムジャケットは、名古屋駅東側4番出口から見た、名古屋駅方向の景色です。
なお、オープニングを歌う亜咲花も名古屋出身との事です。


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なおジャケットにも描かれている駅前の円錐形のモニュメントは、2022年7月9日より撤去が始まり、私が行った時は跡形もありませんでした。写真は次の日に名古屋駅から見た風景です。


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りんが新刊チェックに行った淳平堂書店は、名古屋駅前のジュンク堂名古屋店がモデルです。


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ゆるキャン△ネタを探して店内に入ると、なんと十二国記のイベント中でした。
初刊販売から、もう30周年なのですね。と言うか、いつからこんなイベントやってたんだ?!

ゆるキャン△のコーナも店内にありましたが、私は十二国記で止まってしまいました(笑)。


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思わず画集とグッズを買ってしまいました。
ただし、私のものは左端の中島陽子のみで、あとは妻の要望です(笑)。
中島陽子が悩み・成長していく物語は大好きで、またアニメを見たくなりました。


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ゆるキャン△に戻って、続いて行ったのは、映画のオフショットビジュアル第二弾、志摩リンのビジュアルになった向野橋です。
橋は近鉄名古屋線の米野駅と黄金駅のほぼ中央にあり、名古屋駅からは約2kmなので、食後の運動に歩きました。


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てっきり、車も通る鉄橋と思っていましたが、歩行者専用の道でした。
歩行者用としては立派な鉄橋です。


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名古屋駅に戻り、名古屋再生酒場「みつえもん」に寄りました。
ここは、名古屋を訪問した千明が、りんと会った居酒屋のモデルで、ここでの二人の会話から(と言うか千明の筋書き通りに?)話が一気に進みました。


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私はすでに夕食を食べていたので、ビール一杯と手羽先を頂きました。


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「手羽先うめ~!」by 千明(笑)。

この後、駅前のホテルに帰って就寝しました。


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次の日の午前中は、金山駅近くで仕事でした。
写真は昼食に金山駅内の梅蘭で食べた焼きそばです。
表面を焼いた麺の中には、あんかけの具が入っています。


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午後は時間があるので熱田神宮を参拝しました。
ここはアニメ等とは関係無く、織田信長所縁の地なので一度来てみたいと思っていました。


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織田信長は桶狭間の戦いの前に熱田神宮で戦勝を祈願して出撃しました。
写真は、大軍の今川勢に大勝した後に、信長が奉納したと言われる信長塀です。


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熱田神宮を出た後、地下鉄で丸の内に行き、聖地巡り再開です。
写真は、りんが通勤で使っている、桜通り線丸の内駅4番出口です。


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映画でりんが働くしゃちほこ出版の外観モデルと思われる、星城大学 名古屋丸の内キャンパスです。


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志摩りんがモーニングで立ち寄る描写があった、コーヒーハウス かこ 花車本店です。


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すでに昼食を食べたので、コーヒーだけを頂きました。


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その後、新幹線で東京に戻りました。
新幹線内で買ったビールはエビスの鉄道開業150年バージョンでした。

終わり

宮崎ひでじビールと行縢(むかばき)の滝(延岡)

2022年4月29日、10連休となった今年のGWは福岡の自宅に帰りました。
が、この春から延岡で下宿を始めた娘のアパートと学校を視察に、自宅から妻と延岡へ。


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延岡へ行く事を知人に話すと、宮崎ひでじビールに立ち寄れと勧めてくれたので立ち寄りました。
延岡では有名な地ビールのようですが、この建屋は2週間前にオープンしたばかりだとの事。


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写真は2本ですが、種類があったので、5本購入して娘のアパートで堪能しました!


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今回紹介したいのは、ひでじビールだけでなく、その奥に見える、行縢(むかばき)の滝もです。
この両側にそそり立つ崖の間を流れる滝は絶景でした。
私は全く知りませんでしたが、名所になってもおかしくないと思います。


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行縢川沿いから見る遠景です。
行く時も見て立派な山だと思いましたが、真ん中の白い筋が滝だとは気付きませんでした。

この夜は、娘のワンルームマンションに、妻と雑魚寝。
今回、雑魚寝用に、クライミット イナーシャオゾン(マット)と、モンベル ダウン スリーピングラップ #5(寝袋)を持って行き、デビュー戦を飾りました(笑)。

終わり

平戸城と佐世保を訪問してきました

2021年11月13日に長崎の息子に会いに行った次の14日に、レンタカーで平戸城を訪問してきました。


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朝8時に長崎でレンタカーを借りて、10:30に平戸に到着。
平戸大橋を渡って、平戸城に向かう途中のホームセンターの駐車場から撮影。


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10:40に平戸城の攻城開始。
テニスコートの駐車場に車を停め、西の方啓門から城に入りました。


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方啓門を入っても本丸に向かわず、南の大手門を先に訪問しました。
写真は大手門の巨大な桝形です。


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大手門に続く大手道です。


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二の丸に戻って来ました。
二の丸にはかつては御殿が建っていましたが、今は亀岡神社が建っています。


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北虎口門です。


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平戸城本丸と天守閣。
下松浦党の棟梁だった松浦鎮信(法印)は、豊臣秀吉の九州平定に加わり松浦郡と壱岐一国の所領を安堵されました。
文禄・慶長の役の後、慶長4年(1599年)に築城を開始しましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃、徳川家康への配慮から城を破却したそうです。

第4代藩主松浦重信(隠居後は鎮信)は、元禄15年(1702年)に幕府に平戸城の再築城を願い出て、翌元禄16年(1703年)に許可されました。そして、第5代藩主松浦棟によって元禄17年(1704年)2月に着工され、宝永4年(1707年)にほぼ完成しました。
松浦家は姻戚関係で徳川家の関係を強化していましたが、江戸時代中期に築城が裁可されたのは異例のことでした。

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天守閣から見た本丸の風景。
城が破却された後、平戸港を挟んだ北側に「中の館」と呼ばれる居館を構え、平戸藩の藩庁としていました。


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天守閣の南東側の風景。
見奏櫓(左)と懐柔櫓(右)が再建されています。


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南から見た天守閣。
ただし、再建後に平戸城には天守閣は築かれていないため、模擬天守となります。

なお、平戸城は日本100名城に選ばれています。


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二の丸南東から見た。天守閣(左)と見奏櫓(右)。


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平戸城の御城印です。

11:40に平戸城を撤退。


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平戸港北側の山の上に建つ平戸ザビエル記念教会に来ました。
時刻は12:00になっていました。
この後、教会の駐車場に車を停め、平戸の町を散策しました。


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平戸松浦氏第28代、平戸藩の第3代藩主松浦隆信(宗陽)の墓です。
松浦 隆信は、慶長7年(1602年)に、父久信の死により12歳で家督を相続し、祖父鎮信(法印)が後見しました。


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「宗陽公の墓」から下る坂が、「寺院と教会の見える道」と言われています。
名前の通り、日本古来の寺と、西洋の教会が一緒に見える、平戸らしい風景です。


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平戸港から見た平戸城。
室町時代の天文19年(1550年)、平戸港にポルトガルの貿易船が初めて入港しました。
同年9月にはフランシスコ・ザビエルが平戸に来航し、キリスト教(カトリック)の布教を始めました。
以降、江戸時代の寛永18年(1641年)に、オランダ商館が長崎の出島へ移転するまで、平戸は南蛮貿易で栄えました。


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松浦史料博物館の地には、江戸時代は平戸藩の藩庁があり、明治26年(1893年)に松浦家の私邸「鶴ヶ峯邸」が建てられました。その建物利用した館内には、平戸藩主松浦家に関する資料を展示しています。


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「六角井戸」
天文時代(室町時代1532年から1555年まで)に明の商人がこの地に定住したことから、その当時に明の様式で造られたと言われる井戸です。


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「大ソテツ」
オランダ、イギリスとの貿易華やかな頃、延命町は、川崎屋助右衛門、半田五右衛門、伊藤謀等の貿易商が軒を並べて、平戸一番の賑わいを見せていた所でした。 天満宮登り口に、大きく枝を四方に伸ばしている老ソテツは、川崎屋全盛時代に植えられたものといわれています。
そしてこの通りは「大ソテツ通り」と呼ばれています。


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13時前に平戸を出て、佐世保に向かう前に、「田平公園」に立ち寄りました。
ここからは「平戸大橋」と、遠くに「平戸城」を見ることが出来ます。
「平戸大橋」は昭和48年(1973年)に着工され、昭和52年(1977年)に開通しました。
橋の全長は 665mです。


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14:00に佐世保に到着。
ここでレンタカーを返却し、バスの時間まで港を散策しました。


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昼食を取っていないので、まずは佐世保バーガーで腹ごしらえ。


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かつての日本海軍の軍港だった佐世保は、今も自衛隊と米海軍の基地となっています。
海上自衛隊の護衛艦を見るために、駅から離れ、佐世保港の南側を歩きました。
倉島岸壁には海自の平成護衛艦三隻が並んでいました。
左から、
「はるさめ」:むらさめ型護衛艦の2番艦 平成9年(1997年)就役 基準排水量4,550トン
「あさひ」 :あさひ型護衛艦 の1番艦  平成30年(2018年)就役 基準排水量5,100トン
「あきづき」:あきづき型護衛艦の1番艦 平成24年(2012年)就役 基準排水量5,050トン


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福祉センター前バス停付近の桟橋まで歩き、写真を撮って引き返しました。
さきほどの海自三隻の左奥にはアメリカ海軍の軍艦も見えています。


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アメリカ海軍のアップです。中央には、アメリカ級強襲揚陸艦の1番艦「アメリカ」が見えます。満載排水量は45,693トンで、全長257m、最大幅32mです。
なお、日本のヘリ空母と呼ばれる、護衛艦「いずも」は、満載排水量が26,000トンで、全長248.0m、最大幅38.0mです。

その右側には、ステルス形状が特徴的な、サン・アントニオ級ドック型輸送揚陸艦の4番艦「グリーン・ベイ」が見えます。満載排水量24,333トンで、全長208.4 m、全幅:32 mです。


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桟橋には北九州市船籍の船が停泊していたので撮影しました。
帰宅後調べると、洞海マリンシステムズ社の運用するタグボート「あさひ」でした。
洞海マリンシステムズ社は北九州市若松区に本社を構え、北九州市の洞海湾と長崎港を中心に、様々なマリーンサービスを行っているようです。
この「あさひ」は長崎港を中心に活動し、佐世保港や有明海でも活動しているそうです。


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バスの時間がギリギリだったので途中走りましたが、15:15に何とか佐世保バスセンターに着きました。
写真はターミナルにあった、「艦これ」とのコラボレーションのパネルです。

15:30に発の西肥バスの「させぼ号」に乗り、17:15に福岡空港(国際線ターミナル)に到着。
空港から飛行機で東京に戻りました。

終わり

信州のお城巡り 2日目

2021年4月30日-5月1日に信州のお城巡りに行って来ました。

昨日はレンタカーで信州の城巡りをしましたが、二日目は車も自転車も無しで見学します。


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8:00にホテルを出て町を散策。
松本では松本城の他に、開智学校が有名ですが、学校は元々、女鳥羽川沿いの、この地にありました。


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町中にあったカラーマンホール。


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武田信玄が、今川氏、北条氏と敵対した際、今川氏は北条氏と協力して、武田氏の領地である甲斐と信濃の南部に、塩を送らないようにしました。そのために武田領の農民や町人が塩が無く苦しんでいる様子をみた越後の上杉謙信は、武田氏とは敵対していたにもかかわらず、人々を救うために糸魚川から塩を送りました。
この石は、上杉領から塩を運んだ牛をつないだと言い伝えられています。


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8:15に松本城に到着。
開城前の人の少ない間に、城の外観を撮影しようと早めに到着しましたが、黒門はすでに開いていたので早速入城しました。
すると、5月1日は市政記念日で松本城は無料開放されていました。
ラッキー~!


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黒門の櫓門です。


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松本城は本丸内から見る天守閣の姿も美しいですね。
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏が林城を築城し、その支城の一つとして深志城(松本城)が築城されました。
天文19年(1550年)に武田氏が小笠原氏を追放した後、林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し松本盆地の支配の拠点としました。
武田氏滅亡後は、織田信長、上杉景勝、豊臣秀吉の影響を受けた後、江戸期は水野家、戸田松平家が代々居城としました。
安土桃山時代末期から江戸時代初期(はっきりとした年は不明)に建造された現存天守は国宝に指定されてり、松本城は日本100名城に選ばれています。


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城内はツツジが満開で、花の見学会(?)も行われていました。


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現存の天守は内部も見どころがいっぱいですが、コロナのおかげで見学順路が決められており、何かを見逃しても戻る事ができず、ちょっと不便でした。


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5重6階の天守の最上階です。
大きな天守なので最上階も結構広い。


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天守閣最上階から見た本丸です。
本丸御殿の跡が示されています。
なお、本丸御殿は享保12年(1727年)に焼失しています。


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天守西側の景色です。


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天守閣の見学を終えると9時過ぎており、天守閣の見学だけで1時間も使ってしまいました(笑)。
本丸にはお殿様と姫様が出ていたので写真を撮らせて頂きました。


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本丸の見学を終え、二の丸から天守閣を見学します。
昨夜もこの位置から見学しましたが、日中に見る天守閣も美しいです。


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松本城と言えば、真っ赤な埋橋と天守閣のコラボが有名ですね。


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今は埋め立てられた三の丸の跡には、藤の花が美しく咲いていました。


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現在の開智学校(松本市立開智小学校)の校舎は、開智学校をイメージしたデザインでした。


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開智学校は、第一番小学開智学校として1873年に旧藩主戸田氏の菩提寺、全久院の建物を仮校舎として創立されました。1876年に全久院跡地に新築された校舎が、現存する旧開智学校校舎です。
場所は、前述の女鳥羽川沿いにありましたが、1963年から64年にかけて、この地に移築されました。
開智学校も市政記念日で入場無料でした!


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内部は当時の校舎の様子も再現されていました。


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開智学校では伝染病の防疫教育にも力を入れていたようで、その歴史がまとめられていました。
インフルエンザは1870年にロシア風邪として日本に流入し、その後、数次にわたって流行しました。

 症状「症状が急激に悪化すると重篤な肺炎を発症して死に至る。」
 対策「マスクなどの感染防止対策。流行性感冒予防注射。」

現在のコロナと一緒ですね。当時の経験がきちんと引き継がれていれば、コロナ禍の初動対応も変わったかもしれません。


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開智学校の横にある旧司祭館も入場無料だったので寄ってみました。
明治22年(1889年)松本カトリック教会神父クレマンにより作られた住居で、元は松本城下にあったものを、保存のために平成3年にこの地に移築したそうです。


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高橋家住宅跡は、長野県下で現存する最も古い武家住居跡です。
高橋家は当初は足軽として仕え、その後、徒士、徒士小姓と出世し、奉行職を務めた事もあるようです。
各地に現存する武家屋敷は高位の武士の屋敷が多いですが、ここは普通の武士の屋敷です。


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松本市内は井戸が整備されており、この写真は北馬場柳の井戸です。


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葵の井戸。
この辺りの小路は雰囲気よく整備されており、歩いて気持ち良かったです。


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裏御門橋を渡って二の丸に入りました。
享保12年(1727年)に本丸御殿が焼失した以降、この二の丸で藩政が行われました。


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二の丸への東側の出入り口、太鼓門です。


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桝形虎口となっており、中は櫓門が守っています。


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続いて、縄手通り商店街に来ました。
ここは、四柱神社が建立された後、その参道として発展しました。


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横を流れる女鳥羽川には、昔は河鹿(かじか)蛙が美しい鳴き声を奏でていましたが、川が汚れ蛙もいなくなりました。昭和47年に蛙大明神を建立し蛙の住む清い川と活気ある通りを目指しました。
以来、「かえるの街」と呼ばれるようになりました。


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時刻は11:30になっており、この後の予定を考え、ここで昼食を取りました。
と言っても、商店街で見かけたたい焼きやで「桜あんたい焼き」、「カレーたい焼き」を購入。
カレーたいやきは名前の通りのカレーの入ったたい焼きですが、珍しいですよね。
桜あんたいやきは、桜風味のほんのり甘いあんこが美味しかったです。


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縄手通り商店街の横を流れる女鳥羽川。
今は河鹿蛙も戻ってきていそうです。


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この後、松本城に移動したら諏訪行きの電車が調度良かったので、食事する間も無く電車に乗りました。先ほどたい焼きを食べてて良かったです。
当初は、上諏訪駅まで乗るつもりだったのですが、下諏訪駅で諏訪大社の看板を見て慌てておりました。(12:20に降車)


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諏訪大社は全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社です。
でも、電車を降りて判ったのですが(笑)、諏訪大社は上下合わせて4つの宮があり、上社の本宮は上諏訪に合ったのですね(爆)。(駅からは少し遠いですが)

30分後の上諏訪行の電車に乗りたかったので、下諏訪駅に一番近い秋宮に行きました。
写真は江戸時代の天保6年(1835年)に建てられた神楽殿です。


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江戸時代の安永10年(1781年)に落成した幣拝殿です。

なお、下社は他に春宮があります。


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温泉が湧くようで、源泉かけ流しの場がありました。
諏訪明神の御神湯との看板が立っていました。


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ここには、中山道の下諏訪宿があったようです。


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13:30に上諏訪駅に到着しました。


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観光案内所に寄ったら、マンホールカードがあったので頂きました。
高島城がデザインされた、実際のマンホールの場所も教えてくれたので寄りました。



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上諏訪駅から高島城に向かうと、味噌蔵の丸高がありますが、この辺りが当時の三の丸跡で、かつては三の丸御殿がありました。


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丸高から駅方向に、かつては大手門がありました。
今は一帯が埋め立てられて宅地化していますが、当時は本丸、二の丸、三の丸が諏訪湖に突き出した水城で、諏訪の浮城と呼ばれていました。


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高島城の本丸跡に到着。
戦国時代、諏訪氏の滅亡後は武田家が諏訪地方を支配しましたが、武田家の滅亡後は織田家、豊臣家に仕えた日根野高吉が、天正18年(1590年)の小田原征伐で山中城を攻略した功績を賞されて、信濃高島に3万8000石を与えられ、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて、現在の地に新城を築きました。
慶長6年(1601年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、その後に、徳川家に仕えていた諏訪頼水が2万7千石で入封し、諏訪家の支配が明治維新まで続きました。

天守閣は復興天守です。


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隅櫓も復興です。
高島城は続日本100名城に選ばれています。
天守や隅櫓の茶色の壁が珍しいです。

なお、このころから雨が降り始めました。


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二の丸と本丸をつなぐ橋と復興門。


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本丸側から見た隅櫓です。


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天守閣からの景色。
諏訪湖と下諏訪方面も見渡せました。


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本丸の見学後は駅に戻る予定でしたが、雨が止んだので諏訪湖に寄り道しました。
写真は諏訪湖そばで見かけた市内巡回バスです。

車体には「かりんちゃんバス すわひめ号」と書かれていました。
側面には、諏訪姫とかりんちゃんの漫画
第一話 諏訪姫、タイムスリップ!?
第二話 かりんちゃんバスツアー!
が描かれていました(笑)。


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少し苦戦しながら諏訪湖に到着。
この時、時刻は14:50になっており、帰りの電車の時刻が迫っており、ゆっくりする暇も無く駅に向かいました。


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15:20に上諏訪発の「あずさ」号に乗って帰りました。


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駅で買った土産。
信州名物のどら焼き、そばドラの胡桃味と、諏訪の地ビールです。


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16時過ぎに甲府駅を通過する際に、甲府城の山手御門が見えました。
甲府も城巡りに来たい場所です。

終わり

信州のお城巡り 初日

2021年4月30日-5月1日に信州のお城巡りに行って来ました。


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東京駅を6:16に出発する「かがやき501号」で長野駅に出発します。
なお、表示板には、函館/秋田や新潟の行先の列車が続いていました。
函館、秋田、新潟、いずれも行って見たい場所です。
早く気楽に旅行に行ける世に戻って欲しいです。


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7:45に長野駅に到着。
木をイメージした素敵な駅です。

長野駅前でレンタカーを借りますが、事務所が開くのが8時なので、少し待ちました。


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最初に訪問する松代城に向かって出発するとすぐに、川中島古戦場跡の看板があったので立ち寄りました。
駐車場に車を停め、公園に行きましたが、目の前には佐久間像山の像がそそり立っています。
川中島はどこに行った?

なお、佐久間像山は幕末に松代藩(真田藩)の老中も務めた儒学者・朱子学者です。
藩主真田幸貫の要請で蘭学(自然科学書、医書、兵書等)を学びました。


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古戦場跡は駐車場から北側の八幡社にありました。


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八幡社に入ると、有名な武田信玄と上杉謙信(当時は上杉政虎)の一騎打ちの像があります。

この地は、永禄4年(1561年)に行われた、第四次合戦で武田信玄が本陣を置いた場所でした。
信州に進出した上杉勢は妻女山に布陣。武田軍は当初、茶臼山に布陣するも、その後膠着を避けるために、高坂昌信の守る海津城(松代城)に移動。
9月9日深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向うと共に、本陣はこの八幡原に移動しました。武田方軍師の山本勘助の策では、二隊で妻女山の上杉勢を挟撃する予定でしたが、別動隊の動きを察知した上杉謙信は武田本隊を強襲し、混戦の中で有名な一騎打ちが発生しました。

この戦いで武田軍は、信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らの諸将が討死するほどの大損害を受けるも、辛うじて上杉軍を防ぎ切り、別動隊の到着で逆に上杉勢を挟撃する形となり、不利となった上杉勢は戦場を離脱しました。


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八幡社の横には「逆槐(さかさえんじゅ)」と「三太刀七太刀の跡」があります。
逆槐は信玄がここに本陣を置いた際に土塁を固めるために坂向きに刺した槐の杭から芽が出て大樹になったと言われています。
三太刀七太刀の跡は名の通り、ここで上杉謙信が信玄に三太刀を浴びせたと言われています。
信玄は軍扇で受けましたが、後で確認すると七つの傷がついていたそうです。


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八幡社には方形の土塁が残っていますが、信玄本陣の桝形陣形の跡との事。


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川中島古戦場のあとは松代城(海津城)に向かいました。
私は城の北にある上信越自動車道沿いの駐車場に車を停めましたが、看板も無く城への道が判りにくかったです。城の見学には町の中の駐車場の方が便利です。

上の写真は松代城北側の堀です。


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松代城の北側の曲輪です。
戦国期は武田氏が、この城を押さえていましたが、慶長5年(1600年)に森忠政が入封。その後家康の息子である松平忠輝や、松平忠昌、酒井忠勝と領主が変わった後に、元和8年(1622年)に真田信之が13万石で入城し、以後、明治維新まで真田氏の居城となりました。
なお、松代城は日本100名城に選ばれています。


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本丸にある北不明門です。


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南側の太鼓門です。


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本丸の北東角にある大きな石垣。恐らく天守台として作られたのだと思いますが、多門櫓を建てるよう
な石垣が続いているのが珍しかったです。


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城外にある真田邸跡。


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松代城の次に訪れたのは上田城。
上田城は天正11年(1583年)に、真田本城主の真田昌幸が築城しました。
この城が有名になったのは、天正13年(1585年)と、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの際の2度に渡って、真田軍が徳川軍を撃退した事です。


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関ケ原の際の第二次上田合戦時は、別動隊3万8000人を率いた徳川秀忠を足止めし、関ヶ原の決戦に間に合わせなかった大殊勲。それを恨んだ徳川軍によって、翌1601年に上田城は徹底的に破却されました。関ヶ原の戦いで東軍に付いた真田信之が戦いの後に三の丸跡に屋敷を造って統治しましたが、元和8年(1622年)に松代へ転封しました。その後に移封された仙石忠政によって、江戸時代初期の寛永年間に今の城は再築城されました。


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上田城本丸跡です。


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本丸に建つ真田神社の中には真田幸村の人物画が飾られていました。
戦国期は真田昌行が当主で、幸村は息子として父を補佐しただけなのですが、有名なので上田は幸村だらけでした(笑)。


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本丸南櫓と東虎口櫓門。


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東虎口櫓門の石垣にある真田石。
信之が松代に転封する際に、父の形見にこの石を持っていこうとしましたが、重すぎて動かなかったとの言い伝えが残っています。


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上田市観光会館にあった真田父子の甲冑です。
上田城は日本100名城に選ばれており、100名城スタンプはこの観光会館に置いています。


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上田城から国道144号を北東側に走ると、真田氏記念公園があります。
写真は公園に建つ真田氏発祥の郷の碑。
この公園から国道を離れ東に向かうと、上田城に移るまで真田氏の居住した地域が有ります。


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最初は真田氏の居館があった、お屋敷公園に寄りました。
居館は矩形の土塁で囲まれており、東曲輪跡には、今は皇大神社が建っています。


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西曲輪跡です。
その西側には村上義清が東信濃攻略の拠点とし、真田昌行も上田盆地の北の守りとした砥石城跡のある山(低く尾根線が見える山)が見えます。


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居館の大手門跡です。
この居館には大手門の他、搦手門と東門の三つの門がありました。


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居館から北に向かうと、上田城に移るまでの真田氏の本城だった、真田本城跡(写真中央の山頂部)があります。
武田家臣の真田幸綱が天文年間に築いたとされ、幸綱・信綱・昌幸の三代に渡って真田の本城でした。


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駐車場から、本郭に向かって郭が連なっています。


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真田本城の本郭です。


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続いて行ったのは小諸城。
写真は大手門です。

小諸城は、長享元年(1487年)に大井光忠によって築城されたと考えられています。
戦国時代に武田信玄の東信州経営のために、現在の縄張りとされたと考えられています。
石垣を用いた近世城郭に改修したのは、天正18年(1590年)に入城した仙石秀久によるものです。


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大手門の内部は見学できます。
通常櫓門の内部は、武具などを収める倉庫となっていますが、小諸城の大手門は、ふすまの間仕切りや窓に障子を持ち、居住機能を持っています。


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三の門です。


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右の斜面を登ると二の門跡に向かいます。
右の石垣の上は、二の丸跡です。


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時刻は13時を回っており、前の写真に写った古城軒で信州そばを食べました。


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右に写る二の門を抜け、振り返ると二の丸への入り口があります。
関ケ原に向かう徳川秀忠が、ここに滞在したそうです。


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黒門跡を抜けて写真左手に向かうと本丸に出ます。


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本丸に入る虎口。


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本丸跡にある懐古神社。


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本丸の北西角にある天守台です。
建築当初は、金箔押瓦を用いた三重天守が建てられましたが、寛永3年(1626年)に落雷によって焼失したそうです。


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この時は、城内でツツジが満開でした。


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続いて行ったのは、龍岡城です。
幕末の三河国奥殿藩の藩主、松平乗謨(のりかた)は、分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得、稜堡型(星型)城砦を造りました。日本で作られた稜堡型城砦は、北海道函館市の五稜郭とここだけです。
龍岡城は続日本100名城に選ばれています。


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北側にある稜堡部。
北側から東側にかけては水堀になっています。


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しかし、西側の稜堡は水堀がありません。
周囲の地形の関係でこの部分が一番高い石垣ですが、稜堡としては低い石垣です。
水堀も無ければ防御力は、あまり期待できません。
元々稜堡型の城砦は、大砲の発達に対抗して欧州で発達した城砦ですが、深くて広い堀と分厚い石垣で守る事が基本となりますが、龍岡城はなんとも中途半端。


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南西の稜堡は先端が丸かったです。
シンメトリーで無いのは、なぜ?
なお、城砦の南側は雨川が流れ、天然の水堀となっています。


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南東の稜堡です。
城砦としての能力には疑問が残りますが、日本で二つしかない稜堡型城砦は美しかったです。
いつか函館の五稜郭にも行ってみたいです。


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龍岡城から、次の高遠城まではメルヘン街道を走りました。
途中、白樺群生地を抜けたり、雪の残った麦草峠(標高2127m)を超えたり、美しい景色の中を走りました。

15時に龍岡城を出ましたが、高遠城まで最短ルートでも90kmあり、峠越えのルートは時間はかかりました。少し強行軍でしたが、高遠城は交通の便が悪いので、レンタカーのある、この日のうちに寄りたかったのです。


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17時半に高遠城に到着。
高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としていましたが、天文14年(1545年)に武田勢が占領した後は、武田家の信濃攻略、信濃支配の拠点となりました。
上の写真は、山本勘助が築いたとされる勘助曲輪です。


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二の丸と本丸を結ぶ桜雲橋です。
橋の先には問屋門があります。


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本丸側から見た問屋門。
この問屋門は城下の問屋役所にあった門で、昭和20年代にここに移築されたそうです。


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高遠城の本丸です。

高遠城は日本100名城に選ばれており、100名城スタンプは高遠湖畔にある高遠町歴史博物館に置かれています。スタンプは博物館の玄関前に置かれているので閉館後でも押す事ができましたが、御城印は購入できませんでした。

高遠城でこの日のドライブの予定は終了。
後は松本まで走って、駅前でレンタカーの返却し、この日に泊まるホテル、エースイン松本にチェックイン。


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でも、松本の夜はこれからです(笑)。
ライトアップされた松本城の見学に行きました。


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松本城の黒門です。


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松本城の天守閣南側。
天守の右には辰巳附櫓と月見櫓が建っています。


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西側に行くと、乾小天守が建っています。
乾小天守と辰巳附櫓を従えた、この角度からの天守閣は美しかったです。

信州のお城巡りの初日は終わり。
二日目に続きます。

古代から中世の城巡り 岩屋城~大野城~大宰府政庁跡

2021年4月24日、福岡の自宅に戻った際に、大野城を訪問してきました。


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9:30に西鉄大宰府駅に到着。
この駅で降りた多くの方は学問の神、大宰府天満宮に向かいますが、今回私は大野城跡に向かいます。


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大宰府駅の前のポストは石造りでした。


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大野城跡のある四王寺山(大城山)に向かっていると、浦の城跡の看板があったので立ち寄りました。


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何の予備知識も無くぶらりと寄りましたが、浦の城は筑前国の守護である少弐氏の居城だったそうです。(なお、少弐氏の本城は宝満山にある有智山城です。)
看板によると、少弐氏の六代頼尚は後醍醐天皇の建武政権と対立した足利尊氏が九州に落ちた際、この地に迎えたそうです。


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浦の城跡を出て、再び四王寺山に向かい、四王寺林道を上っていると道端にツルニチソウが咲いていました。


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四王寺林道を上る途中に岩屋城跡があります。

天正12年(1584年)に沖田畷の戦いで龍造寺隆信を敗死させた島津氏は、その後、九州中部、北部の小勢力を併合し急速に勢力を拡大し、彼らを阻むものは大友氏だけとなりました。
島津氏は大友を下し九州を統一するために、大軍を擁して筑前への進撃を開始。
その島津勢に立塞がったのが、この岩屋城に763名の城兵と共に籠った高橋紹運です。


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岩屋城の本丸跡です。

五万の島津勢は、天正14年(1586年)7月12日に岩屋城の攻城を開始します。
籠城戦は半月におよび、その間、島津勢から3回、味方から2回の降伏勧告があったものの紹運は応じず徹底抗戦しました。島津勢は、7月27日に島津忠長が自ら指揮の下に総攻撃を仕掛けました。島津勢は、多数の死者を出しながらも城に攻め入り、紹運以下763名全員が討死、自害して戦いは終わりました。
一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失い、その態勢を立て直している間に、豊臣軍が九州に到着し、島津の九州制覇の夢は叶いませんでした。
岩屋城の奮戦により、立花山城に籠る紹運の実子、立花宗茂も助かっています。


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本丸からは筑前の国が一望できます。
この写真は、大宰府や筑紫野市方面の景色です。


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大野城市、春日市方面の景色です。
北側には博多の町方面も見えます。


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紹運の壮絶な死を称えた碑です。
戦いの最中、島津軍諸将は、紹運の武将としての器量を惜しみ降伏勧告を3度も送りましたが、紹運は「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが、私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である。」と、きっぱり断ったそうです。
分が悪ければ寝返る事が当たり前の戦国期、紹運の忠義の心に、敵味方関係なく賞賛の声が上がりました。


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高橋紹運の墓と763人の城兵を弔う慰霊碑です。
城から少し下った所にあります。


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岩屋城の見学の後、更に四王寺林道を上ると、大野城跡に出ます。
写真は、大宰府方面に開いた太宰府口城門の跡です。

大野城は、大和朝廷が白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大宰府政庁防衛のために、標高410メートルの四王寺山の山頂に築いた古代の山城です。
土塁と石塁で作られた外周城壁が約6.8キロメートルに及んだ大規模な城です。


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土塁の一部が石垣になっていました。
面がそろっていますが、古代の石垣なのかな?


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続く写真と共に増長天礎石群です。


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ここには倉庫と思われる4棟の建物が並んでいました。


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増長天礎石群のすぐそばにある鏡池。
円形の大きなくぼ地に水が湧き出しています。


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増長天礎石群の少し下にある馬攻めです。
ここは、高橋紹運の馬場だったと言われています。
なお、周囲の土手は大野城の土塁跡です。


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西南部の外周土塁の低い部分に築かれた大石垣です。


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大石垣は長さは100m、高さは6mあります。


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大石垣から外周部を回ろうとも思いましたが、一旦、四王寺県民の森センターに立ち寄りました。
時刻は12時前になっており、食事が出来ないかと期待しましたが、レストランはありませんでした。
仕方が無いので、自販機の清涼飲料水で燃料補給しました。


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県民の森にあった看板です。
大野城は四王寺山の山頂の外周部に築かれた事が判ります。
なお、大野城跡は日本100名城に選ばれており、スタンプもこのセンターに置かれています。


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県民の森センターに置かれた礎石。
宇美口の城門の礎石だと思われています。
四王寺川の川底から見つかったそうです。


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百間石垣は大野城跡の北側にある大きな谷部につくられた石塁で、大野城の石塁の中では、最も大きいものです。水害により流出してしまった部分も含めて長さ約200メートル、最高の高さは約6メートルありました。


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百間石垣の続き。

ここから坂本口まで、大野城の土塁跡を反時計周りに歩きました。


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写真の低くなったところがクロガネ岩城門跡。
この城門は平成24年の発掘調査で見つかったそうです。


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クロガネ岩城門跡です。


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変わった草を見かけました。
最初はウツボカズラと思いましたが、帰ってググると、アオマムシグサ(左)とテンナンショウ(右)と言うそうです。


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毘沙門堂。


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北側から西側にかけては、土塁跡沿いに遊歩道があるので、かつての城跡を予想しながら歩きました。


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毘沙門堂を出て少し歩いた所で道を間違え、大城自然の宝道を下ってしまいました。
そのおかげで途中の展望台から博多方面が見渡せました。
展望台で気付けば良かったのですが、その後も道を下って、ほぼ大城林道付近まで下ってしまい、再び急坂を上る羽目になりました(笑)。


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展望台からの景色。
中央の緑の帯状になった所が、もう一つの大宰府政庁の守り、水城跡です。
政庁への街道を遮断するように作られていますが、平地に築かれているので、西側から迂回されそうですね。


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大野城跡の遊歩道に戻り、水城口に向かいます。
写真は水城口の近くにある、けいさしの井戸。


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水城口城門跡です。


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大石垣の近くにある、坂本口跡。
ここは、看板が無く、写真の礎石も岩の上にあるので登山道からは見難く、坂道を下ったり登ったり、結構うろうろしました。
ここにも看板を設置して欲しいです。


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坂本口跡から下山しました。
出口にも立派な石垣がありましたが、これは後世のものでしょうね。


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下った所にあった、坂本八幡宮。
時刻は14時を過ぎており、昼食も取らずに歩いたので、お腹が空きました。
この神社の横で出店が出ていたので、肉まんと葛餅で昼食を取りました。


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お腹も落ち着いたので、近くにある大宰府政庁跡を見学しました。
写真は正殿跡です。


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南門跡です。
背後の山が大野城のあった四王寺山(大城山)です。


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西鉄都府楼前駅で今回の旅は終わりです。
時刻は14:50でした。

終わり

お城めぐり(2020年秋冬編)

2020年は日本百名城、続日本百名城を中心にお城巡りをしました。
今回は、お城めぐり(2020年夏編)の後の行動を紹介します。


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10月に折り畳み小径車のTern号で八王子城と滝山城を訪問してきました。

八王子城は北条氏の本城である小田原城の支城であり、北条氏の関東支配の軍事上の拠点でした。
北条氏康の三男・氏照は当初滝山城を居城としていましたが、永禄12年(1569年)に小田原攻撃に向かう武田信玄の軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移しました。
氏照は元亀2年(1571年)頃より築城を開始し、天正15年(1587年)頃に本拠としたようです。

天正18年(1590年)、小田原征伐の際に、豊臣秀吉の軍勢である上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められました。当時、城主の氏照以下の主な家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀ら、わずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠りました。
北条軍は寡兵でよく耐えましたが、搦め手を破られ一日で落城しました。


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八王子城の城郭部分は山上に築かれましたが、御主殿などは麓に作られていました。
小田原征伐の際に、氏照の正室・比左を初めとする城内の婦女子も落城と共に自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられています。


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織豊期に築かれた城は平山城が多いですが、八王子城の本丸は標高445 mの山頂に築かれた戦国式の山城でした。

八王子城は日本100名城に選定されています。


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滝山城は八王子城に移る前の北条氏の関東の拠点でした。
永正18年(1521年)に、山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重、定久が築城したと言われています。天文15年(1546年)、北条氏康が河越の戦いで扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を武蔵から排除すると、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、北条氏の軍門に下りました。
その後、北条氏照は滝山城を大改修しました。

滝山城は多くの曲輪を連ねた堅牢な城で、写真は本丸(左側)と中の丸(右側)の間の大堀切です。

北条氏照が八王子城に移った後の経緯は不明確で、天正18年(1590年)の豊臣秀吉方の小田原征伐の際に落城したとも言われていますが、真相は不明。

滝山城は続日本100名城に選定されています。


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10月後半には、春風4号(パナチタ)で大洗水戸-笠間ー土浦を走って来ました

水戸城は、建久4年(1193年)に源頼朝よりこの地を与えられた馬場資幹が築城したと伝えられています。その後、馬場氏よりこの地を奪った江戸氏が165年間この地を支配しました。その後は、佐竹氏の支配の後に徳川家の支配となりました。慶長7年(1602年)に徳川家康は、この地を五男の武田信吉に与えましたが、翌年、彼は嫡子を残さず死去したため、十男のに徳川頼宜に与えました。頼宜が慶長14年(1609年)に駿府に転封(後に紀州に転封し紀州徳川家となる)した後、家康の十一男の鶴千代丸(徳川頼房)が移ってきて、徳川御三家の一つ、水戸徳川家の祖となりました。

写真の大手門は、2020年2月4日に復元されました。

水戸城は日本100名城に選定されています。


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笠間城は、鎌倉時代よりこの地を支配した笠間氏の居城です。
天正18年(1590年)の小田原征伐の後に断絶(理由は不明瞭)した後に、蒲生郷成が入城し織豊系城郭に改修されたと考えられています。
関ヶ原の戦い以降は、松平氏、小笠原氏他、多くの大名が短期間で入れ替わりましたが、延享4年(1747年)に牧野貞通が入城し、牧野氏8代が明治まで居城しました。

戦国式の本格的な山城ですが、佐白山山頂の天守曲輪は石垣が築かれています。その石垣も、東日本大震災で被害を受けたようで、今も傷跡が残っていました。

笠間城は続日本100名城に選定されています。


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笠間から土浦まで自転車でりんりんロードを走る途中、小田城に立ち寄りました。
小田城は鎌倉期から戦国期まで、小田氏の居城でした。
戦国時代の小田氏は、佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと抗争を繰り返しました。
鎌倉時代の館が元になっているため、戦国期の城としては珍しく、平城です。


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土浦城は永享年間(1429年から1441年)に小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城しましたが、永正13年(1516年)に、小田氏の部将・菅谷勝貞によって城は奪われました。戦国期に小田氏は上杉・佐竹勢に圧迫され、永禄12年(1569年)の手這坂の戦いで大敗し小田城を奪われ土浦城に逃れました。
その後、小田氏は佐竹氏の軍門に下りますが、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、北条側に付いたため豊臣側の軍勢に攻められ滅亡しました。
その後、徳川家康の次男の結城秀康や、松平氏、西尾家・朽木家と城主が代わり、寛文9年(1669年)に、土屋数直が4万5千石で入封し明治まで支配しました。
写真の太鼓櫓門は、明暦2年(1656年)に朽木氏が城主の時代に改築されたもの(現存)です。

土浦城は続日本100名城に選定されています。


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11月には春風4号で三浦半島を走って来ました
北条氏の支配した頃、房総半島の里見水軍がしばしば攻撃してきたため、北条氏康が三崎城の支城として、写真中央右側に見える明神山に浦賀城を築きました。


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三崎城は、油壺湾北側にあった三浦氏の居城である新井城の支城として作られたと考えられています。
永正15年(1518年)伊勢盛時(北条早雲)が三浦氏を滅ぼした後、房総の里見氏への備えとして盛時(早雲)によって大規模な改築が行われました。
後に盛時(早雲)の孫の北条氏康が、息子の氏規を三崎城主とし三浦半島の支配の要としました。
豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡し、この城も廃城となりました。


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現地にあった、三崎城の縄張り図。


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11月に仕事絡みで福岡の自宅に戻った時の週末(11月21日)に唐津~佐賀を訪問してきました。
文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣の寺沢広高が唐津に封ぜられました。
広高は関ヶ原の戦いで東軍方につき、12万3千石に加増され、慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成しました。
正保4年(1647年)に寺沢家が断絶となった後は、譜代大名5家が入れ替わりました。
文化14年(1817年)に、後に天保の改革を行った水野忠邦が遠江国浜松城に転出後、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城し、以後明治維新まで小笠原氏の居城となりました。

唐津城は続日本100名城に選定されています。


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佐賀城の元は、龍造寺隆信が築城した龍造寺城(別名:村中城)が元になっています。
主家滅亡後、江戸幕府に佐賀藩主と認められた竜造寺家臣の鍋島直茂が、慶長7年(1602年)に改修を始め、次の藩主の鍋島勝茂が慶長16年(1611年)に完成させました。

佐賀城は日本100名城に選定されています。


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佐賀城の近くには竜造寺隆信の誕生地の碑もあります。


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佐賀城を訪問後、弥生時代の遺跡の吉野ヶ里に行きました。
紀元前5世紀から始まる弥生時代、日本で稲作の文化が始まり村(クニ)が形成されました。
弥生時代後期には村の防御のために、外壕と内壕の二重の濠で囲まれた環濠集落が形成されました。
吉野ヶ里は我が国最大の遺跡で、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲み、壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施され、敷地内には物見櫓までありました。
日本の城の原点と言えます。

吉野ヶ里は日本100名城に選定されています。


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11月23日、福岡から東京に戻る途中、姫路城を攻城しました。
南北朝の争乱で足利尊氏に呼応し挙兵した赤松則村の次男・赤松貞範が1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)に姫山城として築城。
戦国時代後期に、黒田氏や羽柴氏が城代になると本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって播磨52万石の居城として、現在の規模の城郭へと拡張されました。
江戸時代には、西国の外様大名監視のために西国探題が設置されましたが、譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、頻繁に城主が変わりました。
現存12天守の一つで、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物が重要文化財に指定されています。1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産にも登録されました。

もちろん姫路城は日本100名城に選定されています。


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12月19日、パシフィコ横浜ノースで開催された「お城EXPO 2020」を訪問しました。
メイン会場は各地の自治体等が、お城を紹介するブースで御城印なども販売されています。
本来御城印は攻城時の記念品だと思いますが、私もEXPOで何枚も購入しました(笑)。
公式お城グッズも販売されていましたが、コロナの影響で特設会場で人数制限をかけていたので、入場を断念しました。(夕方の整理券は入手できそうでしたが、そこまで待てなかったので。)

写真は江戸城天守閣の模型です。


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そして、EXPOで特別販売していた、江戸城の御城印もゲットしました。


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12月26日-27日と、年末年始の帰宅の途中、愛知、岐阜の城を回ってきました。

岩村城は、鎌倉幕府の源頼朝の重臣加藤景廉の長男、遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めました。
遠山景任が城主の時の元亀元年(1570年)、甲斐国の武田氏の家臣の秋山虎繁が東濃に侵攻しましたが、織田方の武将、明智光廉が小田子村でこれを撃退しました(上村合戦)。
元亀2年(1571年) 12月3日に景任が病没すると、信長は5男で幼少の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とし、信長の叔母のおつやの方が、防丸の後見となり差配を振るいました。
元亀3年(1572年)10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に秋山虎繁が岩村城を包囲。織田方の後詰も無かったため、翌元亀4年(1573年)3月に虎繁がおつやの方を妻に迎える条件で岩村城は落城しました(岩村城の戦い)。

天正3年(1575年)の長篠の戦いの後、織田信長は岩村城を奪還し、河尻秀隆を城主としました。
河尻秀隆と、団忠正の短い支配の後に城を継いだ、森長可、森忠政により岩村城は近代城郭に改築されました。。
森家の後は田丸氏、松平氏、丹羽氏、松平氏と城主が変わり明治を迎えました。


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写真は本丸北東部にある六段壁と呼ばれる高石垣です。
城山山上には石垣造りの強固な城が築かれており、日本三大山城の一つに数えられています。

また、岩村城は日本100名城に選定されています。


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現地にあった岩村城の縄張り図です。


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犬山城は、文明元年(1469年)、応仁の乱の最中に 岩倉織田氏当主の織田敏広の弟・織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれています。
天文6年(1537年)、織田信秀の弟・織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移りました。
織田信康の子の織田信清、池田恒興、織田勝長、織田信雄配下の中川定成が城主となりました。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、信雄方と見られていた大垣城主・池田恒興が突如奇襲をかけ、信雄方から城を奪取し、犬山城は尾張国における西軍の橋頭堡となり、さらに羽柴秀吉はここに本陣を敷いて小牧山城の徳川家康と対峙しました。
その後は、織田信雄、豊臣秀次、石川貞清、小笠原吉次、平岩親吉と城主を変え、元和3年(1617年) に尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、明治まで成瀬家9代の居城となりました。

犬山城は、江戸時代までに建造された「現存天守12城」のひとつで、また国宝天守の5城のうちの一つです。

また、犬山城は日本100名城に選定されています。


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小牧山城は、織田信長によって濃尾平野の独立峰である小牧山に築城された城で、美濃攻めのための急造の城と思われていましたが、その後の調査で清州城に代わる新たな拠点として築かれた城郭と判りました。
永禄10年(1567年)に斎藤氏の稲葉山城の落城で、信長が本拠地を稲葉山城に移したために、小牧山城は廃城となりました。
小牧山城は山頂に向かって直線で伸びる大手道や、石垣で囲まれた本丸など、後の織豊系城郭と呼ばれる城の原点であると考えられています。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康の本陣となり、犬山城の豊臣方と対峙しました。

小牧山城は続日本100名城に選定されています。


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小牧山城の周りには武家屋敷が配置されており、写真の区画は最も広く、織田信長の居館跡と考えられています。


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現地にあった小牧山の案内図。


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明智城は、康永元年(1342年)美濃源氏の流れをくむ土岐頼兼が「明智」と改名して、この城を築き、その後約200年の間、明智氏代々の居城として栄えました。
弘治2年(1556年)9月、稲葉山城主斎藤義龍軍3700余の攻撃を受けました。明智城代明智光安は870余人で籠城しましたが、2日間の攻撃の後に落城。明智光秀も籠城していましたが、落城が迫るなか、光秀は光安から明智家再興を託され、明智城から逃れたそうです。


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明智城の散策マップです。
地形を利用した多くの曲輪が作られた、典型的な戦国期の山城です。


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美濃金山城は、天文6年(1537年)に尾張国侵攻のため斎藤道三の命令で猶子の斎藤正義が築城し、烏峰城と名付けられました。
その後、織田信長が美濃国を領地としたため、永禄8年(1565年)に家臣の森可成が城主となり兼山城と改称しました。 元亀元年(1570年)に近江宇佐山城の戦いで可成が戦死し、その直前に長男の可隆も天筒山城で討ち死にしたため、次男の長可が城主となりました。
天正10年(1582年)長可が信濃国川中島に転封されると、弟の森成利(蘭丸)が城主となりましたが、成利は同年中に本能寺の変により討死し、再び長可の領地となりました。天正12年(1584年)に長可が小牧・長久手の戦いで戦死すると、可成の六男の忠政が城主となりました。
慶長5年(1600年)に森氏が川中島藩に転封されると、城は石川貞清の所有となりましたが、建物は解体され廃城となりました。

美濃金山城は続日本100名城に選定されています。


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美濃金山城のマップです。
各曲輪は石垣で固められ、本丸には天守閣も建っていたようです。


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久々利城は、延元・正平年間(1336年-1370年)に土岐康貞が築城しました。戦国時代には康貞の末裔久々利頼興の居城として東濃に勢威を誇りましたが、天正11年(1583年)に金山城主の森長可に攻められ陥落、以後は森家家臣・戸田勘左衛門が城代となりました。
慶長5年(1600年)に森家が信濃に転封となると廃城となりました。


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久々利城の縄張り図です。


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岐阜城は、建仁元年(1201年)に二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされています。
その後、一時廃城となっていましたが、15世紀中頃に美濃守護代の斎藤利永が城を修復して居城としました。
岐阜城は、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)、その子の斎藤義龍、更には織田信長という戦国乱世を代表する武将が居城としました。
織田信長が本能寺の変で没すると、織田信孝、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信(幼名・三法師)らが城主を務めましたが、慶長6年(1601年)に 徳川家康が岐阜城を廃城としました。

岐阜城は日本100名城に選定されています。


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大垣城は、天文4年(1535年)に宮川安定が築いたといわれています。この当時は、牛屋城と呼ばれていたようです。近世に織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移った後、この地域の支配権を獲得した豊臣秀吉により、天正11年(1583年)に池田恒興が城主となりました。
その後、池田輝政、一柳直末、伊藤盛景が城主となり、江戸時代に入り、徳川家康は譜代の石川康通を城主にし、その後寛永12(1635年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となりました。

大垣城は続日本100名城に選定されています。


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清洲城は、応永12年(1405年)に、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城されたようです。
その後は清洲織田氏の居城であり、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能しました。
弘治元年(1555年)織田信長と結んだ織田信光によって守護代の織田信友が殺害され、以降織田信長が那古野城から移り、その後約10年間本拠として居城しました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、徳川家康の四男・松平忠吉が入りますが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると、慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となりました。
慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令され、慶長18年(1613年)に名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となりました。


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年末年始に福岡に帰宅した際の1月2日に久留米城を攻城してきました。

久留米城は室町時代後期の永正年間(1504年 - 1521年)に、この地の土豪が篠原城と称した砦程度のものを築いたのが始まりと言われます。天文年間(1532年 - 1555年)は、豊後国の大友宗麟と肥前国の龍造寺隆信が争っており、度々城主が入れ替わりました。
天正15年(1587年)豊臣秀吉が九州を平定すると、大友宗麟の娘婿である毛利秀包(羽柴久留米侍従)が13万石で筑後久留米に封じられ、織豊期城郭への大改築を行いました。

秀包は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため改易となり、筑後国には田中吉政が32万5千石で封じられ柳川城を本城としました。久留米城は柳川城の支城として、二男の吉信が城主となりました。しかし元和6年(1620年)、吉政の子の忠政は嗣子なく没したため、筑後柳川藩は改易となり、かわって元和7年(1621年)、丹波国福知山城主有馬豊氏が21万石で封じられました。(柳川には立花氏が入城。)幕府の御墨付きを獲た豊氏は、隣国筑前黒田家の助力も得、大規模に城を拡張し、以後、明治維新まで久留米は有馬氏の居城となりました。

久留米城は続日本100名城に選定されています。


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2021年1月3日-4日に家族で温泉宿泊施設に泊まった際、早朝に施設の裏にある許斐城を攻城しました。

大治5年(1130年)宗像大宮司第15代氏平が姓を許斐と改め、許斐城を築城しました。
明応8年(1499年)に蔦ヶ嶽城(城山)城主に攻められ、許斐城は廃城となりました。
享禄2年(1529年)、宗像家家臣占部越前守豊安がこの城を再営し、その後、許斐佐馬大夫氏備が城主となりましたが、天正15年(1587年)の宗像家の断絶の時に、この城も廃城となりました。

終わり

大洗ー水戸ー笠間ーりんりんロードの旅 その3

2020年10月24日-25日に茨城県を旅してきました。

10月24日は、大洗水戸を見学後、水戸に宿泊。
明けて二日目は、笠間経由でりんりんロードを走りました。

前日に水戸城の御城印を買い忘れたため、観光案内所が開く9:00まで出発を待つか悩みましたが、やはり出発が遅くなるので諦めました。。。
後ろ髪が引かれまくり状態で水戸を出発。

しばらく桜川沿いを走り偕楽園から梅が丘通りを西に走り、バイパスで国道50号に合流し笠間に向かいました。そのまま国道50号線を走れば笠間市街には入れたのですが、笠間の手前で国道を離れ南下し、ひと山超えました。


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通った道は大山祇神社から、笠間つつじ公園へ抜ける山道です。
山道を昇った峠には、笠間百坊旧跡があります。


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笠間百坊旧跡の向かいには「千人溜り跡」と呼ばれる曲輪跡があります。
そう、笠間に来たのは、本日二つ目の攻城目標である、笠間城跡に来るためです。
なお、千人溜り跡は、現在は駐車場となっています。


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笠間城は山城のため、私も自転車を駐輪して攻城に向かいます。
地球ロックできる場所が見つからず、山に立つ看板にロックしました(笑)。

なお、笠間城の周囲には全く観光案内の看板がありません。駐車場から山(この看板方向)に向かって左右に道が伸びていますが、笠間城は左側の道を上がります。
私は反対側から来たので無理でしたが、できれば、笠間市の観光案内所である井筒屋で地図を確認してきた方がよいと思います。


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山道を上り始めると、大手門跡の碑が立っています。
この屈曲部分に門が建っていたのでしょう。

この道が正しいか判らいまま上ってきたので、この大手門の碑を見てホッとしました(笑)。


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大手門付近には石垣が残っていました。
笠間城は土塁の城が多い関東には珍しく、石垣に囲まれた城でした。


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少し上ると、本丸への虎口に着きました。
虎口の付近にも、しっかり石垣が残っていました。


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本丸部分は、かなり広いです。


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本丸西側には高い土塁が築かれており、その上に八幡台櫓跡の碑があります。


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この城の面白いのは、本丸の西側に、堀切で区切られた天守曲輪があるところ。
堀切を渡ると、更に石段が続きますが、ここが天守曲輪です。


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そして、石段を上ると、立派な石垣のある天守台に着きます。


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山頂には佐志能神社の社殿が建っていますが、この社殿は廃城後の天守の廃材を利用して造られているとのことです。

なおこの天守曲輪は、震災後一時入れなかったようですが、石垣や階段が少し崩れていたのは震災の傷跡なのでしょうか?


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佐志能神社の手水は大きな巨石をくりぬいて作られていました。

笠間城は鎌倉時代にこの地を支配した笠間氏によって築かれましたが、蒲生氏郷の嫡男・秀行が慶長3年(1598年)に宇都宮18万石に減封された際、重臣の一人である蒲生源左衛門郷成(げんざえもん・さとなり)が城主として入城しました。
そして、郷成により笠間城は整備拡張され、石垣で囲まれた近世城郭へ変身したそうです。



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笠間城を出て、自転車で笠間市に下ると、陣笠を被った武士の像が見えました。
初代の播磨赤穂藩主の浅野長直は、赤穂に移る前は笠間藩主であり、筆頭家老を務めた大蔵家の屋敷がここにあったそうです。
赤穂浪士で知られる大石内蔵助良雄像が建っていたが笠間藩とは全く関係無いそうです(笑)。
(この地に住んでいたのは、彼の曽祖父と祖父。)


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大内邸のあったと思われる場所です。


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かさま歴史交流館井筒屋です。明治中期に建てられた木造3階建物「旧井筒屋本館」をリノベーションしたそうです。続日本100名城スタンプや笠間城のちらしも、ここに置かれています。


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建物の内庭にサイクルラックも準備されていました。
自転車乗りへの細かな気配りが嬉しいです。


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この日、笠間では菊祭りが行われており、井筒屋も菊で飾られていました。

ここから北に少し行った所にある真浄寺には、笠間城の八幡平櫓が残っていますが、行くの忘れてた!


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井筒屋の正面に延びる道が、笠間のメイン通り(?)、門前通りです。
御影石で舗装され、良い雰囲気の通りでした。


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通りの途中にある笠間稲荷神社。
ここも菊で飾られています。


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稲荷神社に向かう参道は、菊と傘で飾られていました。


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晴天の元で和傘の模様が美しい。


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オレンジも綺麗。


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日本三大稲荷のひとつ、笠間稲荷神社の楼門です。
前には「菊まつり」の文字が菊で作られていました。


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御本殿は江戸時代の末期安政・万延年間(1854~1860)の再建で、昭和63年に国の重要文化財に指定されています。


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コロナ感染予防のため、手水は使われていませんが、ここも菊の花で覆われていました。


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門前通りには、足を止めたくなるような店が並んでいました。
これまで、知りませんでしたが、笠間は結構観光客が来る町のようです。
笠間城のついでに立ち寄っただけですが、私も、気に入りました。


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下水のマンホールも菊の模様。


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笠間を出た後は、再び国道50号線沿いを走って、岩瀬駅に到着。


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岩瀬駅は「りんりんロード」の始発ポイントです。


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と言っても、りんりんロードの始発(終着)点は駅の南側なので移動してきました。
この時、時刻は11時を少し過ぎたところで、昼食には少し早いので、昨日買った干芋で栄養補給中(笑)。



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りんりんロードは旧筑波鉄道の跡に造られたサイクリングロードで、ほぼ平坦な道が土浦まで続いています。
自転車は反対を向いていますが、最初は正面の筑波山を目指して進みました。


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旧筑波鉄道の路線跡を利用しているので、ホームも残っています。


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岩瀬から約10kmの所にある、真壁休憩所です。

りんりんロード沿いにはコンビニはおろか、自販機もありません。
少し手前で見つけた県道41号線沿いのファミリーマート 桜川白井店で、おにぎりを購入していたので、ここで昼食にしました。


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真壁休憩所から約10kmの所にある筑波休憩所。


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筑波山を背景に記念撮影。


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しばらく走ると小田城跡に着きます。
かつての筑波鉄道は、小田城跡を突き切って走っていたようですが、りんりんロードは小田城跡を回り込むように設けられています。

小田城は、鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城でした。
戦国期に後北条氏と結んだ小田氏治は、永禄7年(1564年)に山王堂の戦いで上杉謙信に敗れるなど苦戦を強いられ、激しい小田城争奪戦が繰り広げられました。天正元年(1573年)の手這坂の戦いに敗れ、小田城は佐竹氏のものとなりました。


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本丸東側に大手口があり、その外に大手を守る東曲輪が築かれています。


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広い本丸跡。


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南西部には馬出曲輪があります。
手前の道は、りんりんロードです。


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再びりんりんロードに戻り走っていると、土浦の手前で、れんこん畑が広がっていました。
と言っても、この時期れんこんは植わって無く、青い水が張られているだけでした。


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13:40に土浦駅に到着しました。
土浦でもう一カ所寄りたい所があるのですが、まずはりんりんロードを完走するために一旦駅まで来ました。

霞ケ浦は2019年11月17日(日)に一周したので、これで、りんりんロードは走破しました。


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土浦で行きたかったのは、今回の旅で最後のお城、土浦城です。
前回、霞ケ浦を走った時も来たのですが、続日本100名城のスタンプと御城印をゲットしていなかったので、再訪しました。

写真は1620年に建てられたとされる西櫓。1949年の台風で破損しましたが、その部材を使って1992年に復元されました。

土浦城は、小田城の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初と言われています。
戦国期、上杉・佐竹勢に圧迫された小田氏治は、小田城を逃れて土浦城に入ったそうですが、秀吉の小田原征伐で後北条氏に着いたので滅亡。その後に関東に入った徳川家康の息子、結城秀康の支城に土浦を与えました。
1601年に秀康が越前国に移ると、松平信一が土浦城に入り、その後、西尾氏、朽木氏、土屋氏と支配が変わりました。


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土浦城の御城印です。
江戸期に土浦を支配した、松平信興の家紋「三つ扇」と土屋家の家紋「三石畳」が描かれています。


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本丸内にある現存の太鼓櫓門。
1601年に建て替えられたものだと伝えられています。1656年の改築時に櫓門へと改修されました。


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1998年に再建された東櫓です。
東櫓の右に見えるのは、1684年に建造された現存の霞門。


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土浦城の見学後、再び土浦駅に戻って、15時に電車に乗りました。

筑波山を見ながら田舎道を走るのは気持ち良かったです。
りんりんロードは、また走ってみたいと思いました。

終わり

大洗ー水戸ー笠間ーりんりんロードの旅 その2

2020年10月24日-25日に茨城県を旅してきました。

10月24日の午前中に大洗を見学後、13:30に水戸に移動してきました。


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水戸駅の北側、柵町城東通り沿いに、漫遊記で有名な水戸黄門像が立っていました。


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水戸黄門像の北側には義公祠堂(水戸黄門神社)が建っています。
水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男「義公」こと徳川光圀(水戸黄門)は寛永5年(1628年)に、この地にあった家臣三木仁兵衛之次の屋敷で生まれ、4歳まで三木家の子として養育されたそうです。


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二の丸角櫓です。
新しい建物とは思いましたが、2020年の夏に完成したばかりだったのですね。


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そして2020年2月に完成した大手門です。
木材が新しく、初々しいです。


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大手門内側の枡形です。


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二の丸と三の丸を隔てる大堀切です。


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二の丸内には、いくつか学校が建っていますが、その門は薬医門になっていました。


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二の丸内には天守代わりの巨大な三階櫓(内部は5階構造)が建っていましたが、太平洋戦争時の米軍の空襲で焼失したそうです。


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二中見晴台から、城の北側、那珂川方面が見渡せます。


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二の丸北側にある杉山門。


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二の丸から本丸にわたる橋です。


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二の丸と本丸も堀切で仕切られています。
今は堀切の底に鉄道が走っています。


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水戸城で唯一現存している薬医門です。
元は二の丸から本丸に入る橋のたもとに建っていたようですが、本丸跡に建つ水戸第一高校の敷地内に移築されています。


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本丸跡には薬医門以外は土塁しか残っていませんでした。


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大手門のそばに建つ徳川斉昭像。
斉昭は常陸水戸藩の第9代藩主で、江戸幕府第15代(最後)将軍徳川慶喜の実父です。
聡明で幕末の幕政にも参加し、強硬な攘夷論を唱えましたが、井伊直弼との政争に敗れ自宅に蟄居させられました。


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三の丸に建つ藩校・弘道館です。


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正庁と呼ばれる弘道館の中心的な建物の正席の間。
公的な行事で藩主などが臨席した場所です。


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ピンぼけですが、浴室です。床が中央に向かって傾斜し、お湯が床下に流れるようになっています。


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「大日本史」は、水戸藩2代藩主の徳川光圀の命で明暦3年(1657年)に編纂が始まり、明治39年(1906年)に完成した歴史書です。


弘道館の見学後、この日に停まるホテル、コートホテル水戸に行ってチェックインしました。


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ホテルで少し休息した後、歩いて水戸駅(正面)に行きました。


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再び、二の丸角櫓を見た後、夕食を買い込みホテルに戻りました。
この時、御城印の購入すればよかったのですが、完全に忘れていました。
水戸駅内の観光案内所で売っていたはずでしたが。。。


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ホテルのロビーのハロウィーンの飾りつけ。


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この日の晩飯はコンビニ弁当とビールでしたが、水戸駅で大洗のお酒も購入しました。
ガルパンとのコラボ日本酒です。


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そして、茨木と言えば干芋ですね!


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コートホテル水戸は部屋に自転車を入れさせてくれました。
夜間外に停めるのは不安なので、大変ありがたいです。
あと、相棒と一緒にお酒を飲めるのも嬉しいし(笑)。

二日目に続きます。

大洗ー水戸ー笠間ーりんりんロードの旅 その1

2020年10月24日-25日に茨城県を旅してきました。
今回は、アニメ、お城、そして自転車と私の趣味満載の旅行でした(笑)。


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品川からJRの特急ひたち1号で水戸まで移動し、鹿島臨海鉄道に乗り換えました。


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鹿島臨海鉄道は交通系ICカードが使えないので、久しぶりに切符を買いました。


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最初に乗った車両は普通でしたが、前の車両に移ると、ガルパン一色でした!
そう、大洗はアニメ ガールズ&パンツァー(ガルパン)の聖地です(笑)。
私は中学生の頃からタミヤ模型のMMシリーズで戦車に親しみましたが、最初にガールズ&パンツァーズを知った時は、「けっ、戦車と女子高生って受けを狙った邪道なアニメ。」って印象でした。
でも、試しに見てみると一発で好きになりました。舞台設定は無茶ですが、戦車がリアルに描き込まれています。更に「パンツァー・フォー」の掛け声や「パンツァ-・リート」のBGM等、戦車好き、戦争映画好きにはドはまりのアニメです。
画風に似合わず、パンチラ等の萌え要素も無く、女子高生のスポコンアニメとも言われています。

今回は、主にガルパンの紹介となるので、アニメに興味が無ければ読み飛ばして下さい(笑)。


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水戸から自転車で走ろうかとも思いましたが、アンチョビも言っているとおり、鹿島臨海鉄道に乗らないと!


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降りるときに確認すると、外も痛電車でした。
この車両は劇場版最終章公開を記念した、ガルパン列車IV号車との事。

ちなみに主人公たちが乗る戦車が、有名なタイガー戦車やパンター戦車でなく、IV号戦車だったこともマニア好みな設定でした。


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大洗の町はガルパンだらけ。
駅前にはあんこうチームの等身大パネルが置かれていました。


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でも、大洗は漁業の町でもあり、駅前にはカジキ取りの碑もありました。


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駅を出て最初に、大洗サンビーチに行きました。
この日は波が高く、多くのサーファーが集まっていました。


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そこから見た、大洗の町です。


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海沿いにある商業施設、大洗シーサイドステーションです。


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ガルパン劇場版で知波単学園の福田が九五式軽戦車で走り抜けた渡り廊下です。


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そして九五式軽戦車が下ったエスカレータ。


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シーサイドステーション内に停まっていた痛バス。
ガルパン応援ラッピングバス3号車として、2014年11月から運航し今回引退したそうで、10月25日までここに展示されているそうです。


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そして駐車場には痛車が停まっていました。


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そして痛スーパー(笑)。
商業施設はまだ開店前だったので、開店まで町中の観光をしました。


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大洗のシンボル、大洗マリンタワー。
劇場版では、ここに大型スクリーンが設置され、一般観衆の試合の観覧場所になっていました。


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町中は未だにガルパンだらけ。
この店は、明治時代から続く歴史の長い老舗の反物・呉服店、やまとさん。
各店は自店のガルパンキャラを決めており、この店はアンツィオ高校のアンチョビです。


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TV版第4話および劇場版で戦車に突っ込まれて有名になった割烹旅館 肴屋本店さん。


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そして劇場版で激戦となった大洗町役場。
劇中では、激しい撃ち合いの結果、この町役場が完全に崩壊してました(笑)。


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特にガルパンとは関係無いですが、ネットで知った、惣菜 かじまさんがあったので立ち寄りました。


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ここではずわいがにたっぷりコロッケをたべました。
名前の通り、ずわいがにがたっぷり詰まっていますが、安い!


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この店のキャラは、大洗女子学園・レオポンチームのホシノです。
ホシノの等身大パネルの他に、ポルシェ・ティーガーのシールも貼られていました。


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たまたま見かけた、黒森峰女学園の逸見エリカのパネル。
お食事処 かま家さんです。
店の前に、スタンプラリーのスタンプが置かれていましたが、シートは何処で配布されていたのだろう?


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ガルパンから少し離れて、江戸時代に海防のために作られた磯浜海防陣屋跡を目指したのですが、何処から登るのか分かりませんでした。


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磯浜海防陣屋跡からは海が見えるそうですが、ここからはチラッと見えただけ。

失意の中(笑)、大洗シーサイドステーションに戻りました。
すでに多くの店が開店してましたが、一階には見慣れない車両の姿が見えました。


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地球連邦軍が一年戦争全期に渡って使用した汎用機動車両、「M72 1/2tトラック ラコタ」。
「ガンダム 0083」や「第08MS小隊」などに出てたそうで、「プラモデルを1/1で作る会」の制作だそうです。


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そして、ジオン軍軽機動車「サウロペルタ」も展示されていました。


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そして二階には、ファングッズを売っている、ガルパンギャラリーショップがあります。


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11時過ぎたので、とんかつハウス クックファンで定番の戦車カツを食べました。
TVシリーズの第10話で生徒会メンバーが食べた、戦車型とんかつです。
本店は水戸にあり、こちらは出店。
店舗が狭く、更にコロナで入場者を制限しているので、あっという間に満席になりました。開店ダッシュで入って正解でした。

なお、街中には、アンツィオ高校のペパロニ特製の鉄板ナポリタンが食べられる喫茶店 ブロンズもあるので次回はそちらに行きたいです(笑)。


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食事の後は大洗磯前神社に向いますが、途中で、大洗クリーニングさんを覗くと、島田千代が立っていました。選択が渋い。


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更に店内には大洗女子学園の制服がかかっていました。


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大洗海岸です。
劇場版でKV-2が待ち伏せしていた海岸です。
でも、激戦の末にここに移動してきたのですが、なぜここに来ることが事前に判っていたのでしょうか?


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KV-2の砲弾により破壊された大洗シーサイドホテルの壁には、今も生々しい傷跡が残っています!!?


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劇場版で何度か出てきた分岐点。
左に上ると大洗磯前神社に行きます。


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大洗磯前神社です。
斉衡3年(856)に創建されたとされていますが、永禄年間の兵乱によって社殿は焼失しました。
その後、水戸藩2代藩主 徳川光圀が元禄3年(1690年)に再建を初め、3代綱篠により享保15年(1730年)に、現在地に遷座されました。


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海へと続く参道の階段は、劇場版でⅣ号戦車とプラウダの戦車が駆け降りて行きました。


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大洗磯前神社は、海上の岩の上に建つ鳥居でも有名です。
ここから見る初日の出が美しいようです。


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アクアワールドに向かう大洗海岸通り沿いにある大洗公園から見た海岸線です。
先に見えるのがアクアワールドです。


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公園にはポルシェ軍団が駐車していました。
ずらりと並んですごい!


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劇場版のエキシビション戦の最終決戦の地、「アクアワールド茨城県大洗水族館」です。

ここで、今回の聖地巡りは終了です。
この後、水戸まで走りました。

続く

お城めぐり(2020年夏編)

仕事の多忙さ等でブログの更新が進んでいませんが、この夏は、福岡への帰省や出張の合間に、お城訪問を続けてきました。個別に紹介しても城だらけで面白みがないと思いますので、この夏に行った城を一気に紹介します。
と言っても、遺構も殆ど残っていない山城は地味なので(笑)、建物がある城を中心に紹介します。


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最初は自宅に帰った際に行った小倉城の紹介です。
慶長5年(1600年)に細川忠興が入封し、近世城郭として改築しました。
その後、寛永9年(1632年)に小笠原忠真が入封し、以後、幕末まで小笠原氏の居城でした。
当時は破風の無い天守閣でしたが、昭和の再建時に見栄えを重視して史実と違う形になりました。
でも見栄えは良いので(笑)、私は好きです。


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福岡から東京に戻る際に新幹線を途中下車して岡山県と兵庫県の城を訪問しました。
最初は備中松山城です。
日本100名城の一つで、現存天守12城の一つ。
城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と移り変わりました。


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続いて津山城です。写真の備中櫓は2005年に木造建築で再建されました。
(日本100名城)


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岡山城は宇喜多秀家、小早川秀秋、更に池田輝政の次男、池田忠雄と言った有名な武将が支配しました。(日本100名城)


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赤穂城は、池田長政の作った掻上城が元となっており、その後も池田政綱、池田輝興によって改修がされました。でもこの城は、忠臣蔵で有名な浅野家が藩主であった事で有名です。
日本100名城です。


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元和3年(1617年)、信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真へ、将軍徳川秀忠より築城命令が出て築かれたのが明石城です。しかし小笠原忠真は、寛永9年(1632年)に豊前小倉藩に転封となりました。その後も、この城では領主が何度も変わりました。
写真は、明石城の坤櫓(左)と巽櫓(右)です。
日本100名城です。


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続いて、福岡から東京に戻る際に新幹線を途中下車して山口県と広島県の城を訪問しました。
日本100名城の一つ岩国城は、慶長6年(1601年)に吉川広家がこの地に赴任し築いた城ですが、元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により廃城となりました。
この地には、吉川広家を始めとする吉川家の墓所もあります。


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三原城は、小早川隆景の居城で、小早川水軍の基地でもありました。


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日本100名城のひとつである福山城は、 徳川家康の従兄弟である水野勝成 が、西日本の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として築いた城です。現在長期改修中で、この日も天守閣には入れませんでした。


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再び福岡から東京に戻る際に新幹線を途中下車して京都府の城を訪問しました。
二条城は、徳川家康によって造営された城です。(日本100名城)
二条城と呼ばれた城は、この他に室町幕府13代将軍足利義輝の居城や、織田信長によって15代将軍足利義昭のために築かれた城があります。


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松山に出張した際に、週末を利用して愛媛県の城を訪問しました。
宇和島城は、中世期の城跡の上に藤堂高虎によって築かれた城郭です。
慶長19年(1614年)に伊達政宗の長男(庶子)伊達秀宗が10万石で入封し、そのまま明治を迎えました。
日本100名城の一つで、現存天守12城の一つ。


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大洲城は、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城し、近世の城郭として整備されました。
慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が転封され、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営されました。
正直、期待していませんでしたが、石垣も立派で日本100名城に相応しい城でした。


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今治城は慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城が始められ、慶長9年(1604年)に完成しました。日本100名城の一つで、日本三大水城の一つにも数えられています。


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松山城は、慶長7年(1602年)に加藤嘉明より築城が始まり、寛永4年(1627年)に完成しました。
当時は五重の天守が建っていましたが、松平氏の時代に三重の天守に改築されました。その後落雷で焼失した後、安政元年(1854年)にようやく再建され、現存しています。
こちらも日本100名城で、現存天守の城です。


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四連休を利用して東方の城を訪問しました。
写真は青森駅にあった青森三大佞武多、「弘前ねぷた(左)」「青森のねぶた(中央)」と「五所川原立佞武多(たちねぷた)(右)」の像です。


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弘前城は、津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地でした。
日本100名城の一つで、現存天守12城の一つ。
本来は石垣の上に建っていますが、今は石垣の改装のために本丸中央に移動されています。


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戦国期に九戸城の城主だった九戸政実は、南部一族の南部信直に対し天正19年(1591年)に兵を挙げました。しかし、南部信直は豊臣秀吉から領地安堵をとりつけていたため、豊臣政権への反乱とみなされ、関東、奥羽の諸将が鎮圧軍として派遣されました。これが豊臣政権による天下統一の最後の戦い、九戸政実の乱です。


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日本100名城の一つ、根城は青森県八戸市にあり、南部氏の一族である八戸氏の居城でした。
城の遺構は空堀等が残るのみですが、主殿や周囲の小屋が再建されています。


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主殿も見がいがありましたが、地面を掘り下げた竪穴式の納屋や鍛冶小屋なども再建されており、勉強になりました。それにしても、安土・桃山時代の建物の再建との事ですが、竪穴式???


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南部宗家は元は三戸に居城を構えていましたが、九戸の乱の後に九戸城に移り、文禄元年(1592年)に盛岡城を築き、居城としました。
江戸時代は南部氏の盛岡藩10万石の中心でした。
三の丸、二の丸、本丸とも石垣に囲まれた、堅固な城です。
日本100名城です。


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多賀城は、奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するための軍事拠点として、塩釜丘陵上に設置され、奈良時代から平安時代にかけて、陸奥国を支配するための政治・軍事・文化の中心でした。
平安時代の城ですが、日本100名城に選ばれています。


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多賀城の見学の後、日本三景の松島に行きました。
しかし、着いた時間が遅く、伊達政宗が再興した瑞巌寺は見学できませんでした。
この東北ツアーは、3月に行った「伊達政宗公の足跡を追って」で時間の都合で行けなかったリベンジでもありました。


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Go to Travelの影響か、今回はホテルが取りにくく、この日は仙台の江陽グランドホテルに泊まりました。私が一人旅で使うには豪華すぎる(笑)ホテルで、ロビーは欧州の彫像で飾られていました。
久しぶりに欧州の雰囲気を楽しめました。


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そして、わが主神(笑)アテナの像もありました!


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山形城は、最上氏の居城と築かれ、伊達政宗の好敵手だった最上義光が、慶長年間に城郭を拡大しました。江戸時代は、出羽57万石の本城となりましたが、元和8年(1622年)に最上氏が改易された後は、鳥居氏の居城となりました。(日本100名城)


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天正13年(1585年)に離反した大内定綱を伊達政宗公が攻め、大内氏の支城の小手森城を攻め落とし塩松地方を制圧しました。大内定綱が蘆名氏を頼って小浜城から逃亡した後、政宗公は小浜城を二本松氏攻撃の拠点とし約1年間滞在しました。
政宗の父、輝宗が二本松義継に拉致殺害された事件(粟之巣の変事)が起きたのも、この小浜城滞在期間中でした。


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政宗公が二本松義継を攻めるため小浜城に入った際、政宗の父・輝宗が、この宮森城に入りました。義継が降伏した際、輝宗の斡旋により敗戦の条件が緩和されました。10月8日、義継は輝宗に謝意を表すため宮森城を訪れました。その帰り際に突如輝宗を拉致しましたが、政宗は阿武隈川河畔で輝宗もろとも義継を銃撃して射殺しました(粟之巣の変事)。
この後、宮森城には白石宗実が入って塩松地方を押さえました。


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宮森城下に沸いている御前清水は、伊達輝宗を始め歴代城主の御用水だったそうです。


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猪苗代城です。
猪苗代氏は本家・蘆名氏に対して、反逆と従属を何度も繰り返し、最終的には、天正17年(1589年)の摺上原の戦いの直前に、猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、蘆名氏を滅亡に追い込むことになりました。


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摺上原の戦いは、天正17年(1589年)に、磐梯山裾野の摺上原で行われた伊達政宗軍と蘆名義広軍との合戦。この合戦で伊達政宗は大勝し、南奥州の覇権を確立しました。


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摺上原の戦いで、蘆名義広の危機を救って討ち死にした、金上盛備、佐瀬種常と、その子の平八郎常雄の三士を称えるために、会津藩主松平容敬が建立した三忠碑。


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若松城は蘆名氏の居城でしたが、当時は黒川城と呼ばれていました。
天正17年(1589年)の摺上原の戦いの後に、蘆名氏を滅ぼし伊達政宗公が入城しました。しかし豊臣秀吉の惣無事令に反したため、会津を召し上げられました。その後、蒲生氏、上杉氏の支配を経た後、会津松平家が藩主を務め、白虎隊で有名な幕末の会津戦争を迎えます。


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伊達政宗公の正妻である愛姫の実家である田村氏の居城、三春城です。


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麓の駐車場に痛車がありましたが、愛姫の痛車でした。


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最後は自宅に帰った際に行った福岡城です。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いの功績により、 黒田孝高(如水)・長政父子が筑前一国を受領し、豊前中津城から筑前名島城に入城しました。
しかし名島城は筑前52万石の居城としては手狭だったため、慶長6年(1601年)に警固村福崎に築城を開始し、7年後の慶長12年(1607年)に竣工しました。
写真は下之橋御門と伝潮見櫓です。
日本100名城です。

終わり


埼玉の原点に行ってきました。

一ヵ月以上前の話になりますが、2020年7月11日(土)に埼玉の行田に行って来ました。
今年は梅雨が長引き、7月に入っても雨ばかりでしたが、この土曜日の天気予報は曇りだったので、最近はまっているお城巡りに行きました。

JR高崎線の吹上駅で降り、と言いたかったのですが、品川から乗ったのがJR京浜東北線。
上野で乗り換えないといけなかったのですが、京浜東北線をそのまま乗り越し、気付いて引き返した結果1時間のロス(涙)。


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予定の1時間遅れで吹田駅で降り、まずは最初の目的地、さきたま古墳公園に向かって歩きました。
吹田駅から、行田での最終目的地、忍城まではバスがあるのですが、古墳公園までは行かない事と、20分待たないといけないので、歩いた方が早かったです。

忍城は北条家配下の成田氏の居城で、豊臣秀吉の小田原攻めの際は、石田三成を大将とする豊臣勢に攻められました。
堅城である忍城を攻めあぐねた豊臣勢は、総延長28キロメートルにおよぶ堤を作り水攻めにしましたが、先に小田原城が落城したため、成田氏は忍城を守り抜くことができました。
この戦いは「のぼうの城」で紹介され有名になりました。

上の写真は元荒川で、忍城から3kmぐらいありますが、当時はこの辺りまで水没したようです。


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古墳公園に着きました。

吹田駅を降りた時から雨が降り出し、古墳公園までの4kmの間、かなり強く降っていました。
電車の乗り換えミスによる1時間のロスが無ければ、降り出す前に着いていたのですが。。。

今、古墳公園には5世紀末から7世紀にかけて作られた前方後円墳8基と円墳1基が残っていますが、昭和の初期までは、円墳35基、方墳1基があったそうです。
これだけの古墳が、一カ所に集まっているのは全国でも珍しく、権力が集中していたのでしょう。


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公園の中には、江戸末期に建てられた古民家もありました。


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これだけの古墳群も想定外(笑)でしたが、この公園で始めて知ったのが、「埼玉県名発祥の碑」!
平安時代からあった行田市埼玉を中心とした埼玉郡が、この地域で最大の面積を持っていたため、明治時代に埼玉県となったそうです。
ちなみに、行田市の埼玉は「さきたま」と呼びます。
これまで全く疑問も覚えず「さいたま」と呼んでいましたが、普通に音読みすると「さきたま」ですよね!
「さきたま」が「さいたま」と変化するのは日本語としてはよくあるそうで、イ音便と呼ぶそうです。
ただし、埼玉郡の方は平安の時代から「さいたま」と呼んだそうです。


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そして、写真は古墳公園の南側にある前玉神社。
前玉も「さきたま」と呼び、埼玉と前玉がどちらが先かは不明ですが、多くの古墳を作るだけの権力が集中したこの地が「さきたま」と呼ばれ、その総社として「さきたま」神社も鎮座しました。


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この前玉神社は、実は浅間塚古墳の上に建っています。
前玉神社は平安時代からあったようですが、当時から古墳の上にあったのでしょうか?


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今でもこの地域の総社となっているようで、この日は多くの家族が新生児を連れてお参りに来ていました。


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コロナ対策か、手水はアジサイの花を浮かべて使えないようになっていました。
お洒落ですね。


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この写真は二子山古墳です。
全長138mの前方久円墳で、この古墳公園ではもちろん、武蔵国で最大の古墳です。
古墳の周囲は長方形の堀が二重に囲んでいます。


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全長53mの愛宕山古墳は、古墳公園で最小の古墳ですが、前方後円墳で、しっかり二重の堀で囲まれていました。


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丸墓山古墳は直径105mの円墳で、日本最大の円墳だそうです。
丘の高さは19mになり、使われた土の量は二子山古墳より多かったとも言われています。


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そして、1590年に忍城を水攻めにした際、この丘に石田三成が本陣を構えました。
この三成の本陣を訪ねるのが本来の目的でしたが、思いがけず埼玉県の由来の地を知りました。

丘の上から忍城の御三階櫓が見えましたが、写真でははっきり写っていません。
ここから忍城まで約3kmありますが、当時はこの広い一帯が水に浸かっていました。


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丸墓山古墳の南側の道は、石田三成が築いた堤防の跡「石田堤」です。


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忍城まで歩く途中、新忍川の横にサイクリング道がありました。
その名前が、ポタリングルート!
ポタリングの名前をつけた道は初めて見ましたが、自転車の事をよく知る人が関わっていたのでしょうね。


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かつては忍城を囲む沼地の一部だった水城公園です。
忍城は広大な沼地に点在する島を曲輪とした堅固な水城で、戦国時代に何度も攻められましたが、一度も落城しませんでした。


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江戸時代になり、1639年(寛永16年)に老中の阿部忠秋が入ると城の拡張整備が行われ、孫の正武の代に御三階櫓などが築かれ完成を見ました。
今の御三階櫓は、当時の図面などを参考に1988年に再建されました。


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御三階櫓の横に建つ高麗門。


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城の北の角に建つ鐘楼。


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昔の縄張り図で、当時は水色の部分が沼地となっており、水城だったことが良く判ります。


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行田市郷土博物館で販売している忍城の御城印です。
歴代城主の家紋が並んでおり、上から、成田氏、大河内松平氏(松平信綱)、阿部氏、奥平松平氏のもの。


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忍城の見学の後、秩父鉄道の行田市駅に出て、寄居に向かいました。


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秩父鉄道の電車は花が満開でした(笑)


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寄居駅で降りて南に歩き、鉢形城跡に来ました。

鉢形城は荒川南岸に広がる城で、北条氏康の四男氏邦の入城後、北条氏の関東支配の拠点として強化されました。
天正18年(1590年) 豊臣秀吉による小田原征伐の際は、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの豊臣勢の3万名を超える兵に包囲されました。北条勢は約3,000名の劣勢で約1か月の籠城戦を戦ったのち、城兵の助命を条件に開城しました。


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鉢形城の本曲輪。


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二の曲輪と三の曲輪の景色です。
鉢形城は北条氏の関東支配の拠点だけあり、各々広大な、本曲輪、二の曲輪、三の曲輪の他に、笹曲輪や逸見曲輪などの脇曲輪が連なっており、それらを空堀や馬出が守る要害の城です。
遺構も、よく残り、整備されているので戦国期の城が好きな人にはお薦めです。


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樹齢約150年のエドヒガンの木で、鉢形城の桜と呼ばれる銘木です。


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鉢形城跡の地図です。

また、攻城記の方に鉢形城の攻城記を紹介しています。


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帰りは東武東上線の玉淀駅から帰りました。


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17:20に玉淀駅を出ました。
夏場は日が長いので旅行に良い季節ですね。


終わり

小田原攻めに行って来ました その3 ~ 小田原城

2020年6月27日、小田原城に行って来ました。

豊臣秀吉の小田原征伐の本拠だった石垣山城と、北条方の秀吉への備えである総構を前回、前々回で紹介しました。今回はいよいよ小田原城を紹介します。

小田原城は、明応4年(1495年)[文亀元年(1501年)との説もある]に伊豆を支配していた伊勢新九郎(伊勢 宗瑞)(北条早雲)が大森藤頼から奪ってから、北条家の支配の元で拡張されました。
北条氏の時代は、居館を今の天守の辺りに置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としており、秀吉の小田原征伐でも八幡山の城が主郭となりました。

戦後、北条氏の領土は徳川家康に与えられましたが、江戸城を居城として選んだ家康は、腹心の大久保忠世を小田原城に置き、明治時代まで大久保氏の居城となりました。
大久保氏の支配下で、平山の居館部が近世城郭へと改修され、八幡山の旧城は放置されました。
ここでは、大久保氏の支配下で近世城郭として整備された部分を小田原城。中世城郭の遺構が残る八幡山の部分を小田原旧城と呼びます。


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まずは近代城郭の小田原城の入り口、大手門跡です。
大手門は、櫓門と冠木門による桝形虎口となっており、冠木門の前には長方形の馬出も設けられていました。門の中は小田原城の三の丸で、藩の重臣の屋敷が建っていました。
なお、現在の鐘楼は、大正時代に櫓門の北側の石垣跡に建てられたそうです。


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大手門を抜け真っすぐ歩くと、水堀に当たります。左に行くと馬出曲輪へ入る馬出門(写真)に行く事ができます。門正面の高麗門を入ると、桝形を左に折れ、馬出曲輪に向かいます。
馬出門は平成21年(2009年)に復元されました。


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こちらが馬出曲輪の石垣です。


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馬出門の右側には水堀で区切られた二の丸があり、二の丸の隅櫓と、朱色の欄干が架かった学橋が見えます。なお、江戸時代には二の丸に直接入る学橋は無かったようです。

昭和10年(1935年)に関東大震災で倒壊した二の丸平櫓が隅櫓として復興されましたが、予算の関係で半分の規模になったそうです。


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馬出門正面の高麗門(左)を抜けると、その後にも高麗門(右)が続きます。


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馬出曲輪を進むと二の丸へ接続する銅門(あかがねもん)が見えてきます。
銅門も、石垣上の土塀に埋まり込んだような内仕切門と渡櫓門からなる桝形虎口となっています。

なお、馬出曲輪はその西側で御茶壺曲輪とつながっており、両曲輪で二の丸の西側を防御しています。


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銅門の櫓門です。
銅門は平成9年(1997年)に、古来の工法により復元されました。


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小田原城の二の丸です。
徳川家直参の大久保家の居城である小田原城は、本丸には徳川将軍家のための御殿があったため、藩主の住まいと政庁は二の丸に置かれていました。


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江戸時代の小田原城本丸は隣の御用米曲輪も含んで水堀で囲まれていました。
将軍家の御座所である小田原城の本丸は多聞櫓と渡櫓門からなる常盤木門で守られていました。


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常盤木門(ときわぎもん)は多門櫓(左)と櫓門で構成されています。
1971年(昭和46年)の復元です。(外観復元)


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常盤木門を抜けると、いよいよ本丸に入ります。
天守閣は昭和35年(1960年)に復元されました。
江戸時代の模型や図面を元に、基本的に外観を忠実に再現していますが、最上階の高欄付き廻縁は市の強い要望で史実に反して付けられたそうです。まあ、せっかく作るなら観光客が外を見渡せた方が良いですからね。

本丸は広く、北条時代は、ここに居住用の屋敷が建っていたのでしょうか?
前述のように江戸時代は、ここには藩主の御殿ではなく、将軍家の御所がありました。


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朝から石垣山城や総構を探索し、時刻は13時半になっていたので、本丸で昼食をとりました。
店員に勧められるまま、北条うどんを注文。
北条うどんは温/冷を選択できたので、私は冷うどんを選びましたが、スープは薄味ながら、梅干しや薬味のミョウガが効いて美味しかったです。
なお、昼時を過ぎているせいか、周りの客は食事をしている人はおらず、皆さんかき氷を食べていました。この日は、本当に暑かったです。


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冷うどんを食べて、元気も回復したところで、天守閣に登りました。
なお、小田原城の天守閣の瓦には、徳川家の家紋、三つ葉葵が入っていました。

天守閣の内部は撮影禁止なので写真はありませんが、北条氏の時代、大久保氏の時代の紹介や、小田原城の歴史等が紹介がされていました。


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天守閣の最上階から見た西側の景色で、小田原旧城が見えます。
右側に見える広い緑地が八幡山の古郭の東曲輪、その奥の高い部分に本郭がありました。
中央の奥に見える高い部分御鐘ノ台で、そこから左端の小田原短期大学までの尾根線に総構が築かれました。


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天守閣からの南西方向の景色。
中央左側に石垣山が見え、中央の高い山は箱根方面です。


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天守閣から南東方向の景色。
本丸と小田原の町、その奥には相模湾が広がっています。


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御城印はなぜか、天守台下に置かれたコロナ対策の体温測定用の仮設テントで販売していました。
天守閣の入場券は、天守台を登った天守閣入り口で販売していましたが。


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御用米曲輪は史跡の調査と整備のための工事で、中に入る事ができませんでした。
どのような形で整備されるのか、楽しみですね。
その際、御用米曲輪から本丸に入る、鉄門も再建されると良いのですが。


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本丸の見学後、城の南側に向かいました。
写真は馬出曲輪の西側に接続した、御茶壷曲輪です。
正面の土塁は土塀の基礎で、土塁が欠けた部分に門がありました。


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本丸南側にある蓮池です。
右の曲輪は、今は本丸とつながっていますが、江戸時代は本丸と水堀で隔てられた、独立した南曲輪でした。南曲輪の先の報徳二宮神社がある部分も、江戸時代は独立した小峰曲輪でした。


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御茶壷曲輪に入るための御茶壷橋。
現代は御茶壷曲輪から直接本丸に入る事ができますが、江戸時代は御茶壷曲輪と本丸は、水堀で隔てられており、馬出曲輪から銅門を通って二の丸に進むしかありませんでした。


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御茶壷橋を出て真っすぐ進み、かつての三の丸跡である三の丸小学校(そのまんまの名前ですね)の前を通って、箱根口門跡に行きました。
築城当時から江戸初期までは、ここが大手門だったそうです。


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江戸期の小田原城の想像図です。


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箱根口のそばには、山下汽船(現・商船三井)の創業者、山下亀三郎の別邸だった対潮閣の跡があります。「坂の上の雲」でも有名な、日露戦争で活躍した秋山真之は、同じ愛媛県の出身の山下亀三郎と親しく、何度もここを訪問したそうです。そして、大正7年(1918年)に虫垂炎が悪化し、ここで亡くなりました(享年49歳)。

ここからは、北条氏の時代の小田原旧城を紹介していきます。


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小田原旧城の主郭である八幡山古郭の東曲輪に来ました。
写真は東曲輪から見た小田原城天守閣です。


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住宅街をグルグル登って、八幡山古郭の西曲輪だった小田原高校の裏に着きました。
行先が良く判らないまま、とにかく坂を登って、左の道の下に着きましたが、そこからは階段を上る遊歩道になっていたので自転車を押して登ってきました。
右側の木が茂っている小山が八幡山古郭の本曲輪で、右の道を歩くと小田原競輪場に向かいます。


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私は反対の北に向かって歩きました。(自転車は押していますよ)
八幡山古郭の西曲輪は、今は小田原高校の敷地(左は高校のグラウンド)となっており立ち入り禁止。この道も高校の敷地内だと思いますが、旧城を散策するために遊歩道を一般に開放しているのでしょうね。


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草が多くて分かりにくいですが、八幡山古郭の北の端にある三味線堀跡です。
ここは西曲輪の虎口だったと思われます。


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小田原高校と小田原旧城の遺構を重ねた地図。


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小田原市の城山庭球場の駐車場です。
右の木の陰に見える建物は小田原高校です。


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駐車場から見た総構北側のある尾根線。
中央部分に百姓曲輪跡が見えています。

尾根の手前の低地は鍛冶曲輪と呼ばれた場所です。


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駐車場南西の森は旧城の三ノ曲輪跡で、中央の道を進むと城山公園に向かいます。
左の道を進むと小田原高校の西側を抜けて、競輪場方向に向かい、また右端の道を進むと、城山陸上競技場に下ります。


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小田原高校の西側を走る道です。
八幡山古郭(右側)と三ノ曲輪(左側)を切断するための、八幡山大堀切の跡です。
三ノ曲輪側は土塁が少し残っていますが、古郭側は全く残っていません。

上の写真は、朝、御鐘ノ台を歩いた後に撮ったもので、この先に進むとさっきの駐車場に出ます。


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少し手間の分岐を左に曲がると、城山公園や御鐘ノ台の堀切に向かいます。
これも朝に撮った写真です。


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城山公園です。
この辺りは、かつて毒榎平と呼ばれた地域で、小田原旧城の三ノ曲輪となっていました。
この道を進むと、御鐘ノ台の堀切に行く事ができます。


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城山公園の東側にある小峰配水場。
ここも、毒榎平の一部でした。


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駐車場から城山陸上競技場に下って来ました。
この辺りが、かつての鍛冶曲輪跡です。


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北側の坂を登って、百姓曲輪に来ました。
しかし、百姓曲輪の一帯は宅地開発が進んでおり、遺構は残っていませんでした。


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百姓曲輪に上る坂道のコンクリートで舗装している所は自転車を押して(笑)登りましたが、自転車を置いて、その先の未舗装道を少し歩いてみると、堀切と思われる場所に出ました。
方向的に、この堀切は総構の山ノ神堀切につながっていると思われます。
(私はここで引き返したので確認できていませんが。)


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百姓曲輪から見た、八幡山古郭です。
中央やや右側のコンクリートの建物が小田原高校です。

百姓曲輪の見学で、この日は状況終了です!
この後は、小田原駅に戻りました。


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小田原駅前の北条早雲の像。


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16:30、小田原駅から電車に乗って帰りました。
ロードと比べ、折り畳みのTern号は輪行が簡単です!

小田原旧城や総構は坂道ばかりで汗だくになりました。
でも、結果的にはTern号のおかげで、小田原城と総構を隅々まで回る事ができて良かったです。

おわり


小田原攻めに行って来ました その2 ~ 小田原城総構

2020年6月27日、小田原城に行って来ました。

小田原城は、明応4年(1495年)に北条早雲(当時は伊勢新九郎と呼称)が大森氏から奪って以来の北条家の居城で、上杉謙信や武田信玄の攻撃も防ぎ、難攻不落の城といわれました。
豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして北条氏討伐を決意、天正18年(1590年)に主力部隊だけでも15万の大兵力で攻略しました。

前回は、秀吉側の小田原城攻略の本陣だった石垣山城を紹介しましたが、今回は北条側の備え、「総構」を紹介します。


総構
小田原征伐の布陣図です。
北条側は秀吉の大軍に備えて、小田原城(旧城)だけでなく城下町まで組み込んだ全長9kmにわたる総構(緑の線)を築きました。
最初、総構の絵を見た時、なぜ西の早川や、東の酒匂川や山王川を防衛線にしなかったのか疑問に思いました。大きな川を防衛線にするのは定番と思うのですが。。。


石垣城から見た小田原城
その解の一つがこれです。
秀吉の本陣のあった石垣山城から見た小田原の町ですが、小田原は平地あると思い込んでいましたが、山が多いのです。南と東の一部を除き、総構はこの丘陵に沿って築かれています。やはり戦国期は山城が基本なのですね。
今回、広い総構を見学するのに折り畳み小径車のTern号を持って来ましたが、この丘陵が広がる景色を見た時は、テンションが下がりました。


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総構の南の角にあった、早川口遺構です。
名前の通り、早川に向いた総構の出入口で二重外張と呼ばれる二重の堀と土塁で強化されていました。


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公園の入り口は立派な野面積の石垣ですが、城の遺構とは関係無いと思います(笑)。


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早川に架かる新早川橋。
右手の橋げたの後ろに見える山は、石垣山城です。


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これが早川です。
無理に防衛線を広げるほどの大河ではないですね。


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光円寺の横にある、板橋見附。
ここは北条時代の総構で土塁が築かれていましたが、江戸時代に東海道を整備した際に土塁を壊して出入り口が造られました。
写真右の道は東海道(国道1号)で、現代の国道1号は直進していますが、東海道は東(写真奥)からきて、ここで写真左側に屈曲していました。


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板橋見附で曲がった、かつての東海道です。
最初、私はこの道が総構の外郭だと思って走っていましたが、間違っていました。

実際の総構は板橋見附から、東海道新幹線沿いを北東に向かい、途中で北に曲がって城山公園の方に向かっていました。


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この道は総構で無い事に気づいた後、掃雲台跡まで戻って、そこから住宅街の中をグルグル上り、総構の外郭(小田原城山サニーハイツの裏側)に到着しました。
写真は総構から見た石垣山城です。

なお、フロントシングルのTern号には、少々荷の重い上り坂でしたが、何とか足を着かずに(笑)上る事ができました。しかし、この日は蒸し暑い日だったので、登り切った時には汗だくになり、サイクルジャージで来なかった事を後悔しました。


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北条氏の時代の小田原旧城は、八幡山を中心に広がった山城でした。上の写真は三ノ曲輪の外郭、新堀土塁跡です。
この辺りは小田原旧城と総構が隣接しているところで、新堀(写真左側)は小田原旧城の外堀でしたが、その外側に総構の土塁が築かれ(写真右側)、堀は総構の内堀となりました。


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新堀から御鐘ノ台を見たところ。
御鐘ノ台は総構の西部の半島状に延びた山を土塁と堀で囲んだ部分。
小田原旧城の三ノ曲輪とつながるため、堀切だけでは弱いと考え、総構に取り込んだのでしょう。

右側は相洋高校のグラウンドです。


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小峰御鐘ノ台大堀切東堀。
総構では小田原旧城の三ノ曲輪と御鐘ノ台の接続を切るために、東、中、西の三本の堀がありました。
東堀は三ノ曲輪の外郭として元々あった空堀でした。

ここからは自転車は持ち込めないと思い、東堀の入り口に停め歩いて堀切を見学しました。


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右側が三ノ曲輪で、今は城山公園になっています。
左も曲輪となっており、その先に中堀があります。


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城山側から見た土塁です(この左側に東堀があります)。
今は2mぐらいの高さの土塁ですが、当時はもっと高い土塁だったようです。


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小峰御鐘ノ台の大堀切西堀です。
御鐘ノ台の東端を守るために築かれました。
写真奥には西堀に付属する土塁も見えています。


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そして、中堀に向かう道。


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御鐘ノ台と小田原旧城の三ノ曲輪を切断するために作られた中堀は、中に侵入した敵を攻撃するために、クランク状に屈曲しています。


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中堀の途中に東堀につながる道があり、その両横は曲輪になっています。


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自転車は東堀の入り口に停めたままで、取りに戻るのも面倒で、そのまま御鐘ノ台を歩きました。


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御鐘ノ台に残る土塁と空堀(左側)。


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途中にあったキリスト教墓地。


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墓地の手前の道を少し下ると、総構の空堀が残っていました。


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御鐘ノ台の先端から見た景色。この部分は水之尾口櫓台と呼ばれています。


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今は茶畑になっていますが、当時は物見櫓があったのでしょうね。


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御鐘ノ台(写真左)の南側を歩いて、東堀に戻りました。


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大堀切東堀で自転車を回収し、小峰配水場、城山公園などを回って東堀の北側(反対側)に移動しました。なお、先ほどは写真の奥側から歩いてきました(左側が三ノ曲輪)。


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さっきも歩いた、中堀の入り口です。
ここから、総構を北東に向かいます。


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稲荷森と呼ばれる場所は、総構の堀が地形に沿って弧を描いている部分で、総構の土塁、堀、そしてその先にある掻き上げ土塁(中央の馬蹄形の土塁)が綺麗に残っています。


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総構で桜の馬場と呼ばれた場所です。
畑の奥の緑の部分が総構の土塁です。


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山ノ神堀切跡。
山ノ神方面からの接続を切ると共に、南の百姓曲輪と連結し、桜の馬場や御前曲輪を守る役目もありました。
重要な堀切で、当時はもっと深い堀だったと考えられています。


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堀切を抜けて総構まで出る事ができます。
総構の土塁の下には空堀があったと思われる平地がありました。


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関東学院大学 小田原キャンパスへ下る道の周囲にも総構跡が残っているはずですが、良く判りません。


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総構の内側の道を回り、城山2丁目19番地と18番地が接する辺りに、小田原城の天守閣(中央左側)と八幡山の旧城(中央右側)の両方を見渡せる場所があります。

ここは小田原旧城からかなり離れていますが、ここまで丘陵地が続いており(写真右側)、その尾根に沿って総構が築かれています。


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更に北東に行くと、総構の城下張出があります。
城下張出は、総構に取り付く敵兵を横から攻撃するために(横矢掛りと言います)、総構えのラインから方形に張り出した場所で、今でもその遺構が良く残っています。住宅街の中にあるのに、よく遺構が残ったものです。

長い総構の中で、ここだけ方形の張り出しを設けている事から、ここは虎口になっていたと考えられています。


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城下張出の下の空堀です。
当時は北条氏が多用した障子堀になっていたと考えられます。


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城下張出の下から見た総構です。今は木が多いですが、小田原征伐の時は総構の土塁と空堀が見渡せたはずです。


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城下張出の堀から北に下ると、「めだかの学校」があります。
童話作家の茶木滋さんが、めだかの学校を作詞された地に、記念碑と水車小屋が造られました。
水車小屋の池には、実際にめだかもいました。


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総構は、丹羽病院の南から東方に延びていたようですが、平地部分には遺構がほとんど残っていないので、場所が良く判りません。
小さな丘陵がありましたが、恐らくこの丘陵沿いに総構は築かれていたと思います。


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総構の跡と思って小田原拘置支所(写真左)の南を通りましたが、実際は更に南にある少年鑑別所の北面に総構があったようです。


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遺構は残っていませんが、広小路の交差点には、かつて井細田口の虎口がありました。


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住宅の手前にある小川が総構の堀だった渋取川。
渋取川は、ほとんどが暗渠となっていますが、一部表に出ています。
今は細い小川ですが、江戸時代までは、もう少し川幅も広かったと思われます。


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蓮上院土塁に向かう道は、暗渠となった渋取川の上に作られてます。
かつては、右手に総構の土塁が続いていました。


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平地部分は、住宅街となって遺構がほとんど残っていませんが、蓮上院の東側には総構の土塁が残っています。

なお、土塁の途中が削れていますが、太平洋戦争の終戦間際の昭和20年8月13日に、米軍の空襲による爆弾の落ちた跡です。


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江戸見附跡は、江戸時代の小田原城の虎口の跡。
名前の通り、東海道が江戸に向かう外郭部分に桝形虎口が造られました。


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国道1号線(東海道)の南側の江戸見附跡。

また、江戸時代に、ここに日本橋を出て20番目の一里塚が建てられていました。


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山王川です。
かつての渋取川が、どの程度の川幅だったか不明ですが、山王川は川幅も広く防御ラインを設けるのに適していると思います。


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北条氏の総構では、少し南東にある万年公園の場所に山王口が設けられていました。


小田原縄張り
総構を歩くのに、現在の町のどこにあったのか、事前の情報収集に苦労をしましたが、現地で見つけた上の案内板と小田原城の公式ホームページにあったパンフレット

小田原城総構を歩こう


が参考になりました。

ドイツに住んでたこともあり、小田原の総構は、欧州によくある、平地の町を城壁(土塁)で囲んだものだと思い込んでいましたが、八幡山の小田原旧城と周囲の丘陵地帯を堀と空堀で連結した、広大な山城的構造で、秀吉も攻めにくかったと思います。
ただし、南と東に低地部分があり、そこは連上院に残る程度の土塁と堀で守られただけなので、本気で攻めれば、そこは簡単に抜けたのではないかと感じました。

小田原城に続きます。

小田原攻めに行って来ました その1 ~ 石垣山城

2020年6月27日、小田原城に行って来ました。

小田原城は、明応4年(1495年)に北条早雲(当時は伊勢新九郎と呼称)が大森氏から奪って以来の北条家の居城で、上杉謙信や武田信玄の攻撃も防ぎ、難攻不落の城といわれました。
豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして北条氏討伐を決意、天正18年(1590年)に主力部隊だけでも15万の大兵力で攻略しました。今回はその跡を追いました。


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まずは、豊臣秀吉の小田原攻めの拠点、石垣城を訪問しました。
少し早めに家を出て、7:50に最寄りの早川駅に到着。
この日は広いエリアを回る予定なので、Tern号を持って来ました、が。。。


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駅を出た後、近くにある早川口遺構に立ち寄ったのですが、話の流れが悪くなるので、次回紹介します。

JR東海道本線をくぐり、一夜城下通りを西に向かうと、東海道新幹線の手前に一夜城歴史公園の看板があるので、ここから城に向かいます。なお、一夜城は石垣山城の別名です。

8:06に石垣山城の攻城開始です。


堀秀政
石垣山城に向かう登城路沿いに、秀吉方で参加した人物(武将だけでない)の紹介の看板があります。
最初は、堀秀政が紹介されていますが、彼は小田原城の攻略戦中に病死し、この下の海蔵寺に墓があります。

このブログを書くのに、紹介された人物を再確認してみると、伊達政宗の名前がありました。
見逃した!痛恨です。。。


石垣城から見た小田原城
途中で振り返ると、小田原城が見渡せます。
今の小田原城は、江戸時代に小田原藩が使った平地部分だけですが、戦国期はその裏手の八幡山が主郭でした。
更に、小田原攻めの時は、豊臣勢に備えて、町全体を取り囲む総構の構造となっています。
上の写真では、このブログを書くに当たって、各遺構の場所を再確認してみました。


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登坂の途中、城を構成する石垣や土塀の模型が展示されていました。

なお、この石垣山城は、写真にも写っている滑り止め付きコンクリート製の激坂が多数(ほとんどとも言う)あります。フロントがシングルのTern号には荷が重く(エンジンの出力不足)、早々に押しました(泣)。

前の写真の景色を見た時も、景色の良さに感動するより、「山ばかり!」って思い、自転車を持ってきた事を後悔しました(笑)。


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石垣山城に到着。
前述のように、この城は一夜城とも呼ばれているので臨時の城塞と思ってしまいますが、長期包囲用に、約3〜4万人を動員し80日かけて作った本格的な城でした。

写真は城の主要登城口となる東口で、正面の南曲輪と右側の東曲輪で登城路を守っています。


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また、この城は関東で初めて造られた総石垣の城で、石垣山城の名前の由来となっています。
ただ、今は石垣の崩落も多く、かつての雄姿が判りにくいです。

南曲輪(左)と東曲輪(右)に守られ、更に奥で左に曲がる虎口となっています。


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南曲輪から見た駐車場。
右に見える大きな屋根は一夜城ヨロイヅカファーム(レストラン&物産館)です。


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西曲輪です。右側に見える石垣の上は本曲輪と天守台があります。


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山頂にある天守台と本曲輪(下の縄張り図の本城)。
最初から長期包囲を考えていた秀吉は、この城に、千利休や淀君も呼び、大茶会を開いたり、箱根温泉に旅行をしたりしました。


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石垣山の碑。
元々この山は、笠懸山と呼ばれていましたが、秀吉が総石垣の城を造ったことから石垣山と呼ばれるようになりました。


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馬屋曲輪から見た、本曲輪の山。


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馬屋曲輪から展望台に向かう尾根道。
大河ドラマ「独眼流政宗」で、伊達政宗と謁見した秀吉が、政宗に刀を預けて丸腰のまま小田原城の包囲の状況を説明したシーンは、ここがイメージされていると思います。
また、秀吉が徳川家康に対し関東移封を伝えたとされる、通称「関東の連れ小便」も、この場所がイメージされていますね。


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展望台の北側の木が高く、現在は西側と東側で一部の景色が見えるだけ。
東側は相良湾と小田原城の一部(写真左端に、かろうじて天守閣が見えます)が見えます。


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展望台西側は箱根(左方向)に向かう道が少し見えます。


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展望台に向かう尾根の東側には井戸曲輪があります。
名前の通り、井戸に下る道を、そのまま曲輪にしています。
なお、ここから北曲輪(奥に少しだけ見えています)を通って登城道に降りる北口ルートがありますが、この時は通行止めになっていました。


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石垣山城の縄張り図です。


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小田原城(古城)の三の丸外曲輪から見た、石垣山城(右よりの高い部分)です。
秀吉は、城の構築中は小田原城から見えないようにし、完成後に周囲の木を伐採したため、北条側には、まるで一夜にして築城されたかのように見せたとする話が残っており、一夜城の名もこれに由来しています。でも、どうなんでしょうね?これだけ離れているので、「一夜で築城」との劇的な演出(迫力)は難しいと思います。でも、これまで見たことが無い総石垣の堅固な城が造られた事が北条側の士気に影響を与えた事は間違いないと思います。

小田原城の総構に続きます。

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